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「現場の若者たちに聞く!重茂・高橋徳治商店の今」を開催!

生活クラブの職員には被災地を支えたいという気持ちはあるものの、日常の業務があるために現地支援に行く機会がなかなかありません。しかし東日本大震災により3月11日以前の「当たり前だった日々の暮らし」を奪われた宮城県や岩手県の提携生産者は、どのような試行錯誤を重ねて今を迎えているのでしょう。生活クラブ職員の労働組合である生活クラブ連合会労働組合はこのような意識のもと、被災した生産者を東京に招き、職員や組合員との交流会を企画しました。(2011年12月27日掲載)

被災した重茂漁協の施設 「3月11日の被災当日は、家族の安否を確認するだけでも大変でした。自衛隊や自治体よりも先に生活クラブ岩手のトラックが物資を運んでやってきてくれた時は、生活クラブってすごいなあと思いました。その後消防団などの活動で、1ヵ月近く行方不明者の捜索を続けて……。さすがに1ヵ月くらいたってくると、ああ、あの人はいなくなってしまったんだなあと感じる一方で、残された遺族のためにもなんとか見つけたいという思いでみんながんばりました。私も生まれて半年の甥っ子と、おじとおば、4人を失いました」
 肉厚わかめなどの生産者で岩手県宮古市にある重茂漁業協同組合・職員の齊藤義治さん(34)は、被災の状況を交流会でこのように明かしました。
 「現場の若者たちに聞く!重茂・高橋徳治商店の今」と題し2011年11月19日に開催された交流会。首都圏や愛知からも生活クラブの職員が集まるとともに、山梨や茨城、千葉、東京の組合員合わせて約70人が参加しました。
 主催した生活クラブ連合会労働組合の首都圏交流会実行委員長の沼尾哲也さん(生活クラブ連合会・品質管理部)は、「多くの職員が何らかの形で被災地を支えていきたいという気持ちを持っているが、特に日頃組合員と接することの多い若い職員は被災地に支援にいく機会がなかなか持てない。そこで、被災地の次世代を背負う若手の生産者を首都圏に招いて話を伺う機会をつくったのです」と交流会の趣旨を話します。
 今回招いた生産者は重茂漁協の職員2人と、おとうふ揚げなど水産練り製品をつくる(株)高橋徳治商店の2人。
 同じく重茂漁協・職員の大下博通さん(34)は、震災後の生産者の心境を次のように振り返ります。
 「約800隻あった船のほとんどを津波で流されました。残ったのはたったの14隻。漁師さんたちはもしかすると、家を流されたことよりも自分の生活の一部である『海に出ること』を奪われたことのほうが悲しみだったかもしれません。その思いをくみ取って伊藤隆一組合長が下した判断は大きかった。被災地の漁協のなかでいち早く船の共同利用という方針を打ち出し、中古船を中心に船を集めたことで、地元の思いが一つにまとまり再建に向かいました。さらに生活クラブ岩手が7月に重茂でおこなってくれたバーベキュー交流会に背中を押されたように、地元には笑顔や活気が戻ってきたように思います」
 現在、重茂漁協では天然わかめの漁や定置網、あわび漁などが再開しました。生活クラブの肉厚わかめとなる養殖わかめの準備も着々と進んでいます。しかし船の共同利用を実際に体験した際にはとまどいがありました。また、地震による地盤低下により海底も深くなっていること、津波により失われた資源を狙う密漁者がよそからやってくることもあります。被災前に比べるとさまざまな条件が悪くなっているなかで、少しでも暮らしを取り戻そうと努めて気持ちを奮い立たせているのが現状です。被災後に集まった船は約200隻で、被災前の数にもどるまでにはまだまだ時間がかかるのも事実です。

高橋徳治商店の工場の泥だし作業 招待したもうひとつの提携生産者である高橋徳治商店の横山宜彦さん(26)は、震災直後の津波の恐ろしさをこう話します。
 「社員を避難させてから牧山神社に避難しました。気付いたら山の下まで津波が来ていて……。その夜、石巻の工場地帯の燃料が爆発して燃え上がる地獄のような光景に、思わず涙が出ました。丸二晩、極寒のなかほぼ飲まず食わず。津波が引いた後の畑から、ヘドロまみれのネギを抜き、積もった雪で汚れをぬぐってたき火で炙って食べました。2週間後に本社の変わり果てた様子を見たときはとてもショックでしたが、高橋英雄社長の『がんばって、再建すっぺ』という力強い言葉に励まされて。正直、再建できるかわからなかったけれど、じっとしてはいられずに悪臭やハエと戦いながらヘドロの除去やダメになってしまった原料の廃棄などを続けました」

生活クラブ連合会労働組合は5月の連休を利用して高橋徳治商店のどろ出し作業など支援活動を行いました そして、高橋社長の息子である高橋敏容(としやす)さん(27)は、被災した家族の様子を見てある決断をしました。
 「被災後、東京での仕事を辞めて石巻にUターンすることを決めました。家族が苦しんでいたこと、記憶の中にあるまちの風景が消えてしまった……。自分のふるさとがなくなってしまったという喪失感、そしてガレキだらけのまちの上を自分の後輩たちが通学していく様子を見たときの痛み。なんて自分は恵まれていたんだろうかと……。そして、全国からボランティアでやってきて私の実家の工場のヘドロかきをする人々の姿を見て、このまま東京に戻って本当に後悔しないか考えたんです」。
 高橋徳治商店では本社工場の内部を徹底的に洗浄。その後、工場内の壊れている部分を修復し、工場の一部で「おとうふ揚げ」の製造を再開しました。被災から約7ヵ月のブランクを経て、かつての消費材の味を再現するのには大変な苦労がありました。しかもさまざまな労苦のすえに一部再開した工場も、将来的には西隣の東松島市へ移さざるを得ません。
 横山さんは「ゆくゆくは新天地でかつての製造ラインをすべて復活させ、希望する元従業員が同社に再就職できる状況にしたい」と思いを語りました。
 重茂も高橋徳治商店のある石巻の港湾も復興以前の問題として復旧の遅れが深刻で、先行きが不透明な状況に地元は大変苦しめられています。現在はガレキ撤去などの仕事が一時的にあるものの、将来的には従来あった水産業や水産加工の仕事が復活しなければ、被災地の暮らしは非常に厳しくなります。それをとても危惧している様子が両生産者の言葉にはにじんでいました。
 交流会に参加していた職員からは、生活クラブ千葉・佐倉センターの職員たちによる「おとうふ揚げ」の利用促進活動の紹介がありました。独自チラシやニュースを使いさらに朝礼などでの声かけも交えながらの活動で、「今後は天然わかめなどのアピールもしていく」との抱負が語られました。
 被災地の生産者たちが懸命に暮らしを取り戻すべく生き抜いてきた事実と、地域全体としては未だ復興どころか復旧もみえてこない現状について、直接話を聞くことで改めて知った職員などの参加者。「配達時に組合員から質問されて、自分の経験として自分の言葉で語れないのがもどかしかった。今日は直接話を聞けて良かった」、「被災地が元通りになるまで何年かかるかわからないが、『なくてはならない消費材』として消費材の利用点数・人員率を安定させたい」などの声が寄せられました。
 招いた4人の生産者も「生活クラブとの提携を通じて、皆さんのような職員や組合員とつながっていたことを今日、ここに来て実感することができました。今後ともどうぞ末永くお付き合いさせていただければと思います」と述べ、続く二次会では重茂漁協のわかめや、高橋徳治商店の「おとうふ揚げ」を使った料理をはじめ、職員が手によりをかけて準備した料理とともに懇親を深めました。

(文責:首都圏交流会実行委員・高橋宏子)