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<災害情報・第10報>「遊YOU米」生産者が高橋徳治商店に救援物資を届けました 3月23日16:30

山形県遊佐町の「遊YOU米」生産者が高橋徳治商店(宮城県石巻市)に救援物資を届けました

 3月21日(第9報)現地レポートでは、山形県遊佐町で遊YOU米を生産する共同開発米部会の5人が、3月17日(木)夜にお米やレトルトカレーなどを満載したマイクロバスで出発し、18日朝に(株)高橋徳治商店社長の高橋英雄さんが避難する宮城県石巻市の牧山神社に救援物資を届けたことをご報告しました。 「被災された生活クラブの組合員、生産者を励まそう!」の掲示板には、記事を読んだ多くの組合員から反響が寄せられています。このたび取材した共同開発米部会・会長の川俣義昭さんと広報部長の今野修さんからは、「私たちは物資を届けるために行ったのであって、自分たちの行為を伝えたいわけではない」と当初は情報発信することを固辞されましたが、「現地に行くことなどがで きず心配する組合員のために」とのお願いにようやくお話を伺うことができました。

「困った時はお互いさま」という運動の原点を噛みしめました

共同開発米部会・会長 川俣義昭さん

 3月11日(金)に東日本大震災が起こり、私の家は13日の夕方まで停電してしまいました。
 月曜日になって共同開発米部会で決めたことは、部会でカンパを募って生活クラブから遊YOU米を買いもどし、そのお米を生活クラブ連合会に依頼して被災された方々に用立ててもらうこと。そして、食べものを生産する者の責任として、現地に直接届けることの検討でした。でも、具体的に何をどこに届けてよいのか分かりません。そんな時に岩手県宮古市・重茂地区や宮城県石巻市に先遣隊として入った生活クラブ・岩手の大木敏正専務理事からの情報が入り、(株)高橋徳治商店社長の高橋英雄さんが避難する宮城県石巻市の牧山神社に行くことを決めました。
 高橋さんとは直接面識があったわけではありません。しかし、そんなことは関係ありません。私たちは生活クラブと提携する生産者の組織である「生活クラブ親生会」の仲間です。
 共同開発米部会からのカンパで物資を調達するとともに、山形親生会の仲間である(株)平牧工房からはレトルトカレーとサラミなど加工肉セットが、羽黒・のうきょう食品加工(有)からは漬物セットが救援物資として届けられました。また、私たちの所属するJA庄内みどりのAコープからも野菜セットの提供がありました。
 そのほかの物資は、大木さんから聞いた現地で必要とされているもの。反射式ストーブや携帯電話の充電器、肌着、靴下、紙おむつ、衛生用品、マッチ、軍手、ティシュペーパー、電池、タオル、ラジオ......。
 17日(木)夜に遊佐を出発し、避難している牧山神社に着いたのは翌朝7時頃。テレビで観るのと実際に目の当たりにするのでは避難されている方々の暮らしの印象は異なります。みなさんはざご寝状態で、「がんばってください」と伝えるのがやっとでした。
 実は私の娘が仙台に住んでいて、被災して数日後に会社の同僚や家族など8人で遊佐に避難してきました。そのうちのひとりの方から、「車で避難しようとした ものの津波がせまってきたので車を棄てて逃げた。ふと後ろを振り返ったら車がのみ込まれていた」という話を聞いていました。被災された方々のお話を聞いた わけではありませんが、たぶん想像を絶する経験をされたのでしょう。
 そんななかで、高橋社長は約130人いる被災者のリーダーとなって秩序だった避難生活を構築されていました。その取りまとめる能力に「すごい社長だ」と感心したしだいです。
 私たち共同開発部会は食べものをつくっている責任とそのために食料を持っている特長を生かして、物資を届けに行っただけです。けっして自分たちの行為を発信しようと思ったわけではありません。これが正直な気持ちです。
 私たちと生活クラブはお互いの運動に共鳴して何十年も提携をしています。その運動の原点は、「つくる手もたべる手もいっしょ」であり、「困った時はお互いさまで助け合う」ことではないでしょうか。私は今回の経験を通じて運動の原点を噛みしめました。
 そして、食べものは生命の原点です。いつ何があるか分からないなかで、食べものの価値と生産する責任をみんなで考えたいと思いました。

「伝える使命」と「撮ることの罪悪感」に引き裂かれて

共同開発米部会・広報部長 今野修さん

 まだ雪が舞う17日(木)の午後7時30分に遊佐をレンタカーのマイクロバスで出発。メンバーは共同開発米部会・会長の川俣義昭氏、副部会長の緒方長輝 氏、企画部長の阿部浩氏、総務委員の佐藤勇人氏と私の5人。道路は圧雪、アイスバ-ン、ハンドル握る手に多くの命がかかっています。
午前0時まで走り車中泊、早朝 5時に再出発し石巻に 6時10分頃に入りました。そして、交番で通れる道を確認して、いざ牧山神社へ。
景色がテレビで観る被災地の惨状になっていくのですが、自分で目にしたそのありさまに声が出ません。表現できません。戦争は知りませんが、「戦後の状況と はこのようなことなんだろう」との思いを振り切るように運転に集中し、雪の残る山道を進みます。車がいったん止まると動かなくなる、登れなくなると聞いて いたので途中でバスにチェ-ンを装着し、18日(金)午前7時20分に到着しました。
すると、(株)高橋徳治商店の高橋英雄社長が出迎えてくれました。そして外にいる方々とみんなで物資をバスから運び出しました。
実は私は開発米部会の広報部に属しており、遊佐を出る時「写真を撮ってきて」と頼まれていたので、何枚かは撮りました。でも、同行してくれた佐藤勇人君に も撮影を頼みましたが、やはり「心が痛む、とてもカメラは向けられない」と言われ納得しました。
物資を提供してくれた方々に報告する義務もあるのですが、あの状況で写真を撮ることに罪悪感を覚えてしまったのです。カメラのファインダーを覗いているときは被災者の方たちに寄り沿う気持ちでも、私たちには今日帰ったら温かい食事と休む家があるのだ...

 高橋社長がみんなで「お礼を言いたい」と、私たちが休んでいた建物のふすまを開けた時に、並んでいた被災されたみなさんの顔々。その光景がいまも眼が焼き付いています。
小さい子どももいました。あのときは、お菓子や何かを持って来てあげれば良かったと本当に後悔しました。明るくふるまう子どもを見ていると涙が出そうでした。寒さで口びるが荒れていた子どもにポケットにあるリップクリ-ムとのど飴を渡し、「これしかないけどごめんね、仲良く分けてね」と言うのが自分にできた精一杯のことでした。
「本当に本当にありがとう」。子どものお礼の言葉が胸に刺さりました。あの時の笑顔に......。
そして、午前9時過ぎに現地を出発。山を降りた所でチェ-ンを外し帰路につきました。日が差しようやく明るくなってはっきりと見てきた被災地の現場、一生 忘れることはないと思います。被災地の現場、避難所、あの日から毎日夢に出ます。テレビで被災者の状況を見ると涙もろくなった自分がそこにいます。
実は石巻市に住むいとこ、東松島市の叔父が被災し、音信不通の状態で他人事ではなかったのです。
いとこのアパ-トは津波で無くなっているが、石巻日赤病院で働いているので、震災当日は勤務しているはず。 叔父の家は津波の被害は免れたがその後音信不通。家の形はあるが人はいない。このような情報だけしかなく、複雑な気持ちで石巻に向っていました。川俣会長 のはからいで日赤病院に寄らせていただき、いとこを探しに行ったら実家に帰っているとのこと。でも、無事、生存を確認することができました。
物資を届けたのは良い話かもしれません。しかし、被災地で撮影するなど、公表したくない恥ずかしいことをした気持ちで自問自答の日々です。
ただ今回の救援物資の輸送に関して、夜の雪道の運転や治安の状況、二次災害などに川俣会長がすごく気を使っているように思いました。「わが部会長は頼りになる」、「この人の下で共に仕事ができて良かった」と感じました。

支援物資を運びこむ遊佐の共同開発米部会のメンバー

 

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