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<災害対策・第18報>口火を切る人がいれば必ず広がる【丸壽阿部商店】

▲かきの養殖地域

東日本大震災の大津波で甚大な被害を受けた岩手県南三陸町。その中でも「町が消えた」とまで伝えられた東部の歌津地区・田の頭集落に生活クラブの「生かき」の提携生産者である(株)丸壽阿部商店はあります。
メールと電話で阿部寿征社長と寿一専務ほか従業員の無事は確認されていましたが、現地で直接お会いして伺えたお話をお伝えします。震災直後から現地入りした『生活と自治』山田衛編集長と支援物資の搬入に向かった串崎均・生活クラブ山梨専務理事に話を聞きました。
 

 

 

 

壮絶な津波のきず痕を辿って

 三陸海岸は全国有数のかきの産地。(株)丸壽阿部商店は、南三陸町の歌津湾・志津川湾や気仙沼、それに「NPO《森は海の恋人》」の活動でも知られる唐桑などの宮城県北部の地域で育てられた原料かきを、清浄海水に詰めて出荷しています。

 

「私が現地入りしたのは22日。内陸部の北上から東に向かい太平洋に沿って国道45号線をひたすら南下するルートをとりました。釜石市内では給油のためにガソリンスタンド前に車列が出来る光景も見ましたが、釜石以南の地域に入ると光景が一変しました。沿道のスーパーやコンビニはすべて骨組みを残して跡形もなく、残骸のみが延々と続く荒涼たる光景。津波の威力がいかに凄まじいものだったのかと背筋が凍る思いでした」
 

「歌津もそうした荒野の只中にあって瓦礫の山に途絶えた道を眼前に茫然と立ちすくんでしまいました。薙ぎ倒された大型トラックや鉄筋の建物、陸地奥深くにまで打ち上げられた漁船… 数年前に取材で訪れたのどかな歌津の町は跡形もなく流し去られていました」
「阿部社長たちが無事だったとは聞いていましたが、歌津の中心部から田の頭のある半島突端部までの海岸線の道は流されていて、安否が不安になりました。通りがかった地元の方に聞いて、自衛隊が切り拓いたという砂利敷きの隘路に車を進めましたが、救援物資の搬入や瓦礫の除去のための大型車輌が入れるような道ではありません。たすかったとしてもその暮らしぶりはとてつもなく厳しいものではないだろうか」

歌津地区を含む南三陸町は被災前の人口は約18,000人。そのうち半分の9,000人以上が津波にさらわれたといわれます。亡くなった方の数は確認されただけで、およそ350名。市役所も多くの役場職員も住民基本台帳とともに流し去られ、いまは仮設プレハブ事務所で混乱の収拾に奔走していると報じられています。その努力のいっぽうで国道の寸断で自衛隊等大型車輌の通行も難しく、救援物資の搬入だけでなく、瓦礫の除去・遺体の収容もままならないと言われます。

無事だった一同、しかし養殖の復活は数年がかりか? 

ほぼ無事だった加工場「ようやく辿り着いた田の頭集落の風景も似たりよったりの荒廃ぶり。車のナビゲーションはすでに方向感覚を失い、建物も道路も押し流されて、工場を探すには以前の記憶を頼りに小高い丘をめざして迂回しながら進んでいくしかありませんでした」
「高台の工場は少なくとも外見上は無傷のように見えました。さっそく近辺の避難所を捜そうとそばにいた二人の女性に訊ねると『この方が阿部さんのお母さん』」
 
 

田の頭集落の避難所「お母さんのお話では、地震発生時は工場稼働中であったため従業員は被害を免れることができ、かきの養殖場へ頻繁に出向く阿部寿一専務は、この日は偶然にも仙台市内での仕事で、難を逃れることができたそうです。阿部さん一家は難を逃れた集落の方々100名とともに泊浜生活センターにいまは避難されているということでした」
 貯蔵していた“かき”を皆で分け合って食べ飢えを凌いだという経験は、重茂漁協で「鮭を食べて飢えを凌いだ」話に共通している。
「避難した工場の被害は受水槽の破損のみ。しかし、ご自宅は集落の半数の家屋と同様に流され、大事な会社の書類なども流出してしまったとのこと。田の頭集落は南三陸町全体から見ればまだ被害は少なかったとは言え、600人のうち死亡・行方不明が10人以上はいると推定されていました。」

「そして何より暮らしの糧である三陸のかきは、養殖場が壊滅的な打撃を受け、種かきの採苗から始めて出荷ができるようになるには普通でも2~3年、生産が軌道に乗るにはさらに時間がかかるかもしれないとおっしゃっていました」

支援物資を届ける~遅れる公的救援 

 津波に打ち上げられた養殖施設このような状況のなか、3月24日に岩手単協の組合員の佐藤直子さんや山梨単協の串崎均専務理事、神奈川単協職員の伊藤淳さんが、緊急支援物資をトラックに積んで訪問しました。搬入したのはレトルト食品、お茶、毛布、ロールペーパー、マスク、軍手、消毒薬など提携生産者から提供されたものや生活クラブ岩手の組合員が集めてくれたもの。レトルト食品は炊き出しなどで疲れていた地区の人々が欲しがっていたものでした。
 串崎さんが阿部副社長から訊いた話では、この地区では地震が発生以来、道路が寸断されて孤立状態が続いていました。そのため救援物資は自衛隊のヘリコプターによる搬送で、普通車が通れる道ができたのは生活クラブが入った23日当日になってから。この道は地元の建設事業者が砂利を敷いて整備したといいます。なお、最近は米軍のヘリコプターも支援に飛来するようになっています。このように届けられた支援物資は、町内会長を中心に家で避難する人にも平等に分けられます。
 ライフラインは依然、断水、停電の状態です。飲料水は自衛隊や米軍からのペットボトルの水に頼らざるを得ませんが、生活水は井戸水を使うとともに、避難所では小型船の発電機を使って電気を賄っています。また、各家庭から灯油を持ち寄ることで暖房も充足しています。そして、ここはワカメの産地でもあるので、茹でる装置を風呂代わりに利用しているといいます。
  

高齢化した被災地~「若い自分たちが復興の口火を切ります」

 阿部寿一専務は「多くの人は個人事業主である漁師なので他人の言うことはなかなか聞きませんが、生きる力はとても旺盛です」とお話しになりました
 その反面、地区の半分以上が高齢者で、家も生産設備も流されたために復興に立ち上がる気力がわかない向きもあります。
 それでも、阿部さんは次のように抱負を語ります。

「たしかに50代以上の人たちの心は折れそうですが、40代は元気に再建を考えています。松島から気仙沼、岩手県山田までの生産者とは横のつながりがあるので、小さな集落ごとの再興というよりも三陸全体の再興を目指したいと思います。そのためにもできるところからかきの生産を再開し、隣の産地、そしてその隣の産地へと良い影響を与え合いたいです。口火を切る人がいれば必ず広がるはずです。だから、自分がその役割を果たしたいと考えます。死ぬ方と生きる方に分けられて、自分は生きてしまったのだから、それが生きた者の使命だと考えています。こんな辛い思いをしたのだから無駄にはしたくありません」
 今回の悲劇を「町を一からすべて作り直すチャンス」と捉えようとする阿部さん。支援物資を運んだ串崎さんは、「阿部専務の前向きな話を聞き、生活クラブとしてはこれからも提携を続け、支援を惜しまないと伝えました」と話します。

 

【阿部寿一専務からのメッセージ】

 この度の震災で組合員の皆様、親生会の皆様からのご支援に感謝いたします。津波で道路が寸断され陸の孤島と化した地域に生活クラブの皆さんが来た時にはとてもビックリしました。
 当社が立地する南三陸町は、主要官庁の庁舎を含む街全体が壊滅したため、さまざまな手続きができない状況になっています。自衛隊もまだ当地区には入っていないため地元の建設業者や消防団、地域住民の協力で最低限の生活道路を確保しました。電気、水道、固定電話の復旧もまだなので、昨日、岩手県の一関市まで発電機を借りに行き工場事務所は自家発電で電力仮復旧しました。地震で破損した受水槽もなんとか自力で仮修復し、水は近所の住民の方から井戸水を分けていただいて水道、水洗トイレも使用できるようになりました。生活クラブから来た物資を地域避難所に提供したためか地域の皆さんとても協力的でした。
 社員、家族全員無事で、妻と1歳6ヵ月の長男は仙台の妻の実家に避難させています。父(社長)母、92歳の祖父は自宅を津波で流されたため避難所にいます。社員も全員が家を津波で流されて避難所生活をしています。現在、社員への休業補償手続き、工場の復旧、被災した自宅の片づけ、母と祖父の避難所からの脱出の説得に奮闘しています。
 5年かかるのか10年かかるのか分かりませんが、せっかく生かされたんだから「なるようになっちゃ」と思って日々活動しています。一日一日がとても早いです。被災地以外の皆さんも停電や物資の混乱で大変な状況になっていると思います。どうか皆様もお体には気をつけて。
 仙台の妻の実家より送信しています。これから南三陸町へ戻ります。

2011/04/01 阿部寿一
 

 

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