ニュース&トピックス

 ニュース&トピックス一覧へ

<災害対策・第33報>"チェルノブイリ"の教訓1(『生活と自治』1986.10)

 1986年4月26日に旧ソ連=ウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故の際も、生活クラブは消費材の放射能汚染対策をはじめさまざまな対応を、組合員で議論しながら時間をかけて行いました。そのときの経験は今回の「東京電力福島第一原発事故」の問題を考えていくうえで貴重な教訓となると考え、当時の『生活と自治』の記事を何度かに分けて連載していきます。
 第1回目は折戸進彦・連合事業委員長へのインタビュー記事「こんな時こそ《不安》の共同購入を」(1986年10月号)を再録します。


こんなときこそ《不安》の共同購入を

折戸進彦 連合事業委員長(当時)

 

対応が遅いという声も

今回の事故に関して、生活クラブの対応が遅いという声もありますが

 率直にいって、政府発表の範囲で肯定、または否定する材料を何一つ持っていませんでした。こういう事故に対する調査機能も不備でしたし、公的機関に検査を依頼しても満パイ状態で、データーを出すにも時間がかかりました。この状況で、憶測の形で見解、方針を出すことは避けたいと思ってきました。
 私たちは今までも、近代科学がもたらす汚染が地球全体に広がっていると警告してきました。しかし、多くの人はこうした警告に鈍感で、語り合うこともなく、一時的な安心感に身を浸してきました。この安心感がいかにいいかげんなものかを今回の事故が端的に示してくれました。こうした汚染を生活クラブが”救済”できるはずもありません。
 また、生活クラブが安心とか不安という見解を出しても無意味です。まず不安を語り合うことで、お互いに実感していくことが大切です。

しかし、現実には組合員から消費材への不安の声が各単協に寄せられました。

 そこで、『生活と自治』に調査活動に入ってほしいと要請しました。その結果、たとえ生活クラブの消費材が危険なものであったにしても、いっさい隠したり、安心感を与えるようなへんな意味づけはしないで公開してほしいと要請して、八月号の記事になったわけですね。
 知ってほしいのは、同じく調査活動に入った団体がたくさんありますが、自らの不利になる情報を公開した団体があることを他に知りません。生活クラブは利己的な形で不安を隠ぺいする態度はとりません。“自らの消費材の汚染も避けられないんだ”という不安を、身近な問題として感じてほしいからです。

“班会で勉強するのでもっと教えてほしい”という組合員もいましたが、意外に反響が少なかったです。

 班会で話し合うのは素晴らしいことですね。そこから不安を共有化することが大切です。しかしそうした我われの意図を全体化できなかったのは残念です。これでは政府の安全宣言に追随するマスコミの風潮に吸収されてしまいます。
 生活クラブの基本姿勢は、安心を売り物にすることではないし、“生活クラブに入れば安心な生活ができる”なんてもいっていません。もし、それを売り物にしていることがあったら、それは間違いです。むしろ不安を明らかにし、それを他者に伝えながら不安を掘り起こして直視し、共有化することが基本姿勢です。
 しかも、不安の解決を他者にゆだねないで、共有化した不安を自らの力で解決することを目指しています。今日の不安は、むしろ不安を他者と共有化できないことにあるんです。原発事故に限らず、すべての食品や衣料なども世界化し、そのため汚染も世界化していますが、そのことが何一つ明らかにされていません。これらの事実を確かめながら、改めて不安を掘り起こして直視していく必要があります。

牛乳を捨てた人もいたが...

一部には牛乳を捨てた人もいたり、牛乳やお茶の供給をストップすべきだったという声もありますが。

 そういう意見は勇気を持って提出していいし、飲まない人はそれでもいいと思います。ただ、それだけなら、安心を自分の範ちゅうだけで確保しようということで、不安を他者と共有して安全を求めていく姿勢とは、少し違うと思います。生活クラブは消費材の供給をストップしようという勇気はいつでもあります。経済主義から、今回ストップしなかったと考えてほしくありません。供給をストップすることで、あたかも正しい判断をしたかのようにアピールするような状況ではないし、そんなことで解決できることでもありません。また、そこまでひどい状況でなかったというのも“不幸中の幸い”です。
 ともかく多ぜいの安心している人と、一部の不安を叫ぶ人の両極端に分かれているのが残念です。潜在的、孤立的不安があっても、これを表現して他者とすり合わせることができなくなってきたんです。
 班の中でどんなことを材料にしてもかまいません。ぜひ今回の問題を話し合ってほしい、そういうことを話し合うための手段として共同購入をしてきたんだし、チェルノブイリ事故に対する不安の共同購入をやってほしいですね。そのことを通して、個人の自発性、直観力、感性によってもう一度、生活クラブを有効な組織にしてほしいです。

一人ひとりの潜在的不安感は大きくなってますが、それが大きな声、運動になりにくい状況がありますね。

 原発反対を唱えるにしても、科学論争、安全論争をして相手の土俵に上がるよりも、身近な生活のエネルギーを見直す必要がありますね。エネルギーの総消費量がこれからも無限に伸びるという前提で原発をどんどん作っています。しかし、実際の我われの生活を見直すと、放射能汚染の危険をおかしてまで、これからも無限にエネルギーが必要でしょうか。
 生活クラブは必要のないエネルギーを減らすことを様ざまな形でやってきました。玉子のケースをなくしたのも、ウィンドレス鶏舎にしないのも、合成洗剤から石けんに替えたのも、みんなそこにつながっています。こうしたことは人間を信頼し、多ぜいの人たちと協同することで可能になりました。一人ひとりがバラバラで生きるほどエネルギーがたくさん必要になるんです。原発に頼らないで生きようとすることは、つまるところ自分の生活をどうするか、自分でできないならどう解決するのかということですし、我われのやってきた運動の意味を再発見する契機にもなります。我われのやってきた生活実感を通して、他者に呼びかけていくことが、いま大切なことだと思います。<終>


<<災害対策・第30報>>福島第一原子力発電所事故に関する見解

ページの先頭に戻る