地域発・夢の素描

「2017年夏 長崎・広島・東京」

2017年12月号

台風の余波を受け、今年8月9日の長崎市は雨の夜明けを迎えた。その雨も「平和授業」が市内の小中学校で始まる午前8時過ぎには小降りとなり、原爆投下時刻の午前11時2分の黙とうは薄い雲の下で行われた。会場を埋めた5千人余の参加者はしめやかに犠牲者を慰霊し、核兵器のない世界を願った。

今年7月、国連は核兵器禁止条約を122カ国の賛成で採択した。「ヒバクシャ」の苦しみや努力が結実した条約だったこともあり、会場の雰囲気は厳粛ではあるが、どこか心弾む気色が秘められていたように思う。

田上富久・長崎市長の平和宣言が、核兵器禁止条約の交渉に参加しない日本政府を強く批判するものであったのに対し、政府を代表する首相の演説は、ほとんど肩すかしのような内容だったせいだろうか。会場のあちらこちらから失意のため息が聞こえてくるかのようだった。

長崎で出会った乙女に

そんな慰霊祭の参加者のなかに2人の女子中学生がいた。
聞けば、生活クラブ生協北海道(本部・札幌市)の文化委員会が続けてきた平和活動の代表として、長崎に派遣されたメンバーの一員だった。この平和活動の費用は、主に生活クラブ北海道が実施する組合員カンパで賄われる。

女子中学生たちは組合員代表4人とともに2泊3日で市内各地に数多く残る被爆の跡を訪ね歩き、その厳しい日程の総仕上げに平和祈念式典に参加したという。空路の移動だけでも大変だろうに、旧高島町の軍艦島(端島)や各種資料館の見学、高校生1万人署名のメンバーや被爆者との交流など、ぎっしリスケジュールが詰まっている。

それが中学1年生の彼女たちにとって、いかに大きな心身の負担になるかと考えると、痛々しい思いがした。しかし、2人は、はつらつとして「高校生になったらまた長崎に来てみたい」と瞳を輝かせた。

疲れていないはずはないだろうに、きっぱりとした口調で話す彼女たちを見つめる4人の組合員の表情には、確かな手応えを感じている者がみせる静かな自信がうかがわれた。わたしの心も、さながら「キック」されたような衝撃を受けていた。

そうか、そうだよなとひとりごちる。生活クラブは購買力を結集して商品社会に対抗する共同購入の仕組みを生み出すだけでなく、原水爆禁止運動への参加という社会的な活動を通し、個々人の意思の「もうひとつの結集」を実現させ、それを支える多くの組合員がいることに、心底励まされる思いがした。

30年前、広島で

俗に「怒りの広島、祈りの長崎」というそうだ。確かに、わたしのように平和活動への参加経験が乏しい者が現地に足を運んでみても、広島の晴れやかな平和式典に比べて、長崎のそれはこじんまりした印象を受ける。ただし、その手作り感に好感をもつ人も少なからずいるだろう。外交使節団の数の多さ、平和公園の広さ、老若男女を問わず外国人の多さ、平和団体や労組の参加者・幟旗(のぼりばた)の数、さらに原爆ドームなど、広島が表舞台に見える道具立てはそろっている。

今年の原爆忌も晴天だった。
8月6日の平和式典会場には、生活クラブ生協神奈川(横浜市)の組合員の姿があった。環境・平和委員会に代表として派遣された10人の組合員と「ヒロシマ子ども平和スタディーツアー」に参加する子どもたち12人だ。彼らはおおぜいの組合員の意思に支えられたカンパ基金を原資に広島を訪れているという。

8月6日の原爆忌の前後数日間、市内中心部ではさまざまな集会や講演会をはじめ、多くのイベントが開催され、広島は「原水爆禁上博覧会都市」に変貌する。生活クラブ神奈川の組合員たちは、それらのイベントに自主判断で参加し、組合員の子弟である子どもツアーの参加者は被爆者や全国の子どもたちとの交流など、みっちり詰まった日程を汗まみれになってこなしていく。

神奈川県に戻ってからも平和ツアーは続く。派遣された組合員は、同県内5つの地域の生活クラブ生協での報告会に参加し、子どもたちは報告文の作成に取りかかる。派遣する代表の立候補を募集し、最終決定するまでの手続きはもちろん、入念な合意形成に努めるため、広島平和行動は、どうしても一年がかりの組合員活動になると聞く。

全国の生活クラブで原水爆禁止の平和活動が盛んだった30年ほど前、広島では生活クラブ単独の全国合同集会が開かれ、東京、長野、北海道、神奈川など各地の生活クラブの組合員同士が交流し、お互いを刺激し合ったという。世界的に原水爆禁止の機運が高まっている現在だからこそ、再び生活クラブ単独の全国合同集会が開かれる日が実に待ち遠しい。

東京で「加爆者」を思う

長崎から戻って間もない今年8月12日、「原爆と沈黙~長崎浦上の受難」というテレビ番組を見ていて、危うく椅子から転げ落ちそうになった。長崎の原爆忌に参加した軽い高揚感が吹き飛ばされ、まったく表面しか現地を見ていなかった自分の情けなさを痛罵されるような内容だったからだ。

爆心地の浦上は江戸時代からキリスト教徒が住み、その監視役とされた被差別部落が隣接して存在していたのを番組は明らかにした。江戸幕府の分断統治の仕組みは明治以降も続き、原爆の投下は差別をなくすどころか、被爆者差別、宗教差別、部落差別を積み重ね、人々に重い沈黙を強いてきたという事実を知らされた。つい最近になって、戦争と差別の受難への問い直しが始まったというが、「自分は長崎で何を見てきたのか」というじくじたる気持ちは容易に消えなかった。

その翌週に放送された「幻の原爆ドーム」は、広島の原爆ドームに匹敵する長崎のモニュメントである浦上天主堂が、保存派だった市長たちの変節によって解体された経緯を描いていた。またも頭を叩かれる思いがした。長い沈黙を破って発せられる鮮烈な証言は、原水爆禁止運動のあり方の根本的な見直しを迫っているのではなかろうか。

「被爆者」の反語は何だろう?  「加爆者」か?  核実験を続ける北朝鮮政府に対し、米国大統領は「あらゆる選択肢」で威圧し、この国の政府も「対話ではなく圧力」を主張して軍事同盟の強化に奔走している。わたしたちは「加爆者」「加爆国民」になってしまうのだろうか。狂気じみたこの世界の片隅で、来年の平和活動に向けて私たちはどんな準備をしたらいいのか。

 

文/フリー編集者 高瀬幸途
たかせ・よしみち 1948年生まれ。
太田出版・元社長。雑誌「社会運動」の元編集協力。
北東京生活クラブ組合員。

『生活と自治』2017年12月号の記事を転載しました。

【2017年11月15日掲載】