笑顔があやなす「豆の国」【高橋 昭博さん/嶋木 勝美さん】
提携が守った大豆畑
太陽が西を目指すに従い、十勝晴れの空が冷気を帯びていく。地平線のかなたから乾いた風がわき上がり、褐色に色づいた大豆畑をなぶりながら吹き抜ける。
その中を、低い音を響かせ駆ける4台の赤いコンバイン。
「ちょっと重たそうな音ですね」
豆の乾燥がまだ足りないと、上士幌町農業協同組合(JA上士幌町)販売課長の田島一之さんがつぶやく。
今期の作柄を占う試験刈り。水分量は少し多いが、実の仕上がりは悪くない。記録的な夏の暑さが春先の低温の影響をばん回したと、田島さんはほっとした顔をする。
「もっと気温が下がって、風が吹くといい。風が夜露を飛ばせば、豆が乾くし、刈り取りも進みます」
周囲の山々が紅葉から雪化粧へと向かうこの時期、生産物の小麦、ジャガイモ、テンサイ(サトウダイコン)、豆類の、いわゆる畑作4品の総決算ともいえる最後の収穫が行われる。農家たちは連日深夜まで働きづめの忙しさの中で、収穫の喜びに酔いしれる。
豆類は育てるのに手がかかる。とりわけ大豆は生育に時間がかかり、収穫適期がテンサイと重なる。雪が積もれば、収穫をあきらめるしかない。迫り来る冬との闘いだ。
1戸当たり40ヘクタールの耕作面積に対応するため、上士幌町では農業の機械化が進む。それでも、家族だけでごく限られた収穫適期に効率的に仕事をこなすのは容易ではない。だが新たな大型機械の導入は、農家にとっては重い負担を強いられることになる。
「だから、この仕組みをつくったんです」と田島さんはコンバインの群れを見やった。
上士幌町農業機械銀行汎用コンバイン大豆収穫利用組合(利用組合)。大豆を収穫する大型機械を共同で利用し、20代から30代の若手農家がコンバインを操作するオペレーターとなる。
農機購入の負担と人手不足を一挙に軽減するこの仕組みの誕生に深くかかわったのが、生活クラブとの提携だった。
「うちだけは」では
「平成の大凶作」が起きた1993年、日本中が米不足に見舞われたが、上士幌町の大豆も立ち直れないほどの大打撃を受けた。
ただでさえ"農家泣かせ"の大豆である。翌94年からは農産物の輸入自由化が始まり、大豆も対象になることが明らかだっただけに、 誰もが生産意欲を失っていた。
だが、上士幌町の大豆を求める消費者がいた。生活クラブの組合員である。
「産地として供給責任を果たそう!」。JA士幌町は独自の交付金制度を導入して農家を激励。さらに前出の利用組合の仕組みづくりを模索して、5年後の98年に実現させた。
現在、利用組合の組合長を務める高橋昭博さん(40歳)は就農した約20年前をこう振り返る。
「4年に1度は大豆が収穫しきれない年があった。せっかく途中まで育てたものを、畑にすき込むしかないと判断したことも。でも利用組合をつくって、今では毎年収穫できるようになりました」
副組合長の嶋本勝美さん(41歳)が続ける。
「農家が、農協の判断に信頼を寄せることを選んだ。この仕組みがうまくいったのはそこだな。きわどい年もあったけれど、雪の下になったことは一度もないです」
農協の担当者は、約200ヘクタールある町内の大豆畑の1枚1枚に至るまで、つぶさに生育状況を把握している。そして客観的な判断で収穫の順番を決める。利用組合は農協職員の立会いのもと、空模様をにらみながら、昼夜を問わず順次収穫を行う。
「うちの畑は雪の前に収穫したい。品質の良い豆がとれるよう、完熟の状態で好天時に収穫したい」これが農家の本音だ。しかし皆が自分の都合だけを主張していては、助け合うことはできない。
上士幌町の農家たちは気持ちを合わせることでそこを乗り越えた。その後、2007年には全国豆類経営改善共励会で団体として生産局長賞を受賞、現在では51戸が利用組合に参加している。
一番の味方は食べる人
現在、JA上士幌町では町内の酪農家から出るたい肥などを利用した土づくりや、減農薬、減化学肥料を目指して北海道が制度化して推奨する「YES・CLEAN・北のクリーン農産物表示制度」に登録するなど、常により高い目標を掲げて挑戦を続けている。
だが日本の農政は猫の目のように変わり続ける。10年からは環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加が議論の的になっていが、これにより輸入農産物の関税が撤廃されれば、国内農業は壊滅するとの見方もある。
田島さんは、静かに、かみしめるように言う。
「農家も私たちも、できる限りのことはすべてしている。とにかく消費者との信頼関係を強化して、産地として生き残ることに今後も全力を注いでいきたいです」
就農前にアメリカで農業研修を受けた経験を持つ高橋さんは、次のように話す。
「カリフォルニアに1年いましたが、砂漠の中で地下水と施設に頼った農業をしていました。150人を使うマネジメントや全米に流通させる販売方法は、代々家族経営で引き継ぐ農業とは全く違った。これを見て、自分はむしろヨーロッパの農家が選んだような、上士幌の気候風土にかなった未来に残せる農業を模索しようと心に誓ったんです」
現在は畑作4品を含む13種類ほどを手がけている。家族経営のだいご味についてはこう答える。
「家族みんなでやれるのがいい。朝、食事しながら農作業の段取りを妻と議論していると、子どもが時折意見を言ってくれる。ちゃんと分かって聞いていると思うと、うれしいですね」
高橋さんも嶋木さんも、「最大の理解者は妻。頭があがらない」と言う。嶋木さんが胸を張る。
「僕らにできるのは、除草や肥料をまく時期を的確に見極めて、農作業の手間を最小限に抑えること。それが一家の幸せにつながるんです。何よりも妻の笑顔が一番。女性に活気があるから、この地域に元気が生まれるんです」
幸せな家族の手で育てられた農産物を食べる。それは農業だけでなく、活力に満ちた地域を未来へつなぐことでもある。
希少な秋田大豆と、守り続けたドライパック缶
「豆の国・十勝の中でも寒暖の差の大きい上士幌町は、品質に優れた豆がとれ、希少な秋田大豆を栽培していることでも知られている。これは豆のへそと呼ばれる部分が褐色をした品種で、黒豆と並び称されるほど風味に優れ、低温に強いが、北海道内でも一部の地域しか栽培できない。一般的に市場に流通しているのは豆のへそが白く大粒の品種。加工したときの見栄えが優先されているという。
両者を食べ比べてみると、違いがハッキリと分かる。タンパク質の含有量の関係から、豆腐づくりにだけはあまり向かないとされているが、秋田大豆は味に深みが出るとして高品質の丸大豆醤油の主原料としても使われている。
この秋田大豆を手軽に味わうことができるのが、「大豆ドライパック缶」だ。これは蒸した豆を真空の状態で缶に密閉し、その後、加熱殺菌する製法でつくられる。新たな消費材として生活クラブが提案し、上士幌町農業協同組合(JA上士幌町)が1988年に開発したものだ。そのままで食べることも、サラダや、煮物に使うこともできる。
20年以上にわたる提携の歴史の中では、「平成の大凶作」以外にもこの消費材の存続の危機があった。
ひとつは1997年に社会問題となった環境ホルモンヘの対策の可否が問われたときだ。市販品だけでなく、当時生活クラブで流通していた缶容器の内面コーティング材にも環境ホルモン物質が含まれていたのである。対策ができなければ取り組み中止の可能性もあったが2年にわたる試行錯誤の後、課題を克服した「大豆ドライパック缶」は社会的な優位性、材の持つ運動性を語れる生活クラブの消費材を代表するもののひとつとして「Sマーク消費材」に認定された。
次の危機は2002年。50キロほど離れた十勝管内・幕別町の加工場が閉鎖されたときである。生活クラブの求める細かな要望に応じてくれる新たな加工場探しは難航を極めた。しかし苦労の末、約200キロ離れた伊達市に確保する。
JA上士幌町農産部長の茂木孝義さんは言う。
「自分たちの仕事が世のため、人のためになっている、自分たちの生産を期待している人がいる。農家にとっても、農協にとってもこれは何よりもの励み。だからみんな日々がんばっているんです」
『生活と自治』2011年2月号の記事を転載しました。