食の大切さ、重さを伝えていけるような「語る消費材」を作りたいという夢を持っています(高橋英雄さん)
水産の「現場」は過酷だった。だったと言うのは、20歳前後で昭和の戦中戦後を過ごし亡くなった父や母の話と、私の幼い時代の記憶をダブらせての「かすかな記憶と経験」だからです。
2011年1月22日、母を亡くしました。棺に入った母との4日半、みんなが寝静まった深夜に線香を絶やさずに、起きている私が手にとったのは、それより8年7ヶ月前に亡くなった(株)高橋徳治商店二代目の父の書いた『水産と72年』という本でした。
昭和30年代、夜中の3時、魚市場で父が買い付けたサンマやカツオを母が受け取り、母は大釜に湯を沸かしながら早朝から出社してくる若い者の仕事の準備でした。冬になれば体感気温はマイナス10℃以下の魚市場。加工場では軍手一つでマダラをさばき、血や脂で出刃包丁が滑らないようにガンガン沸騰したバケツに冷え切った手を入れて、軍手のぬめりを取りながらの作業が続きます。長靴の底には新聞紙を敷き、いくらかでも「しもやけ」がでない工夫をし、それでも全身から湯気が立つような仕事でした......。
旦那さん、奥さんと呼ばれ、働く人の家の中まで知っている家族経営。残業の時もみんなで加工場の中でドラム缶を切った中に薪を入れて燃やし、暖を取ったり軍手や汚れた作業着を乾かしていました。その匂いは加工屋さんの密集した石巻市のこの地区に集中。みんな同じ匂いで満ちています。臭いかもしれません。人手だけで機械がないからキツイ、魚の内臓やらで汚れて見た目に汚い、休むこともできず厳しいという状況だったようです。私もおんぶされて母の背から下ろされた時には、母の手元からの魚の返り血で顔が真っ赤だったとか。
おやつはカツオの心臓を茹でた物、サンマを煮て天日干にした物を私は小学生ながらダブダブの軍手をはめて魚の頭をとり、腹が空けばかじっていました。お菓子や甘い物はほとんどなく、着色料や保存料の入ったお菓子はだいぶ後になって出て来た記憶があります。母の入院中、85歳の母の手や足の爪を生まれて初めて切りました。こんな指でこんな足で戦ってきた人生、そして作られた水産加工品にはスタッフみんなの力がこもっていた様な気がします。また、懐かしさも含めて語れば、日々の食卓は素材が生きた食品と、粗末でも素材を生かし心を込めた知恵や工夫が生かされていました。
水産に限らず「素材が生きていた」加工品はいつからなくなってきたんだろうか。贅沢どころか、見たこともなかった食材や加工品が当たり前に出てくるようになったのはいつの頃からだったのか。昭和○○年という明確な記憶が今は定かではありません。車、テレビ、洗濯機などもどんどん出てきました。お金さえあれば、食べたこともないマグロもエビの刺身もタラバカニも全国や海外からどんどん入ってきました。そしていつからか素材感がなくなり、感謝がなくなりました。
社会学的経済学的な分析はさておき、10年以上前に築地の青果市場の部長と話をしていた時、彼が怒っていたのは、栃木県産のキャベツ大玉が一個30円と中国産の影響で暴落し、このまま続けば「本来の価値が分からなくなる!」と。苦労してきた初代から三代目の私も、その一部を身をもって体験してきました。市販品も食卓も、素材を生かさず、作り手の思いもなくなってきて、時に苛ついている自分にはっとします。価値って何でしょう。「使用価値」とは言っても、「生産価値」という言葉がありません。
昔と違い、せっかくの素材を効率やお金の為に無駄にしている漁業家。また換金の道具として素材があるから生産するという人たちに価値を言う資格も無いように思えます。家庭内食でさえ、時間や金額のことばかりを考え、家庭で作る人の「生産価値」が軽んじられています。一方、食べる側は“ハレの食事”がマンネリになり、食べられることに感謝するという当たり前のことも感じられなくなっていく。そうした手抜きと言われる食事をしてきた子供達の心は荒み反乱を起こしていると感じる人はどれ位いるのでしょうか。ものの本では、食事は手間がかかる(手間とは作る人の人生の時間を割き、思いやる時間)、その思いやる気持ちがこもった食を経験した子供達は、毎日毎食、自分が大切で必要とされていることを実感していくと言われています。
同じように悲しいのは、流通に携わる業界も価値を伝えてこなかったことです。加工品であれ、生産する価格には原料素材が大きな比重を占めます。しかし、加工品に素材を感じられなくなっています。水増し、増量材、それ故の合成添加物の多使用は、どんどん素材からはなれていってしまう昨今です。真剣勝負は販売先との商談現場にではなく、作り手が素材に耳を傾け吟味し生かしてあげる地道な努力と研究心で、素材を生かし語る食品作りの場にあるはずです。昨今のような状況が続くと、素材を感じて素材を思い、素材を生かす家庭内料理を通じての食べる側の感性もなくなっていき、悲惨な未来を生むと私は考えています。「寄る辺無い」まま荒れ狂う沢山の未来たちに向けて、まっとうな食を提供することは課せられた責任です。
当社は創業105年の歴史の中で、何度も何社も大手の下請けで土下座して仕事をもらい、合成添加物なんて使い放題の時期もありました。そして30数年前、素材を生かすことで添加物を無くした練り物を理解してくれた生活クラブ生協からは、沢山のことを学び、教えられました。また、“業界常識”と言われるものを覆しながら頑張ってきました。そして今、私どもは僅かでささやかではありますが、とても大きい食卓の上で、食自体の大切さ、重さを皆さんに伝えていけるような「語る消費材」を作っていきたいという夢を持っています。そんな夢を追いかけながら、次世代や未来につなげていきたいものです。
(2011年4月掲載)
※2011年3月以前に執筆されました
※掲載時期によりパッケージが現在のものと異なる場合があります