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生協の食材宅配【生活クラブ】
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再開を目指すかきの養殖業者は、「俺らにはここの海しかない!」と思っているはずです。その思いは私も同じ

 
 

 千年に一度という大震災と大津波に遭遇して、ここ南三陸町では多くの方が亡くなり、行方不明者の方もまだいる状況です。被災直後から、生活クラブの皆様から私たちだけではなく、地域で被災した人たちにも支援物資を届けていただき感謝にたえません。本当に有難うございました。三陸のかきの復活にはまだ時間が必要ですが、生き延びた人間の責任として少しでも早い復興をお約束します。
 私達三陸沿岸に暮らす民は津波被害からの復興の歴史でした。
 明治29年に起きた三陸沖地震に伴う大津波、昭和8年の昭和三陸地震による大津波、昭和35年に南米チリで起きた巨大地震によるチリ地震津波、少なくともこの約100年の間で3度の大津波を経験してきました。今回の震災で4度目です。昭和の大津波では被災した土地が宮城県から建築制限がかけられたため、被災した親類に祖先は高台の土地を提供し住宅再建を後押ししました。また亡くなられた方々の供養のため被災者の拠り所となる寺院の復旧にも尽力しました。当時、私の曽祖父は幼少の頃から体が弱かったため人並みに働くことが出来なかったと聞いています。現金収入も少なく、けっして裕福な生活ではなかった。昔は今のようにボランティアもいませんし、瓦礫を撤去する重機もありません。国や他人からの手厚い支援などもなかった。それでも立派に地域を復興させ家族を守り、今日の地域の発展の礎を築いてきました。
 3月11日の東日本大震災による巨大地震と巨大津波では私を含め14名の従業員の自宅が全壊しました。養殖施設、船舶を失い田畑は津波被害の塩害と瓦礫で4ヵ月経った今も仕事の見通しが立ちません。幸いにも一番大事な家族、従業員は無事でしたが残念ながら1名の従業員の家族、姉妹がまだ行方不明です。三陸沿岸部にあった大部分の加工場が被災する中、幸いにも加工場は津波被害を逃れました。一番大事なモノは奪わないから、加工場を活用して地域の復興のために生きろという天命だと思いました。三陸沿岸部の被災地は高度経済成長期に手に入れたものを巨大津波によって全て失いました。
 今回の震災で私の人生観は「360度変わった」と言えるかもしれません。「360度ではもとに戻っただけ、本当は180度では?」と思うかもしれませんが、自分の中では「360度変わった」という念を強くしています。というのは、震災から時間が経って世の中では何事もなかったかのように日常を取り戻しつつありますが、私を含め皆さんそれぞれ気持ちの中で何かが変わっていると思うからです。無くしたものといえば、家のほかには衣類や車に家財道具など言ってみればモノばかりと思えます。お金で手に入れられるものは失ったが、お金では買えないものは全て残った。もっとも私は42歳。まだ動けるし、家族を失っていないからそう思えるのかもしれませんが…。
原発事故とそれに続く放射能汚染問題は、漁業者にも「海洋汚染」という暗い影を落としています。ただ、頭の隅にその心配はあるのでしょうが「それどころではない」というのが偽らざる心境ではないのでしょうか。復旧、復興に向けて目の前のことを処理しなければなりませんから。
生活という観点で考えると、便利な生活を享受していた人たちが実は苦しい日常を強いられたのではないか、と思うこともあります。というのも、被災者のなかには水道が止まっても井戸水でなんとか凌ぎ、風呂もわかめを煮る釜を風呂代わりにしたり、震災前から燃料にはマキを使っていたり。燃料もガスではなくプロパンですから食事の煮炊きも可能―。震災前とあまり変わらない、そんな生活を送っていた人もいました。ところが、食料の買出しで仙台に行くと、スーパーで長蛇の列をなしているのはレトルト食品やカップ麺などの売場です。仙台でもライフラインが止まっていたからやむを得なかったのでしょうが、都会のように食料をはじめとして生活の一切を人に依存していると、それが遮断されたとき、「人はなす術がないのだ」ということを実感しました。
 震災から4ヵ月経った今でも、上水道から飲料水が確保できないため井戸を掘ることにしたのも、そのような経験が影響しています。

 被災を免れた工場は5月中旬から一部操業を始めました。製品は在庫として残っていたわかめやこんぶなど。それだけでは原料が不足するので、父親(社長の阿部寿征)のつながりから三陸産を確保しました。父親のネットワークが生きたのはそれだけではありません。工場の発電機が借りられたのもそのルート。あらためて、人のネットワークがいかに重要かを再認識させられました。
 かきの養殖業者や養殖施設も大きな被害を受けました。ただ地域差があり、石巻市・万石浦のように種牡蠣の8割が被災を免れたところもあります。また、気仙沼市の唐桑地区のように、ほぼ全滅状態にもかかわらず、幸いにして漁師が命がけで船を沖出しして無事だったために「今年中には養殖を再開させたい」と、意気込んでいるところもあります。漁師にとっては家、家族、そして船が生きていくうえでの3本柱。漁師にとっての船は、私たち水産加工業者の工場と同じように生活するための基盤です。それが残っていれば、たとえ養殖施設の復旧に多少の時間と資金が必要でも精神的打撃は少ないのかもしれません。
 いま、日本の水産業は高齢化の波が押し寄せてきています。かきの養殖業者も例外ではありませんが、その一方で震災前の養殖漁場は過密状態でした。被害が甚大だったために今後、再開をあきらめる人、残る人がはっきり色分けされるはずです。残る人は「転んでも起き上がる」という精神的強さを持っていますから、業者数が仮に半分になっても、水揚げ量が半減するということにはならないでしょう。その人たちは「俺らにはここの海しかない!」と思っているはずです。その思いは私も同じ、心は被災していません。
地元の南三陸町は自治体機能、インフラは壊滅しゼロからの復興となりました。最低5年、10年はかかる大災害です。被災の程度により立ち直ることのできない方もまだ沢山います。そんな方々の分までも頑張る覚悟です。震災前に戻すのではなく経済と便利さを優先した過去を否定し、今回の震災の経験を生かし防災に備え、震災前以上の自然環境を取り戻し、自然の循環を活かし牡蠣の効率的な生産を復興し、地域で人々が幸せに暮らすための復興を目指します。そして今回の大震災でお世話になった生活クラブをはじめ全国、世界の方々に恩返しできるように家族、従業員、地域と力を合わせて必ず復興させる所存です。

(2011年7月掲載)


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