【大震災から2年】vol.4 共生地域創造財団「財団と出会わなければまだウロウロしていた」
東日本大震災では、生活クラブの組合員や提携生産者も大きな被害を受けました。生活クラブではグループ全体で支援活動にあたるとともに、第1次、第2次カンパに取組みました。現在の生産者や組合員の状況、これからの支援活動などを連載で紹介しています。
「大震災から2年」連載の4回目は、被災者支援と現地の復興と未来に向けた共生地域の創造を目的として、NPОホームレス支援全国ネットワークと生活クラブ連合会、グリーンコープ共同体の3者で設立した共生地域創造財団の活動をお伝えします。(2013年3月18日掲載)
養殖牡蠣は震災前に回復
被災者支援のための共同事業体としてスタートし、2012年10月1日に一般財団法人から公益財団法人へと組織変えした共生地域創造財団(以下・財団)。地域に根ざした活動を展開するためには、パートナーの存在が欠かせません。そこで財団は、東日本の広大なエリアをカバーするためにハブ的な役割を担い、物資や人員の拠点として機能し、50団体以上への物資の提供、また、支援アドバイザリーや連携促進など多くのプロジェクトに参画してきました。財団の理事でもある生活クラブ連合会の渡部孝之常務理事は、これまでの活動内容と特徴をこう説明します。
「財団は物資支援と漁業・農業復興支援、そして仮設住宅や避難生活をしている方を対象としたパーソナルサポート事業を主な活動に据えてきました。そのスタンスは『出会ったところでできることに集中』、『地域は創りあげるもの。出会った人と共に生きていきましょう』というものです。財団で東日本の広い地域の多くを支援するのは物理的・経済的に不可能でしたが、私たちが活動する地域や人々の多くは、支援の手がまったく届いていなかったのが現実でした」
その一つが宮城県石巻市牡鹿半島の入口にある折浜・蛤浜です。20戸以下という小さな漁村で震災前は牡蠣の養殖や定置網漁を行っていましたが、蛤浜では大津波で半数の家が全壊し、漁船も全て流されました。折浜でも牡蠣養殖に使っていた資材や船は流され壊滅的な打撃を被りました。
財団関係者がこの地域に足を踏み入れたのは震災直後の3月中旬から下旬にかけて。電気も水道も復旧しないなかで、人々は沢水で喉の渇きを、瓦礫を燃やして寒さをしのいでいた時期でした。物資支援の出会いから始まり、その後、瓦礫の撤去や牡蠣の種入れのために財団は人員を投入。その結果、2012年5月には殻付牡蠣の出荷にこぎつけました。今シーズンの養殖規模は震災前とほぼ同程度に回復。折浜・蛤浜区長の亀山英雄さんは、「財団と出会わなければまだウロウロしていた」と話しています。
イチゴ栽培を再開、加工用トマトを出荷
「出会ったところでできることに集中」という精神は、農業復興支援でも発揮されました。その中心地域は仙台市の南部に位置する亘理町で、イチゴをはじめとする果樹の産地として東北では有名な地域です。しかし、沿岸部に並んでいたイチゴのビニールハウスは跡形もなく流されてしまいました。財団は、再建の目途が立たない段階からいくつかのイチゴ農家の支援に入り、瓦礫や畑の中の異物の撤去、はてはイチゴ栽培再開に向けたビニールハウスづくりの手伝いなどの活動を行ってきました。
現在、震災前の規模は望めないももののイチゴ栽培を再開した農家をはじめ、野菜の栽培にこぎつけた農家、加工用トマトの栽培・出荷を実現させた生産者グループの支援を財団は続けています。
この亘理町で財団は、「手仕事」支援も継続しています。被災者を含めた亘理エリアの女性たちが始めた縫い物作りがそれです。地域に古くから残る贈り物文化として使われてきた巾着袋をモダンに「FUGURO」(ふぐろ)として再現しました。リンク(WATALIS https://ja-jp.facebook.com/Watalis)
手仕事では、女川町などの仮設住宅での生活を余儀なくされている女性たちが始めた「布草履」づくりの支援も続け、アンテナショップやコミュニテイの場として利用されているコンテナハウスの横に手洗所を設置するなど、伴走型支援でその輪を広げています。
財団の活動をより意味のあるものに
財団は産業支援活動にも取組んできました。その象徴が(株)高橋徳治商店です。土砂に埋め尽くされた本社工場の土砂の掻き出し、水に浸かり故障した機械の運び出しと洗浄、生産備品の修理や臨時生産ラインの手配などの作業を同社の社員とともに行ってきました。
高橋徳治商店社長の高橋英雄さんからもたらされたのが、石巻市北上町十三浜の窮状でした。地区の住民2,400人のうち80人近くが犠牲になり、地域の産業の根幹の漁業に欠かせない船舶の8割は津波で流されてしまいました。避難所生活、仮設暮らしのなかで「命を繋ぐことができたのは生活クラブからの救援物資」(宮城県漁協北上町十三浜支所運営委員会委員長の佐藤清吾さん)だったといいます。その後、復興の第一歩に向けて財団は他団体と連携してわかめの加工施設の整備を進め、2012年2月にはワカメの早生種の収穫が始まりました。
2011年3月中旬、NPOホームレス支援全国ネットワークとグリーンコープ共同体の2者でスタートした被災者支援事業体。生活クラブに協働の話が持ちかけられたのは余震もおさまらない4月でした。前出の渡部孝之常務は「当時は生産者と組合員の支援で手一杯。これ以上広げるのは負担がかかるのではないかと、個人的には悩みました」と振り返り、財団のこれからをこう展望します。
「当初、財団の活動は3年と計画していましたが、現状を考慮するととてもそれでは終わりません。支援先の復興が最優先なのはもちろんですが、その先にどのような事業展開をしていくのかという課題もあります。一方、生活クラブは2012年5月に、グループとしてまとまった支援を協議する場として『復興支援委員会』を立ち上げました。財団との関係をどう整理していくかもテーマになっていますが、財団の活動をより一層、意味あるものに仕上げていくために、コミュニケーションを深めながらつながりを深め、機能性が発揮できるように協議を進めていきたいと考えています」
生活クラブでは2013年度以降も、息の長い復興支援に取り組んでいく必要があることから、組合員のみなさんに「復興第3次カンパ」を呼びかけます。具体的な方法については、各単協のニュースなどをご覧ください。引き続き、ご協力をお願いします。