「被害者が加害者にならない」の想いを 水俣の甘夏みかんにこめて(高橋 昇さん)
生活の糧を海から山に求めて――
生産者グループきばるのはじまり
生産者グループきばるの会員が住む熊本県水俣周辺に、甘夏みかんが植えられたのは1950年。この時すでに、チッソ〈現・JNC(株)〉工場からタレ流されたメチル水銀は、不知火(しらぬい)海の魚介類はもちろん、それを食した住民にも深刻な被害を与えていました。会員は生活の糧を海から山に転向することを余儀なくされ、当時、流行ってきた甘夏みかんに救いを求めました。しかし、経済的に困窮していたために少しずつしか植えられず、それが生活の柱になるまでには10年を要しました。
1970年頃から水俣病患者支援運動が全国に広がり、多くの人たちが水俣に支援に入りました。私もそのひとりで、25歳の時に東京から移り住みました。自分の経験では、夏みかんは重曹か砂糖をかけなければとても食べられないもので、甘夏みかんもたいして変わらないという印象でした。本当に売れるかどうかは半信半疑だったと思います。
1977年に会を発足し、産直を始めたのですが、「被害者が加害者にならない」というスローガンのもと、農薬散布を減らしてできた見かけの悪い甘夏みかんを買ってくれる人がいるのか、とても不安でした。それでトラックを借りて、注文をもらった人や団体に直接、届けることで反応を見ることにしました。
日本一酸っぱい甘夏みかんを「頭で食べましょう」と組合員が訴え
そこで出会ったのが生活クラブでした。1977年に東京・神奈川で実験取り組みをしてもらい、1979年には全単協での共同購入となり、飛躍的に取り組み量が拡大することになります。77年は20トンだったのが83年には520トンですから、驚きました。
1977年から今日まで消費地交流会を毎年、欠かさずに行なっていますが、当初の交流会の熱気には忘れがたいものがあります。明らかに生産者の情熱よりも生活クラブの組合員・職員の情熱のほうが上回っていました。午前・午後と交流会をやり、夜はセンターで酒が入っての二次(交流)会。語られるのは生活クラブが目指すものと水俣とのつながりでした。甘夏の中味などはついで、という感じでした。
甘夏みかんの収穫は1月から2月にかけて、店頭に出回るのは4月です。それまで保存しておくには収穫前に防腐剤と殺菌剤を混合した農薬散布が絶対に必要です。それを使用しない、きばるの甘夏みかんは、どうしても3月の終わりまでに食べてもらうしかありません。それまでは3月取り組みだけでしたが、取り組み量が飛躍的に伸びた82年からは2月取り組みが加わりました。おそらく2月に食べる柑橘類としては日本一酸っぱかっただろうと思います。そこで組合員の人たちは「甘夏みかんは頭で食べましょう」と訴えたのです。私たちもその意気に応えるため、農薬の削減、有機肥料の開発、栽培技術の向上に力を入れ、甘夏の中味をつくってきました。消極的な会員には「何にも話さなくてもいいから、交流会に行ってもらう」ようにし、組合員の熱を感じてもらい、生産に反映させるということもしました。
無農薬栽培の実現をめざして
時は流れ、私は66歳になり、甘夏みかんの樹齢は40年を過ぎました。長年、使い続けた有機肥料の効果もあらわれ、ようやく自信が持てる甘夏みかんができるようになりました。もう頭で食べてもらわなくてもよい甘夏みかんになったと思います。
私は、無農薬栽培という目標を実現するために化学合成農薬の使用を止め、玄米酢とえひめAI(*)の混合液を散布する試みを2年前から始めています。70歳までに会員に勧められるものにしたいと考えていますが、体力と気力の釣り合いがとれるかどうか。今年(2014年)は会で一番若い人が取り組んでくれました。会員の農薬散布回数も平均3.8回となり、さらに減らす試みをしています。甘夏みかんだけだった品種も、しらぬい、スイートスプリング、グレープフルーツと増えました。この地で生きていくには、それなりに社会の変化に対応しなければなりません。しかし、栽培方法に変わりはありません。
先日、1980年頃から熱心に取り組んでもらっていた方から便りが届きました。そのなかで当時のことをこう書いておられました。「酸っぱくて、との苦情に頭を下げながら買ってもらった」と――。願わくば、頭で食べてくれていた方々に、今の甘夏みかんの感想を頭を下げながら聞いてみたいです。
(*)黒砂糖・ヨーグルト・納豆・イーストを混合し1週間寝かせたもの。愛媛県産業技術研究所が開発した環境浄化微生物資材で、水質浄化に効果があるとされ、きばるでは殺菌作用に期待をかけて使っています。
【2015年1月掲載】