【放射能検査なるほどコラム】福島第一原発事故を振り返りこれからを考える
東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故からまもなく7年。今だからこそ把握できる原発事故の経緯と、放射能汚染の状況をあらためて整理し、生活クラブの放射能対策と併せて振り返ります。
福島第一原発の事故の状況をあらためて振り返る
原発事故の当時は、情報も錯綜していて事故の全体像はなかなかつかみにくい状況でした。7年経った今も全容が解明されているとはいい難い状況ですが、今振り返ることで、「あのときはこういうことが起きていたんだ」と把握できることもあります。そんな視点で、事故を起こした福島第一原発の1~4号機の状況を、少し詳しく振り返ります。
【最初に水素爆発を起こした1号機】
<1号機の振り返り>
1号機は、3月11日14時46分の地震発生後、自動停止しました。しかし送電線からの電力供給がなくなってしまったために、緊急時の対応である非常用ディーゼル発電機を使って水で冷やす方法に切り替え。ところがこのディーゼル電源も津波により喪失し、炉心の冷却が困難に。本来は、この状態に至っても、「隔離時冷却装置」という装置で電源がなくても冷やせるはずだったのが、1号機はこの隔離時冷却装置をたまたま止めた状態で停電になってしまったために使えなかったという事実があります。このようなことが重なり冷却ができなくなり、圧力容器内の水位が下がって燃料の空焚き状態になり、建屋に水素が漏洩し爆発に至ったのが3月12日の15時36分ごろです。
<現状>
核燃料はすべて格納容器から溶け落ちて、一部は下のコンクリートも溶かしている状態。建屋の中の放射線量は一部で5000ミリシーベルト=5シーベルトもあります(1時間いると半分ぐらいの人が死んでしまうぐらいの高い線量)。建屋の上も線量が高く人が近づけないため、がれきが片付けられないままです。
【爆発はしなかったが最も多量の放射能を放出した2号機】
<2号機の振り返り>
2号機は、爆発はしなかったけれども4つの中でもっとも環境を汚染してしまった原子炉です。非常用ディーゼル電源が津波により喪失してしまうところまでは1号機と同じ経過ですが、2号機は当初隔離時冷却装置が働いていたために1号機より少し長く持ち、しかしいずれその注水機能も失われ、3月15日に中の弁が開いてしまい煙突からの大量の放射能放出に至りました。大量の放射能が出たのが高さのある煙突からだったので原発の周囲にいる作業員は助かりましたが、この量の放射能がもし下の配管から出ていたら、多くの作業員が死んでいたでしょう。高い煙突からの大量の放射能は、風に乗って海から内陸まで広い地域を汚染しました。
<現状>
核燃料はかなりの部分が格納容器に残っているが、半分ぐらいは下に溶け落ちているとみられます。中は線量の一番高いところが毎時80シーベルトを計測しています(そこに入ったら数分で人が死んでしまうぐらいの高線量)。
【1号機の2日後に水素爆発を起こした3号機】
<3号機の振り返り>
3号機は、1、2号機と違ってバッテリーが残り高圧注水を続けることができたのですが、結局はバッテリーが枯渇して1号機と同じように水素爆発に至ります。バッテリーが残った分1号機より2日遅く、3月14日に爆発が起こりました。水素爆発の白煙とほぼ同時に、真っ黒な煙柱が瓦礫とともに高さ数百メートルまで吹き上がる大爆発でした。1号機の爆発との違いについて、十分な解析がされていないことは大きな謎です。
<現状>
核燃料はほぼ全量が下に溶け落ちてしまっています。格納容器付近で4000ミリシーベルト=4シーベルトを超える高線量。建屋の上は片付けられて、燃料取り出しのためのクレーン設置工事などを行っています。
【大量の核燃料を燃料プールに保管していた4号機も爆発】
<4号機の振り返り>
4号機は地震発生時に定期点検中で運転は停止していたものの、原子炉の燃料が全て使用済燃料プールに取り出されていたため、この燃料プールが壊れたら大災害になるおそれがありました。煙突が共通だった3号機の水素が、4号機のほうに流れてきて3月15日に4号機も水素爆発に至ったと言われています。しかし、4号機の爆発時の映像がひとつも残っていないことも大きな謎となっています。
<現状>
大量にあった核燃料をすべて取り出し終わっています。
1~4号機の当時の様子をあらためて整理して振り返ると、例えば3号機が爆発した影響で2号機の注水ができなくなって2号機の放射能大量放出につながったり、3号機爆発後の水素が4号機の方にも流れたり、相互に影響して事態をより深刻にしていたことがわかります。原発1機であっても対処し難いのに、それをまとめて置いてしまっていることの恐ろしさを痛感します。例えば現在、新潟県の柏崎刈羽原発には7機の原子炉が並んでおり、その危険性も認識されるべきでしょう。また、事故前に原子炉メーカーは「原子炉は5重の壁で放射能を閉じ込めているから絶対に表に出ることはない」と言っていましたが、福島原発の事故では第5の壁まですべて失われたのが事実です。
津波の予測に適切な対策をしなかった政府と東電の責任
福島第一原発の事故では、津波で電源が失われたことが深刻な事態を招きましたが、これは予想できなかったことではなく、事故前の2006年に国会で質疑として取り上げられていた懸念でした。「原子力発電所の津波対策」「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」として、共産党の吉井議員から2回にわたり問いただされていた問題でした。しかし当時の第一次安倍内閣はこれを無視して対策を怠りました。また、東京電力も事故前から堤防を超える規模の津波予想を把握していたことがわかっています。しかし東京電力も対策を取りませんでした。このときに政府や東電が対策を行っていれば過酷事故は防げたと言えます。この重い責任は決して忘れてはならないでしょう。
原発事故で失われた国土の大きさ
東京電力福島第一原発事故は未曽有の人災ですが、日本の東側の海岸にある原発だったために、放射能の多くが西風で海側へ流れました。それでもその時々の風向きによって内陸にも多く流れ、放射線量が高い地域も生まれることになりました。事故直後に第一原発から20km圏内を立ち入り禁止の「警戒区域」としました。この20km圏内という範囲がどんなに広いかは、同じ距離を首都圏に当てはめてみるとわかります。原発を東京の真ん中に置いたとすると、大宮や春日部や川崎なども20km圏内に入ってしまい、20km圏内というのがどれだけ広い範囲か、どれだけ大きな面積の国土が原発事故によって失われてしまったか、ということが実感できます。
現在国が進める避難解除には大きな問題が
現在、福島第一原発事故による避難区域の解除を国が進めていて、避難区域は少しずつ狭まってきています。しかし、解除の基準となるのが、積算線量「年間20ミリシーベルト」ということは見過ごせない問題です。そもそもは一般人の線量限度は年間1ミリシーベルトと定められており、20ミリシーベルトというのは原発事故時の特別警戒下ということでやむなくゆるめられている数値です。その、いわば非常時の基準をもとに、年間20ミリシーベルトもの放射線量の場所に帰還することを国が強いるのはとてもおかしな話です。放射線被ばく量とがん発病の確率の関係で言うと、年間1ミリシーベルトは1万人に1人ががんを発病する線量ですが、20ミリシーベルトは1万人に20人ががんを発病し、そのうち半分の10人ががんで死亡するという確率の線量です。1000人に1人、つまり1000人ぐらいの規模の小学校があったらそのうちの1人ががんで死亡するような線量の場所ということ。国が今やろうとしているのは、そこに人を帰還させるという暴挙だということは問題にすべきでしょう。
食品の汚染に対し生活クラブは独自の検査を続けてきました
原発事故による食品の放射能汚染を受け、事故後、行政も放射能検査を行っていましたが、自治体によって検査数にばらつきがあったり、検査にかける品目にも偏りがあるのが実態でした。生活クラブでは、震災の直後から原乳をはじめとした検査を行い、その後自前の測定器を導入するなどして農畜水産物も加工食品もまんべんなく検査することに努めました。国の基準値より厳しい自主基準値も定め、10万件を超える累積検査数を重ね、利用者に安心と安全を届けられるよう現在もその体制を続けています。
*写真左:2016年に導入した高精度な検査可能なゲルマニウム半導体検出器
*写真右:生活クラブと国の基準値の比較 セシウム134と137合計値 単位:Bq/kg
全体を振り返ることであらためて、福島第一原発事故の甚大さ、被害にあった人々の苦しみ、今もなお続く事故処理の困難さが浮き彫りになります。7年の月日が経っても忘れてはいけないこと・忘れるべきでないことを心に刻みながら、生活クラブは原発のない社会をめざし、再生可能エネルギーを「つくる」、再生可能エネルギーを「つかう」、エネルギーの使用を「減らす」をかかげ、様々な活動を続けていきます。
【2018年2月9日】