「監視社会」のゆくえ――戦争に踏み込めば踏み込むほど、「監視」の法律ができていく
ジャーナリスト 小笠原みどりさん
「すでに暴走列車に乗っているような危険な状況に、いまの日本は置かれている」
朝日新聞記者を経て、現在はカナダのクィーンズ大学大学院で「監視社会」の研究を続けながら、ジャーナリストとして活躍する小笠原みどりさん。小笠原さんは、米国の世界同時監視システムの存在を2013年に告発した元国家安全保障局(NSA)契約職員のエドワード・スノーデン氏への単独インタビューを16年に発表、目にみえにくい現代の「監視」に警鐘を鳴らしている。
次々にすすむ国による監視体制
私は新聞記者だった1999年から、国家による個人の監視について取材を始めました。というのは、その夏の国会で、警察の盗聴に道を開く「通信傍受法(以下、盗聴法と記す)」や、国民総背番号制度と呼ばれる住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)をつくる法律が成立したからです。二つの法律によって国は個人の私生活に入りこみやすくなりました。
この動きは、2015年の新安保法成立前後から加速し、同年に住基ネット以上に国が強力に個人情報を吸い上げる共通番号(マイナンバー)制度が開始。2013年には特定秘密保護法、2016年は盗聴法の大幅拡大があり、そして2017年には「テロ等準備罪」の名で、私たちの日常会話を盗聴し、犯罪に問える共謀罪が制定されました。
こうして振り返ると、国が個人情報の収集によって、私たちの生活を監視する権限を格段に強めていることは明らかです。と同時に、監視法制が戦争体制づくりの一環として進んできたことも、はっきりとしてきました。
18年前に取材を始めた当時は、私もそこまで確信していませんでした。学生時代から表現の自由に関心があった私は、警察が人々を盗聴できるようになる盗聴法に気持ち悪さを覚えました。盗聴されているかも、と思うだけで、人は本心を言わなくなるものです。表現の自由を抑止する盗聴法には世論も強く反対していました。
ですが、盗聴法とほぼセットで成立した住基ネットの導入は、政府の狙いがなにか、よくわかりませんでした。恥ずかしながら法律が強行採決された後に、国民総背番号制とは何か、国が個人の情報を管理すると何が起こるのかを調べ始めました。
住基ネットは、市区町村で個別に管理している住民票に、国が一元的に番号をふり、電子ネットワーク化して住民票の個人情報を使えるようにしたシステムです。住基ネット構築のための改定住民基本台帳法案を作成した自治省(現・総務省)は「利便性の向上」を主張していましたが、どれだけ話を聞いても、住民にとってそれほど利便性があるとは思えませんでした。むしろ個人情報が目的外に使用されたり、漏れたりする危険が高まる。この点は、現在のマイナンバー制度も同じです。総背番号制というシステムは国民を管理する側にとってはいろんな目的に使え、制定しておけば将来便利だろうという漠然とした権限強化に突き動かされているようでした。むしろ情報技術産業がシステムを強力に売り込んでいることもわかってきました。
一方、住基ネットの問題点に鋭敏に反応し、最初に反対の声を上げた人たちには、戦争体験者がいました。この世代は、市町村が徴兵制度を効率よく機能させるため、各家庭を調べ尽くして召集令状を発行してきたことを皮膚感覚で知っています。国による徹底した個人情報収集の仕組みが若者を戦場に送り出すことを可能にしたという体験から、国民総背番号制を戦争へ近づく一歩ととらえ、徴兵だけでなく、政府の様々な動員に使われると危ぶんでいました。しかし、当時の私は「それもあるかな」と思いながらも、「戦争以外とのつながりもあるのでは?」と考えていました。あれから18年、この戦争体験者の見通しは間違いなく現実味を帯びて来ています。
目に見えないデジタル監視の広がり
いまや国家はメールやチャット、ウェブサイトの閲覧履歴、携帯電話の通話など、デジタル回線を通過する私たち個々人の情報を、秘密に収集するシステムを構築しています。この極秘監視網を告発したのが、米国家安全保障局(NSA)の元契約職員エドワード・スノーデン氏です。彼は内部機密文書によって2013年6月、NSAが世界中に張り巡らせた巨大な監視・盗聴システムの存在を証明しました。この監視網に、グーグル、アップル、ヤフー、マイクロソフト、フェイスブックなどのインターネット企業や、大手電話会社が協力してきたことに、世界中が震撼しました。
NSAは米国防長官直属の諜報組織で、「対テロ戦争」を始めたブッシュ政権から極秘裏に監視の権限を与えられました。戦争遂行のためだったからこそ、巨大な予算を獲得し、監視システムを開発することができたわけです。私は現在、カナダの大学院で監視の技術と歴史について研究していますが、この戦争という巨大マシンの一部として新しい技術が開発されていく、という側面は研究者の間でも見落とされがちだと感じています。というのも、デジタル技術の新しさと日常への浸透に目を奪われてしまうからです。
デジタル技術がなければ、現在のような大量かつ無差別の監視は不可能です。しかし、監視活動自体はデジタル以前から存在し、技術は一定の目的を持って開発されます。デジタルは通信のスピードを速め、距離を縮めましたが、すべての行動が記録されるという点で、非常に監視に便利なわけです。しかも、監視されていることが当事者の目には見えない。
たとえば私たちの発信するEメールをNSAが収集している、ということを実感するのはほぼ不可能です。これが封書や葉書なら、ポストに投函したものをNSAがすぐに開いて読んでいるのと同じことですよね。そんな監視は明らかに違法で、どんな人も感覚的にも許せないし、即座に「何するのよ!」と怒りが沸き起こるのが当然です。ところが、そんな権力の横暴な振る舞いがデジタルだから見えない。見えないから広がり、何年にもわたって強化されてしまった。さらに、無差別監視の実態が暴かれても、一人ひとりがリアルに感じにくいからこそ許されてしまっている側面があるわけです。
NSA監視システムに日本が巨額提供
2017年4月、スノーデン文書のうち日本に関連する内容が新たに公開されました。この文書は、NSA監視システムが戦争と一体となって配備されてきたことを明らかにしました。
*『サンデー毎日』8月13日号〜9月24日号で、この文書について小笠原さんの連載記事が掲載されています。
NSA監視システムは、日本国内の米軍基地を世界有数の監視拠点とし、日本政府はそのために巨額の資金を提供していることがわかりました。たとえば、米空軍横田基地(東京都)には、戦場で情報収集するためのアンテナ工場をつくり、人件費まで日本が支出しています。私たちの懐から出たお金でつくられたアンテナを使って、米軍はアフガニスタンやパキスタンで「標的」を襲撃し、殺害しているのです。
日本政府は実は国民に知らせぬまま、一貫して米軍基地の機能強化と、戦争に手を貸してきました。米軍基地が集中する沖縄も、その舞台です。1995年、米兵による少女暴行事件を機に、沖縄では米軍基地返還を求める声が高まり、日米両政府は「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置します。この結果、人口密集地にあり、「世界一危険な飛行場」と呼ばれる普天間飛行場(宜野湾市)の返還を目玉に、県内米軍11施設の返還を決定します。1996年のいわゆるSACO合意です。実はこのうちの楚辺通信所(読谷村)の返還について、日本政府が別の基地への新たな盗聴アンテナ建設のために5億ドル(約600億円)を払っていたことを、NSA文書は示していました。
また、SACO合意とほぼ同時期に、クリントン大統領と橋本龍太郎首相は日米安全保障共同宣言を発表します。翌97年の「日米防衛協力のための指針」を受けて、99年の国会で成立させたのが周辺事態法などの新ガイドライン関連法案です。つまり、日米間で新たな戦争協力が約束されると同時に、盗聴法、国民総背番号制、国旗国歌法など、国内の統制を強める法律が次々に産声を上げた、といえます。
そして12 年末に発足した安倍政権下では、集団的自衛権の合法化をはじめとする急速な改憲への動きのなかで、特定秘密保護法、マイナンバー制度、盗聴法大幅拡大、そして共謀罪という監視の強化が進んでいます。米国の戦争に踏み込めば踏み込むほど、日本に監視の法律ができていく。日本政府は戦争参加の体制を整えるために監視を強化している、という構図が見えてくるわけです。
私がそのことに決定的に気づいたのは、16年にスノーデン氏にインタビューした際、彼が「特定秘密保護法は実はアメリカがデザインしたものです」と話したからです。スノーデン氏は09年から2年間、横田基地で働いていました。その詳細については拙著『スノーデン、監視社会の恐怖を語る』(毎日新聞出版)に書きましたが、つまり、米軍という今まで見えなかった監視法制の背景が見えてきたわけです。日米関係には多くの密約があることが近年の研究で明らかになってきましたが、世界の通信の自由を脅かすNSAへの日本政府の協力も、スノーデン氏のような内部告発者や内部文書が出なければ、闇に隠されたままだったのです。
違法監視の実態を国民が知れば、実際に反対の声が上がり、戦争遂行に支障が出るのは当然です。だから監視法制の多くは、国会で民主主義的な議論を経ず、強行採決されています。その最たるものが共謀罪です。
明らかな政府批判は口にしないように、自己監視がはたらく
人々の日常的コミュニケーションを丸ごと盗める大量監視システムは、警察が共謀罪の捜査に使えば、恐ろしい威力を発揮するでしょう。だれもがもう、親しい人へのメールや電話ですら、安心できなくなります。無言の圧力を受けるうちに、「用心しよう」という気持ちが生まれ、明らかな政府批判は慎んでおこう、という自己監視がはたらくようになります。つまり政府にとって都合の悪い事実や感想は語られなくなる。放射能被害も過労死問題も子育ての悩みも、人の口にのぼらない事柄は社会的に認識されず、政治の課題にもならないわけです。政府にとって都合のよい情報操作も、監視によって可能だということです。
そんな極端な言論抑圧の時代が迫っているようにはとてもみえない、と思う人は多いでしょう。インターネットには情報があふれ、みんなが言いたいことを言っているようにみえる、と。でも、本当に火急に知るべき問題が伝えられているでしょうか。権力にとって都合の悪い真実は私たちの視界から遮断されていないでしょうか。そして私たちは、政治について友人、知人と正直に語り合える、自由な社会に生きているでしょうか。
カナダの大学院でトルコ出身の同僚たちと仲良くしていますが、トルコでは政権の独裁化が急速に進み、平和を求める宣言に署名した大学関係者や報道関係者が逮捕されたり、職を追われたりしています。パスポートを無効にされ、国内に閉じ込められている人もいます。民主主義国トルコで、まさかこんな急激に言論の自由が奪われるとは、彼女たちも予想していませんでした。私は同じ状況が日本で1年先、いえ今度の選挙の後、あるいは明日、一気に起きてもおかしくないと思っています。「まだ大丈夫」と私たちに思わせる情報の仕掛けがあちこちに張り巡らされています。目に見えない監視もその一部として、私たちへの危険信号を遮断しているのです。とても大丈夫なんて言っていられない、私たちはすでに暴走列車に乗っている、この行先をいま変えなくてはいけない、と心の底から感じています。(談)