自給率100%の飲用牛乳に赤信号 日本の酪農守るには
東京大学大学院農業生命科学研究科教授・鈴木宣弘さん
酪農家の廃業が相次ぎ、今夏にも小売店で販売されている牛乳が品薄になる恐れが出てきました。その背景には乳価を安定させ、個々の酪農家の利益を守るために機能してきた指定生乳生産者団体(指定団体)による「共販制度」の見直しと乳製品の輸入自由化があるといいます。( 詳細は前回参照)
世界の流れに逆行する日本の農政
――日本の酪農が危機的状況に置かれているというお話を前回伺いました。まさに「食」の生産基盤が揺らいでいるわけですが、いま消費者にはどんなことが求められていると思われますか。
消費者が何より警戒しなければならないのは、今の政治には国民が暮らしていくために不可欠な食料の国内生産を守っていこうとする姿勢がまったくというくらい感じられない点でしょう。カロリーベースで4割に満たない食料自給率の日本で、コメと飲用乳だけは完全自給に近い生産量を誇っているのに、それらをあえてつぶしていくような政策を政府は次々と打ち出しています。
その最たる例の一つが生乳の「共販制度」の見直しです。酪農家が搾ったままの状態で出荷する生乳は貯蔵による長期保存ができず、迅速な集荷と流通が求められる「生もの」です。そうした食材の特性を考慮し、整備されたのが指定生乳生産者団体(指定団体)による共販制度であり、指定団体は集めた生乳の用途別需要を予測し、出荷量をコントロールする方法で乳価の値崩れを防ぐ役割を果たしているのです。
生乳の用途は飲用と加工用に大別され、加工用は飲用より1キロ当たり35円ほど安い価格で取引されています。この差額の一部を政府は「補給金」という形で指定団体に交付し、指定団体から酪農家に生乳代金と合わせて支払う方法が採られています。ただし、政府の補給金を受け取るには、搾った生乳を指定団体に出荷するという条件を満たさなくてはなりません。これが国内で生産される生乳の97%が指定団体に出荷されている理由です。
そうした強みがあればこそ、指定団体は生ものである生乳の特性に即した効率的な集荷配送が実現でき、流通資本に対する価格交渉力を発揮できたのです。それは国民の生命を守る食料の安定生産と安定確保を支える生産者組織の協同事業には、独占禁止法を適用せず、その事業を何としても存続させるという政府の使命に基づく行為です。
ところが、政府の諮問機関である「規制改革推進会議」の答申に沿って進められた今回の法改正は、補給金の交付条件を指定団体への「全量委託」から「部分委託も可」とするもので、生産者組織による協同事業を骨抜きにし、弱体化させる危険性を大いにはらんでいると思います。
一方、世界の流れはまったく逆です。国民のための食料の安定生産を担う組織を政府が支援し、独占禁止法適用除外も当たり前とされています。なかでもカナダの動きは注目に値します。カナダにはすべての酪農家が参加する「ミルク・マーケティング・ボード」という団体が州別にあり、そこに政府が大きな権限を与えています。カナダ政府は酪農家にミルク・マーケティング・ボードへの全量出荷を義務付けているだけでなく、どのメーカーにどれだけの量の生乳を出荷するか、乳価はどうするかについても酪農家の発言権を認めています。
そのぐらい生産者に権限を与えないと持続的かつ安定的な食料確保は実現できないとの意気込みでカナダ政府は保護政策を徹底しています。ところが、日本だけが生産者の協同事業にも独禁法を厳格に適用し、生産者組織をずたずたにする方向に歩もうとしているのです。その先陣を切らされたのが酪農です。日本の酪農家は自分たちを守ってくれる政策もないまま、自分たちを守るための組織が骨
抜きにされるという苦境に立たされてしまいました。
青果物の共同販売には全量出荷義務を課さない国は日本以外にもありますが、「規制緩和」という名目で、青果物とは商品特性がまったく異なる生乳の全量出荷原則をなくしてしまったのは世界的に見ても日本だけという事実も判明しました。世界に例のないとんでもない間違いを犯したことになります。
加工向けの生乳には10円程度の補給金が加算されると前回もお話ししましたが、それはほとんど固定支払いであり、実際の乳価とコストの変動に対応しているわけではありません。日本にも1990年代までは加工原料乳価の生産コスト割れに対応した制度があったのですが、2000年以降は、どんな事態になっても1キロ当たり10円程度しか支払われない仕組みに後退してしまっています。さらに飲用向けの生乳には、そもそも生産コスト割れに対応した補てん措置も固定支払いも採られていません。要するに全体として最低限必要な所得を下支えする仕組みにはなっていないということです。
これでは酪農家の所得が低迷するのは当然です。指定団体の共販制度を見直すというなら「せめて政策で酪農家を守れ。私たちの基礎食料の安定生産を守れ」と、消費者も政府に強く求めていく必要があるでしょう。このまま国内の酪農生産基盤が崩壊すれば、日本の消費者の多くが輸入バターと脱脂粉乳を水で戻した還元乳しか飲めなくなり、本物の牛乳は「高級品」になりかねません。
いま起きているのは、決して酪農家だけの問題ではなく、最終的には自分自身に降りかかってくることだという認識を1人でも多くの消費者に持ってほしいと思います。すでに大手乳業メーカーは生乳不足に強い危機感を抱き、独自の酪農家支援策に動き出しました。
運命共同体として、原料生産者を守る
――具体的にはどんなことをしているのですか。
国内の生乳生産者、乳業者、牛乳販売業者で構成される業界団体の一般社団法人「Jミルク」では、政府に酪農家保護のための政策を要求しつつ、乳業メーカーからの特別対策財源を確保し、酪農家の支援に乗り出しています。前回も触れましたが、この10年で初妊牛価格は倍以上に高騰し、一頭100万円という異常な高価格で取引されるようになっています。この背景には乳牛と黒毛和牛を交配させ、肉用交雑種(F1)を産出する、あるいは黒毛和牛の受精卵を乳牛に移植する酪農家が増え、後継牛が容易に入手できなくなったという事情があります。
酪農を続けたくても後継牛が手に入らない酪農家のために、乳業メーカーはJミルクを通じて海外から優秀な乳牛を導入する資金を助成しているのです。この活動は「自分たちは自分たちでやれることをやって、日本の酪農を守っていく。あなた方はいったい何をしてくれるのか」という政府に対するメッセージです。酪農家と関連業界が運命共同体であると社会にアピールしたという意味でも非常に画期的な事例だと私は思っています。
「生産者と消費者のネットワークが必要だ」という声をよく耳にしますが、消費者はもとより、加工事業者や流通販売事業者、酪農生産や乳製品加工用の機械を生産販売している事業者も、原料生産者とは運命共同体ということになります。だとすれば、だれもが当事者であり、国内の生乳生産が滞れば、大なり小なり何らかの影響を受けるはずです。「生乳が国内から消える?冗談じゃない!」と他の関連業者も立ち上がり、それを消費者も支援するという動きが広がっていってほしいですね。
カナダには廉価な米国産ではなく、国産生乳でつくられた1リットル300円の牛乳を選んで購入する消費者が多いといいます。その理由を私の研究室の学生がアンケート調査で尋ねると「遺伝子組み換えの成長ホルモンを使って飼育された牛から搾った米国産牛乳を飲みたくない」との回答が数多く寄せられました。牛乳1リットルに対して自分が300円を負担すれば、酪農家もメーカーも、小売店も適正な販売利益を得られ、消費者も納得できるとカナダの消費者は考えているようです。それこそ高いのではなく、みんなが幸せなシステムであり、持続可能なシステムといえるのではないでしょうか。
一方、日本の政治家や官僚は「いまだけ、金だけ、自分だけ」という新自由主義思考に染まり、多くの企業も市場原理主義路線に立って「当面、商売さえ成り立てばいい」とする振る舞いを続けています。そんな風潮が強まるなか、消費者もコストパフォーマンス最重視の「安いものを食べているほうがいい」と安易に考えるようになっている気がします。そうこうしているうちに、皆が泥船に乗って沈んでいくような事態に陥り、「本物」と呼ぶにふさわしい国産食品が簡単に手に入らなくなる気がします。
本物という点で、ぜひ多くの消費者に知ってほしいのが、日本の牛乳の殺菌温度の異質さです。
――どういうことですか。
英国や米国で流通する牛乳の98%から99%がパスチャライズド(72℃15秒ないし65℃30分)の低温殺菌で処理されています。ところが、日本は「低温殺菌では危ない」という理由から超高温殺菌(120℃3秒)で処理した牛乳が圧倒的多数を占めており、パスチャライズド殺菌された牛乳はまれな存在となっています。これが「本物」を提供するという意味で根本的な間違いなのです。
生乳を超高温で殺菌するのは「刺身を煮る行為」に等しいと私は思いますし、これが本当の牛乳の風味を消費者に伝えられない大きな要因になっているのが非常に残念です。いまや消費者も超高温殺菌に慣れきってしまい、牛乳とはそういうものと思い込んでしまっているから、低温殺菌牛乳の普及が進まないのです。こうした事態を改善できない理由は業界の姿勢にもあります。
いまも大手乳業メーカーは「衛生面で自信が持てないため、低温殺菌はできない」と言っていますが、殺菌温度を下げれば製造に時間がかかり、生産効率が上がらないというのが本当の理由ではないかと疑いたくなります。ぜひとも乳業メーカーには超高温一辺倒の姿勢を改めていただき、「これが本物の牛乳」と消費者にしっかり訴え、その価値を広げていってもらいたいのです。それができなければ、日本の酪農の生産基盤を皆で守っていこうという社会的な意識は培われないと思っています。
大手メーカーでも最近低温殺菌牛乳に取り組んだ会社がありましたが、消費者に浸透せず、残念ながら販売中止になりました。消費者も、しっかりと「本物」を理解し、支える賢い消費者になってもらいたいものです。