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テレビ記者としてソユーズに搭乗 日本人初の宇宙飛行士が農業を志したのは

農民・ジャーナリスト 秋山豊寛さん

2018年8月23日

秋山豊寛さんに月刊「生活と自治」紙面での執筆を依頼したのは2010年。翌2011年7月号から「あぶくま通信」の連載が始まった。秋山さんは民放キー局TBS(東京放送)の記者としてロシアの宇宙船「ソユーズ」に乗り込み、宇宙からの生中継を担当した日本人初の宇宙飛行士として知られる。

その後、TBSを退職し、福島県の阿武隈山地にある滝根町(現・田村市)で、有機無農薬農業と原木シイタケ生産を15年間実践してきた。ところが、2011年3月11日に発生した東日本大震災と福島第一原発事故により、滝根町での農業を断念せざるを得なくなった。秋山さんは群馬の知人を頼って緊急避難。その後は京都造形芸術大学教授となり、農業実習を通して学生たちに「農」の価値を伝えてきた。

そして今年3月、同大学を秋山さんは退職。三重県大台町に居を移し、再び有機無農薬での野菜づくりに汗を流す日々を送っている。「生活と自治」での連載は「あぶくま通信」から「あぶくま通信・京都より」「京都・瓜生山の畑から」「三重の深山より」と4度のタイトル変更を経て続いている。秋山さんに「農」の世界に身を置こうと決心した理由を聞いた。

脳のなかで「快楽」に分類された「農」の営み

実はテレビ局に勤めはじめたころから、どこかしっくりこない商売だなと感じていましたし、あまり長く続けられる仕事ではないなという気持ちでいました。とはいえ、ジャーナリストとして生きていきたいという思いは強かったです。ただ、必ずしもテレビ局にいなくてもいいかとも考えていたのです。そんなとき、大学時代の先輩が「岩手県で一緒に羊牧場をやらないか」と声をかけてくれました。そこで現地を見に行きましたが、体力的にやっていけるか自信が無く、断念した経験があります。30代のはじめころでした。

そもそも土をいじることがすごく好きなんですよ。おそらくは小学校から中学校まで玉川学園(東京都)に通っていたからだと思います、現在は校風も変わったようですが、私が通学していた当時は創立者の小原國芳先生という鹿児島出身の人が、全人教育という教育理念から「労作教育」に取り組んでいました。週2回くらいですが、午後から農作業があったのです。開墾したり、落ち葉を集めて肥料を作る、肥えだめからくみ出した液肥をひしゃくで畑に入れていくという作業もしていました。それが教室で勉強するより楽しかったのです。たとえば虫を好きなだけ見ていても叱られないから実に面白いわけです。

これが農作業は楽しいものであり、農作業によって視野も広がり感受性も豊かになるという考えの原点になりました。私の脳のなかで農作業は快楽に分類されたのです。その後、中学のとき、父が失業。高校進学も断念し、中学を卒業したら就職するほかはない状況になりました。そのとき落語家になろうと弟子入りを考えたこともありましたが、「そんなことを考えるな」と母親にひどく叱られましたのを覚えています。幸い援助してくれる親戚がいて高校に行き、大学にも進学できました。

私が入学した国際基督教大学(ICU)は、当時は家庭の経済状態を考慮し、収入が低い家庭に給付される奨学金制度があったのが有り難かったですね。大学では日本の思想史が面白く、江戸時代では安藤昌益の「直耕」という考えや、昭和では権藤成郷や橘孝三郎といった人の農本主義に関する本を夢中になって読んだりしました。

大学院に進もうと思っていたのですが、「君は学者向きではない」と大学の指導教授にアドバイスされました。恩師は「ジャーナリストの仕事は歴史のスケッチだ。歴史学者は書かれたものを分析するのが仕事だが、ジャーナリストなら生身で歴史の瞬間に立ち会えるじゃないか」と言っていました。マスコミ各社のなかでテレビ局を選んだのは、そのころに読んだカナダのM・マクルーハンという文明論者の本に影響されたから。活字媒体は主流ではなくなると思いました。

米国特派員時代には家庭菜園で人脈づくり

学生時代から権力とか社会システムのありようがおかしいと心底思っていました。ですから、お上がどうであれ、自分たちの存在を根底から支えている「農」という視点から、それを生き様で主張する自立した農家の存在に強い関心を持っていました。現実の農家は確かに国の制度などをいろいろと活用はしていますが、「俺たちはここに暮らしがある」という国家から一定の距離を置ける太い根っこを持っています。何より生命の源である食べ物を作っている強さを持っています。それは日本の景観を各地の農家が創ってきたことを見てもわかりますよね。そこが実に魅力的です。ジャーナリストの原点は反権力です。それとお上がどうであれと自分たちは何としても生きていくぞという農家のしたたかなメンタリティが私の意識の底流で共鳴したのかもしれません。

米国特派員としてワシントンD.Cで4年暮らしたときも週末は家庭菜園で汗を流しました。借家の前庭と裏のバックヤードは芝生でした。私は家主に「帰るときはもとに戻すから」と交渉し、裏庭の芝生をすべて掘り返して野菜畑にしました。キュウリやナスを作ったり、日本から種を送ってもらってトマトなどを育てたりしていたのです。

これが近所と仲良くするのに実に役立ちました。無農薬で育てた野菜を近所の同好の人と交換したのです。私が住んでいたバージニアの家の近くには国防総省(ペンタゴン)の関係者や海軍の退役軍人などが少なからず暮らしていましたが、家庭菜園を介して彼らとの人間関係も作れました。何より農作業そのものが楽しかったです。土いじりに没頭しているとストレスから解放されたものです。

当時、TBSのワシントン支局では週に5日、生放送でレポートする枠がありました。生の現実に触れ、その現場を視聴者にそのまま提供するというテレビの生中継の面白さには魅了されていました。私には1972年に長野県で起きた連合赤軍による浅間山荘事件の印象が強烈でした。3日間コマーシャルなしで生中継し、放送各社ともに高視聴率を記録しました。生中継では何が起こるかわかりません。人の脳は結果がわからない状態にあって、どうなるか分からないことにすごく興奮するのです。スポーツ中継に人々が夢中になるのも結論がわからないからですよね。そうした生中継の魅力にとらわれていたことが、テレビ局で働き続けていた理由だと思います。

その一方で工業化社会の対極にある「手仕事」をしている人たちとのネットワークづくりにも励みました。1970年代が終わりを告げ、80年代に入ろうとしているときに、工業化社会の問題点は何かを探る勉強会を立ち上げました。その延長に「未来開拓者共同会議」というグループが生まれました。それは以前に羊牧場に誘ってくださった大学の先輩である稲葉紀雄さん、山形大学におられた日本の羊の歴史に詳しい楠本雅弘先生、植物学者の吉田誠さん、羊毛の専門家の本出ますみさん、そして後に「森は海の恋人」の名言で知られる畠山重篤さんや愛媛大学教授になった炭の専門家の鶴見武道さんらが主要メンバーでした。

宇宙からの生中継を夢みて、名乗りをあげたが

そうこうして40代半ばまで東京の赤坂で勤め人暮らしをしていたのですが、TBSが自社の記者をロシアのソユーズに乗り込ませ、宇宙から生中継をしようという計画が浮上したのです。1988年の冬です。翌年春から候補者の選定がスタート。公募でしたから500人前後が申込みました。書類審査で100人に絞られ、この候補者たちに身体検査を実施し、私を含めて21人が残ったのです。そこから選ばれた7人がロシアで身体検査や適性検査を受けることになりました。この段階の選考で、私は落とされているんです。

担当者に理由を聞いたら「胃に潰瘍の跡があるから」と言います。正直〈ふざけるな。46歳までテレビ局で仕事をしていて、胃に潰瘍の跡がないやつなんているものか〉と思いました。潰瘍があれば確かに病人でしょう。ですが、私の場合は潰瘍の跡ですよ。それがどうしていけないのかと得心がいかなかったのです。ところが、世の中は捨てたものじゃありません。いざとなると幸運の女神さまが現れるものです。それが当時、TBSでロシア語の通訳を担当していて、後に作家になった米原真理さんでした。

最終選考に残った7人は、来日したロシア人医師による予備検査を受けたのですか、全員がはねられたのです。これではせっかくの宇宙プロジェクトが成り立たないということで「敗者復活戦」が実施されたのです。そのとき、強く推薦してくれたのが通訳の米原さんでした。こいつは性格が悪く、頑固でひねくれもので宇宙飛行士には最適だと推してくださったそうです。そういうタイプの人間がロシア人は好きだったようです。当時、ロシア人は画一的だという思い込みがあったようですが、私は米国のほうが画一的な気がしていました。また、そのころのロシア社会といえば「右向け右」の人ばかりと思われがちだったのですが、彼らが心の底で好きなのは「右向け」と言われても気に入らなければ、断固として左を向く人間ですよ。特にエリートの世界ではそうだと、いまでも私は思っています。

現地での訓練は14カ月間でした。本来は2年間はやるはずと思っていました。その期間はモスクワでのんびりできると思っていたのに話が違うじゃないかと残念な思いでした。確かに1989年10月にモスクワ郊外の「星の街」ではじまった訓練は肉体的には厳しく、ロシア語を1年2カ月で習得する苦労は尋常ではなかったです。ですが、そういう厳しさは学生の大変さと同じ。やることさえやっていれば褒められるわけです。

一方、サラリーマン社会は上下左右、特に40代半ばの上下左右は四面楚歌なんてもんじゃなく、そのなかでいかにして自分がサバイバルするかですよね。ふいの襲撃なんかも十分あり得るわけです。そういうことがまったくない世界に1年以上いられたのは幸せで、学生時代ってこんな楽だったんだと改めて感じました。いわれたことを着実にやっていれば褒められるなんて、テレビの業界では考えられない話ですよ。(談)

※次回も「農」にかける秋山さんの思いを掲載します。

あきやま・とよひろ
1942年東京生まれ。65年東京放送(TBS)入社。外信部、政治部記者を経てワシントン支局長。90年、日本人初の宇宙飛行士としてロシアの宇宙船ソユーズに搭乗し、宇宙ステーションミールから地球の様子を生中継した。国際ニュースセンター長だった95年に東京放送を退社し、96年から福島県滝根町(現・田村市)で原木シイタケ栽培と有機農業にいそしむ。2011年、福島第一原発事故により京都に移住し、京都造形芸術大学教授となるが、退職に伴い2017年に三重県大台町に転居。再び有機農業での野菜づくりに汗を流す日々を送っている。著書に「鍬(くわ)と宇宙船」(ランダムハウス講談社)、「若者たちと農とデモ暮らし」(岩波書店)などがある。

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