宇宙体験と農作業にかかわる喜び
農民・ジャーナリスト 秋山豊寛さん
2018年9月18日
民放キー局TBS(東京放送)の記者としてロシアの宇宙船「ソユーズ」に搭乗し、日本人初の宇宙飛行士となった秋山豊寛さん。その後、TBSを退職し、福島県滝根町(現・田村市)で有機農業を実践してきた。しかし、2011年3月に発生した福島第一原発事故を機に京都に移住。京都造形芸術大学教授として「農」の価値を伝えてきた。今年3月、同大学を退職した秋山さんは三重県大台町に居を移し、再び有機農業に取り組んでいる。
最後は人の力でという「設計思想」
宇宙航空技術の「粋」を集めたロケットと聞けば、すべてデジタル化されていると多くの人が思いがちですよね。SF映画に出てくる宇宙船の操縦がボタンをピッと押すようなスタイルで描かれているのが影響しているのかもしれません。私が搭乗したソユーズは決してSF映画風の設計ではありませんでした。たとえば酸素供給装置のパネルはデジタル表示でしたが、その装置を実際に機能させるのは乗組員自身。つまり、コンピューターによる完全自動制御ではないわけです。
具体的には酸素分圧を搭乗員が見て「第1弁開放」「第2弁開放」と発声しながら手動で操縦室の酸素量を調整していきます。なぜ、そうするのかというと、何らかの異常が感じられたとき、どこがおかしいかがすぐわかり、どこをどうすればいいのかを搭乗員が把握し、そこに居る者が自分の力で修理できることが基本という設計思想があるからです。
一方、米国のスペースシャトルについては私自身の目で操縦室を見ていないのでわかりませんが、ソユーズとの大きな違いが一つあります。スペースシャトルには脱出装置が付いていませんが、ソユーズにはあります。万が一、打ち上げに不具合があれば、地上5キロで宇宙船の先端カプセルが切り離され、パラシュートで降下できるという非常事態への備え、「フェイル・セーフ」の考え方が具体化されているのです。
事実、その装置を使って無事に帰還したステイリカロフさんという飛行士がいます。彼は宇宙船に6回乗り込み、5回宇宙に行っています。うち1回が打ち上げ失敗だったのです。ロケットは打ち上げ後、数秒間で地上5キロくらいに達しますが、その高さからカプセルはパラシュートを使って地上に戻ってこられる仕組みになっています。
そうした脱出装置を装備するソユーズの設計思想には、単にアナログかデジタルかという問題よりも、人間にとって「道具」とは何かを問い続ける開発者の発想と姿勢が見えてきます。自分たちの想定を超えた事態は起こりうるという「危機管理」の視点があります。これこそまさに信頼に足る技術力だと私はとても感心しました。
技術という点で考えたとき、ついつい日本の原発のことを考えてしまいます。原発をゼロから作った人が日本にはいないはずです。すでに出来上がった、他の人が作ったモデルをまねする能力があるだけです。こうなると、何か問題点が見つかって、手を加える場合、一つ一つのパーツについて、それがなぜ必要であり、システム全体のなかで、いかなる役割を果たしているのかが日本の技術者に本当に把握できるのか、原理的な思考が果たして彼らに可能なのかといえば、できないだろうと考えます。
いまだにメルトダウンの原因は不明です。原因の検証という「技術」にとってバイタル(生命線的)な課題に対応しきれていないのを見ますと、原発という技術システムを日本で動かすことは極めて危険なのです。事故原因も不明なまま、経済優先で処理することは科学的とはいえないでしょう。「身の丈」という言葉がありますが、道具やシステムに不具合が起きたとき、まさに人が自身の力で危機に対処でき、問題が解決できることが何より基本なはずなのです。
仏教の「悟り」に近寄った感覚かも……
1972年の国連人間環境会議や1992年の国連環境開発会議を通し、ホモサピエンス、つまり人類は地球規模で環境問題を考える時代であることに気づきました。これは一人一人がどう生きていくかということです。どう生きるかと考えるとき、私たちはまず「便利さ」がいいという価値観について考え直す必要があると思っています。つまり、ライフスタイルの見直しを始め、利益を生み出すシステムのパーツになっている状態からどう抜け出すかということです。
この問題意識をより確かなものにしてくれたのが、ソユーズに搭乗して大気圏外に出た宇宙体験だった気がしています。「地球って、こんなにきれいなものなんだ」「地球は命の塊なんだ」という強い思いが胸にストンと落ちました。宇宙ステーション・ミールから地球を目にしたとき、「そうだ!やはり、私の考えていたことは間違っていなかった」と大きく心を揺さぶられたのです。お前は地球環境問題に正面から取り組まなければならないと改めて感じました。それに自分の考えてきたことはおかしくないと確信できました。
この体験が「農」のある暮らしをしたいという私の思いを強固にしたのは間違いありません。「宇宙に行って世界観が変わった」とか「人生観が変わった」という文脈ではなく、もしかしたらストンと胸に入る「悟り」に近い感じのような気がします。科学は「実証性」を大切にして「主観性」を排除しますが、私は主観性そのものに何か大事なものがあると考えています。自分がそう思っているということ自体に、それなりの根拠、合理性があると考えています。
たとえば、私は「たたり」という一種の「気づき」は人類の知恵の一つと思っています。京都にあれだけ寺があるのは、いまも「たたり」という感覚が私たちのなかに生きているからではないですか。人間の負い目というか罪の意識が具象化したのが寺院という見方もできるのではないですか。その意味で、いま最もたたってやりたいのは「原子力村」を構成している面々ですよ。私はたたってやろうと思っています。
「あ、これで来年も自分は生きていける」
彼らは、私個人についてだけでも、私が15年間かけて築き上げてきた「農」のある暮らしを奪い去りました。東京赤坂という都会での勤め人暮らしを53歳でやめ、95年から福島県の滝根町(現・田村市)での「農のある暮らし」という天地自然のリズムを感じられる日々のなかで、一生忘れられないのが、就農した最初の年に自分の力だけで栽培したコメが初めて収穫できたときのことです。
「あ、これで来年も自分は生きていける」と確かな手応えを感じました。コメを育てる技術を曲がりなりにも身に付けた手応えを実感できたのです。その年は5俵(300キロ)くらいしか採れなかったのですが、それだけあれば、一家4人分になるし、みそまでできるぞと胸が躍るような思いでした。人間の生存にかかわる喜び、古代からコメを育て続けてきた人々の喜びを追体験した一瞬でした。
1年365日、農作業という形で自然の営みの片隅に身を置くまでは「自然の脅威」あるいは「自然への畏怖」、「自然への畏敬」という言葉は実感を伴わない抽象的なコトバにとどまっていましたが、自分自身が農の世界に身を置くことで、その言葉の重さをひしひしと感じられる日々を送ることができたのです。毎日が蒸し暑く、雨続きで「このままだと、ようやく育ったバレイショが腐っちゃうぜ」と思っていたときに、雲がはれてお日様がサーッと出てきたときの喜びとか、出穂が始まっているのに水不足のかんかん照りが続き、「参ったな」というときに、一天にわかに黒雲が現れて雨がザーッと降り始めたときとか、自然そのものとの関係を通してしか感じられないことに出会い、私たちの祖先の経験を追体験することを通じ、いろんな言葉の意味を改めて感じられたのが福島での15年間の一番の収穫といえるかもしれません。
「命への脅威」への「気づき」が希望
人間が生きていくには「農」の営みから生まれてくる「何か」に気づくことが出発点にあると考えています。一般的には「農作物」がそれではないかと思われがちですが、一言でいえば、それは天地自然の恩恵全体なのです。そんな根源的価値については都会暮らしでは目が向きにくいのが現実です。私たちが生きていくのに何が大事であり、何を基本にすればいいのかは、こうした現実と触れあうことでおのずと明らかになるはずです。
あの福島第一原発事故の後、多くの人が政府、役所、そして電力会社の対応に「おかしいじゃないか」と声をあげました。あれは命の脅威に対する叫びであり、普通の人たちの心からの異議申し立てでしょう。これまで声をあげることがなかった普通のおじさんやおばさんをはじめ、乳母車に子どもを乗せて若いお母さんが原発反対のデモに参加していました。
あの抗議デモに参加した人たちは「命への脅威」とは何かを真剣に問い、「命とは何か」という根源的な問いに向き合っているのです。これは現在の社会のありようのおかしさに気づいた人々が、原発事故を契機に「おかしい」と声に出す「行動」に踏み出したということです。
私たちは古くは足尾鉱山の「鉱毒」事件、カドミウムによるイタイイタイ病、有機水銀による水俣病と、天地自然を金もうけのために汚染した結果を見てきています。フクシマ第一原発事故もまた天地を汚染しました。大地が汚染されることは「命」の危機なのです。いまなお、反原発の思いは日本国民の大多数に共有されています。人々の多くが何かがおかしいと気づき、いま、行動が必要だと感じているのです。この「気づき」にこそ、未来への希望が宿っていると信じています。(談)
あきやま・とよひろ
1942年東京生まれ。65年東京放送(TBS)入社。外信部、政治部記者を経てワシントン支局長。90年、日本人初の宇宙飛行士としてロシアの宇宙船ソユーズに搭乗と、宇宙ステーション・ミールから地球の様子を生中継した。国際ニュースセンター長だった95年に東京放送を退社し、96年から福島県滝根町(現・田村市)で有機農業にいそしむ。2011年、福島第一原発事故により京都に移住し、京都造形芸術大学教授となるが、退職に伴い2017年に三重県大台町に転居。再び有機農業での野菜づくりに汗を流す日々を送っている。著書に「鍬(くわ)と宇宙船」(ランダムハウス講談社)、「若者たちと農とデモ暮らし」(岩波書店)などがある。
【2018年9月18日掲載】