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生協の食材宅配【生活クラブ】
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追想 70年代の「熱い日々」


 
生協設立から10年が経過した1978年、生活クラブは「連合本部」を設置。「10周年記念事業」として千葉県の酪農家との共同出資による牛乳工場建設、北海道古平町では肉牛生産のための牧場設立、山梨県河口湖町に余暇施設「協同村」を建設することを決めた。生活クラブと提携生産者との関係は「対等互恵」と定めたのもこの頃だ。麻生純二さん(生活クラブ共済連専務理事)と塩見正暁さん(生活クラブ連合会元職員)に当時の様子を聞いた。

生産、流通、消費の構造を学ぶ

生活クラブが生協設立10年を迎えた年に職員になった麻生純二さん
「73年の石油ショックの際に、トイレットペーパーなどの紙類だけでなく、コープ牛乳も価格が高騰し、組合員が注文しても納品されないことがあったと聞いています。ならば自分たちで牛乳工場をつくろうということになり、紆余(うよ)曲折の末、78年8月に建設が始まり、翌年3月には製造が始まりました」

この年4月、生活クラブに入職した生活クラブ共済連専務理事の麻生純二さん(65)はそう話し、当時の慌ただしくも熱気に満ちた日々を思い起こしながら、こう続けた。

「自分たちで工場を持つことで、それまで全くわからなかった牛乳の原価構造が明らかになり、生産から消費までの流れがトータルに把握できたと教えられました。この考え方がその後の生活クラブの根底に常にあります」

また当時、豚肉の共同購入では、組合員自身が豚一頭の部位バランスを考慮して購入することで、生産、流通、消費を主体的に管理し、運営しようという試みを行っていた。北海道での「古平牧場建設計画」には、この実践を牛肉にも適用しようという思いが込められていた。
さらに古平牧場には障害者の雇用と暮らしのための「施しでない福祉施設」を併設する構想も発表された。「それが『古平共働の家』で、建設に向けた組合員カンパは1億円を超えました。農福連携の先駆けといえるかもしれません」と麻生さんは言う。

河口湖町での協同村設立に向け、当時の生活クラブが掲げたのが「共同購入から全生活へ」のスローガンだ。「組合員活動の一環として、日常生活を離れた場所で協同の意味を考える空間があってもいいということでつくったんですね」と麻生さん。

現在、河口湖町に協同村はないが、その後、東京都あきる野市に生活クラブ東京(東京都世田谷区)が「協同村ひだまりファーム」を設立し、現在、キャンプ場やまつり、「福島、栃木の子どもたちのリフレッシュツアー」などに活用されている。

「ステッカー作戦」を展開

当時の組合員活動を伝えた「生活と自治」の紙面
牛乳工場に牧場、協同村建設と新入職員には実にめまぐるしい動きが続くなか、合成洗剤の安全性に疑問を持った組合員が、部会をつくるなど学習を重ね、粉せっけんの取り組みを要望したのもこの時期だ。

それまでは日本生協連が扱う「コープセフター」などの合成洗剤を共同購入していたが、「ヱスケー石鹸(せっけん)」現社長の倉橋公二さんの叔父で、当時は同社営業部長だった倉橋六郎さんと出会ったことをきっかけに、洗濯用粉せっけんの取り組みを始めていた頃だった。せっけんに切り替えようという組合員運動の広がりを受け生活クラブは、せっけんの利用申し込みが80%に達したら、コープセフターの取り組みをやめ、せっけんに切り替える方針を立てた。

生活クラブ東京や生活クラブ神奈川では、組合員が配達のトラックに同乗し、コープセフターを注文している組合員と直接話し合い、せっけんの利用を呼び掛けたという。こうした活動によって、粉せっけんの利用者は80%を超え77年4月からはせっけん類に限定した共同購入が開始された。

その後、神奈川、千葉でも「合成洗剤追放運動」が広がり、組合員の代弁者を自治体の議会に送る「代理人運動」に発展した。職員も政治について学び、組合員を代理人として議会に送る運動に参加した。

せっけん運動を進めるなか「特に驚いた出来事があります」と麻生さんは意味深な笑みを浮かべた。
せっけん運動の一環として、当時生活クラブが取り扱っていた塩素系の漂白剤を酸素系漂白剤に切り替えようという組合員活動があった。その後押しのため、塩素系漂白剤を利用している組合員に向け、「今あなたが使っている塩素系漂白剤が危険なことを知っていますか」というメッセージを盛り込んだステッカーを漂白剤の箱に貼り付けて配達した。それは麻生さんの1年後輩に当たる生活クラブ東京の職員のアイデアから生まれた活動だった。

「塩素系漂白剤を注文している組合員に、そういうメッセージを職員が届けるというのは、利用結集運動に反する行為です。とても常識では考えられません。それが許される生活クラブはすごい生協だなと思いました」と笑顔で当時を懐かしむ。

この半世紀、生活クラブは魅力ある多くの生産者と出会い、組合員と職員が連帯してさまざまな不可能を可能にしてきた。提携生産者と生活クラブの関係は常に「対等互恵」であるとの精神のもと、消費材開発が進められ、今日がある。そうした歴史を踏まえ、今後の課題について麻生さんはこう話す。

「これまでの運動と事業をどのように継承し、発展させていくかです。生産者は後継者に着々と引き継がれていると思いますが、生活クラブ連合会においては私の年代層の役職員がいかに責任を果たすかが目下の最重要課題です。いかにして『対等互恵』を次世代につないでいくかも重要なポイントになると思っています」

初めて借りた事務所付近の風景 撮影/魚本勝之
 
撮影/高木あつ子
取材/戸田美智子

弁護士も驚く、前代未聞の「基本取引契約書」

生活クラブと提携生産者は「対等互恵」の関係にあるとされる。この「対等互恵」原則を生産者と提携する際の基本取引契約書に初めて盛り込んだのは生活クラブ連合会元職員の塩見正曉さん(80)だ。「この取引は対等互恵の関係に基づく」という文言が盛り込まれた基本取引契約書は前代未聞で「おそらく現在も社会に存在しないと思います」と塩見さんは言う。

型破りなスタイルに戸惑うも

「生活クラブのサルベージ屋たろうと思って仕事をしてきた」と塩見正曉さん
経理担当として生活クラブに入職したのは1976年、36歳のときでした。企業で経理一筋に働いてきましたが、いろいろあって前の勤め先をやめた“失業中”に声をかけてもらったのです。

協同組合については、まったくの素人でしたから、生活クラブの仕事の仕方には「えっ、こんなやり方もあるのか」と驚きの連続でした。企業では決まったシステムに乗って物事を進めないと仕事にならないのが当然なのに生活クラブは違った。ああすればこうなるという方程式めいたものが一切無く、まさしく型破りでした。

たとえ、どんなアプローチの仕方であっても「合理的に結論を導き出せばいい」というのが、当時の理事長の岩根邦雄さんや現・連合会顧問の河野栄次さんのスタンスで、そこが非常に面白かったですね。そんな破天荒の組織で自分に委ねられたのは、事業システムを整備し、決算システムと連動させるための業務でした。
私は経理しか知りませんでしたし、労働組合運動とか社会運動の経験はゼロ。一方、生活クラブの専従職員は運動経験者が圧倒的に多く、何をするにしても話が通じ難くて苦労しました。さらに生活協同組合の運動って何なのかと心底悩み、3年近く哲学や心理学の本を乱読したのです。

そうこうするうち、ふと〈人間とは欲の動物である。運動とは何か。私欲を超えた公的社会的欲の追求ではないか〉という考えに至り、運動とは私欲を超えた欲の追求であると自分なりに整理でき、それが人生の新たな始まりともなりました。

いささか語弊があるかもしれませんが、人はだれでも欲の塊であり、それは生産者も生活クラブの組合員も専従者も同じです。しかし、その三者の関係が単なる私欲の追求にとどまるのではなく、私欲を超越したレベルにあるのが運動だとの考えに至ったのです。

「もの」を開発し、組合員に供給するのなら、商品社会の構造的な問題を排除したうえで理想の「もの」を届けなければなりません。それには三者の志のレベルが対等でなければならないわけです。この点を常にチェックし合い、実体化する運動が存在していなければなりませんよね。

そうした緊張感ある関係性を維持発展させて消費やサービスを生み出し、それらを社会に普及していくことで互いが恵まれ、健全で豊かになる。それが生協運動の原則じゃないかと考え、この文言を提携生産者との基本取引契約書に盛り込む必要があると思ったのですが、当時の生活クラブには契約書という概念がなかったのです。

いわば有志の集いで、やる気満々の人間が集まっているには違いないのですが、提携事業を継続するために必要な契約書を取り交わすという対応も考えもない集団だったように思えました。そこで80年に提携生産者に基本取引契約書の取り交わしを提案すると、ひどくびっくりされたというのが現実でした。

基本取引契約書をめぐる議論

もはや笑い話ですが、ごま油の生産者の小野田製油所社長の小野田昭さん(故人)に「契約書だと。そんなものなくてもちゃんと信頼関係を前提に取引できているのにいまさら何だ。塩見、お前はどういう了見でものをいっているか」と面と向かって叱られたのを覚えています。それでも私は基本取引契約書の原案を作成し、生産者の団体(現・生活クラブ親生会)に提案し意見を求めました。

その文面を見た担当者は「塩見さん、本当にこれでいいの? 世間一般では、名前こそ基本取引契約書だが、実態は誓約書。約束を守らなかった場合はうんぬんという罰則規定がこまごまと盛り込まれているのに……」と驚いていましたね。当時の顧問弁護士にも「本当にこれでいいの?」と聞かれましたが「良いんです。これでないと意味がありませんし、生活クラブの基本取引契約書とはいえません」と伝えました。

大枠では社会一般の契約書と変わらないのですが、提携関係を結ぶうえでの精神に関する文言が最大のポイントでした。生活クラブとの取引は生活クラブ運動という一つの大きな信念を原則として進められる、対等の立場で互恵を目指して進んでいきましょうという意味を込めて「対等互恵の原則に基づき」という言葉を盛り込んだのです。

イーブンの関係でないと、運動なんてできません。先に申し上げた通り、互いに私欲を、損得だけの考えを超えなければならないのです。生活クラブをつくってきた組合員に専従職員、初期の生産者は、その点を十分わかって生協運動に参加していたはずですが、すっきりイーブンというわけにはいかないのが実情で、そこを何とかしなければいかんなと思い定め、基本取引契約書の取り交わしを実現しました。

いうまでもありませんが、世の中の商品取引では買い手が強く、売り手が弱いのが基本です。そんな現実を生活クラブは受け入れず、徹底的に排除していくという社会への決意表明が「対等互恵の原則」なのです。当時、生活クラブは「生き方を変えよう」という言葉を基本理念として使っていたと記憶しています。

そこには生活クラブの事業はもっぱら利潤追求に走った商売ではなく、組合員はサービスを享受するだけの顧客ではないとのメッセージが込められていたと思いますし、それが生活クラブの事業と運動の原点ではないでしょうか。あえて老婆心から申し上げれば、生活クラブが社会の政治経済システムに押し流されないこと、対等互恵の原則が字面だけの理解にならないことを祈念します。(談)

組合員宅への配達風景

撮影/魚本勝之
構成/本紙・山田衛


うおもと・かつゆき 1960年愛媛県生まれ。グラフィックデザイナーとして活動するほか、「都市と人」をテーマに写真作品を制作。

『生活と自治』2020年4月号「新連載 産地提携の半世紀」を転載しました。

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