アクションしている人が一番強い! 途上国から世界に通用するブランドを発信
サクセスストーリーというのは概して相場が決まっているといわれる。しかし、「裸でも生きる」「裸でも生きる2」「自分思考」(すべて講談社α文庫)、「輝ける場所を探して」(講談社)「Third Way」(ハフポストブックス)という著書を読了し、この人の場合はいささか違うと確信した。そんな山口絵理子という女性の生き様を何とか伝えたいと思った。新型コロナ禍で多くの人びとが苦悩するなか、たとえ困難な状況にあっても、ひたすら信じた道を進もうとする彼女に共感する人が少なくないはずだ。(取材は新型コロナウィルスの感染拡大前に実施)
4月16日の銀座通り
「そこ」にしかないものがある
――「途上国から世界に通用するブランド」を発信する。その理念のもとで事業を展開されていると聞いています。どういうことですか?
いまや99パーセントの企業が自社製品の生産を外部委託するなか、わたしたちは自社工場や自社工房で生産したものしか販売していません。そうしなければ、わたしたちが満足し、自信を持ってお届けできる商品を手に入れることができないと経験から学んだからです。
わたしは商品のデザイナーとして、遠慮せずに厳しい意見や提案をバングラデシュやネパール、インドネシアなど自社工場、自社工房の生産現場に持ち込みます。(2020年04月時点で生産国は6カ国)その回数が増えると、現地スタッフが途中で付いてこられなくなったりしますし、「もっと良いものにしよう」と提案すれば生産設備の増強が必要になることもあります。
当然ですが、職人一人ひとりに大変丁寧なケアが欠かせません。一流の腕前の職人に来てもらうにはどうしたらいいのかにはじまり、最終的にはどこに行けば申し分なく良い「素材」が手に入るのかと常に難しい課題と向き合わなければなりません。息をつく間もないのが正直なところです。
「どうして、そこまでやるの?」と聞かれることもままありますが、わたしは「開発途上国は安価な原料に資源、労働力の提供元」であり、「安かろう、悪かろうの商品しか作れない」といった固定観念に風穴を開け、決してそんなことはないと実証してみせたいのです。それには「途上国から世界に通用するブランド」を発信し続けていく必要があると思っています。
いまや99パーセントの企業が自社製品の生産を外部委託するなか、わたしたちは自社工場や自社工房で生産したものしか販売していません。そうしなければ、わたしたちが満足し、自信を持ってお届けできる商品を手に入れることができないと経験から学んだからです。
わたしは商品のデザイナーとして、遠慮せずに厳しい意見や提案をバングラデシュやネパール、インドネシアなど自社工場、自社工房の生産現場に持ち込みます。(2020年04月時点で生産国は6カ国)その回数が増えると、現地スタッフが途中で付いてこられなくなったりしますし、「もっと良いものにしよう」と提案すれば生産設備の増強が必要になることもあります。
当然ですが、職人一人ひとりに大変丁寧なケアが欠かせません。一流の腕前の職人に来てもらうにはどうしたらいいのかにはじまり、最終的にはどこに行けば申し分なく良い「素材」が手に入るのかと常に難しい課題と向き合わなければなりません。息をつく間もないのが正直なところです。
「どうして、そこまでやるの?」と聞かれることもままありますが、わたしは「開発途上国は安価な原料に資源、労働力の提供元」であり、「安かろう、悪かろうの商品しか作れない」といった固定観念に風穴を開け、決してそんなことはないと実証してみせたいのです。それには「途上国から世界に通用するブランド」を発信し続けていく必要があると思っています。
バングラデシュの革製バッグの工場から出荷される商品の単価は現地で一番高い部類に入ります。「こんな高価なバッグが本当にバングラで作れるのか?」といつも輸出当局が驚くくらいです。それは素材が一級品なら、作り手も村一番の職人という最高の環境から生まれた製品だからです。ですから、単価はどうしても先進国と変わらないものになってしまいます。
わたしには「ここバングラでしかできないものがある」という信念がありますし、そう周囲にもいい続けています。おかげさまで現在では「僕たちが主人公なんだ」と職人がプライドを持って仕事に取り組み、皮革加工の腕があると思っている人が、どんどん採用してくれとやってくるようにもなり、高いレベルの技術競争が生まれています。従来の安い労働力競争を高い技術力の競争に持っていけていることが、わたしには何よりうれしいことです。
実はわたしたちの商品単価は120パーセントから130パーセントと毎年上がっています。起業当初は平均12000円でしたが、いまは35000円から38000円の価格帯になりました。ここにきて、いよいよ世界のメジャーブランドのやっていることに、どこまで近づけるかという域に入ったと感じています。こうなると、彼らに引けを取らないクオリティーの高い商品を何としても開発しなければなりません。
そのとき、最も大事なのは「何がバングラオリジナルなのか?」と問うことです。多くの人は「中国やベトナムで作れるものを8掛けで作るのがバングラのゴールだ」といいますが、果たしてそうでしょうか。わたしは<バングラの皮革って何が特徴?>と自問自答を繰り返し、日本のレザーに比べてしなやかだな、軽いなと、その国の素材のいいところに目が行くようになり、ようやくバングラでつくっている本質的な意味が見えてきました。
こうしたなか、ともに働くみんなの表情が「僕たちの愛する素材を使ってくれ、僕たちにしかできないことができている」と誇りのあるものに変わってきました。それはスリランカでもインドネシアでも同じです。インドネシアではジャカルタから2時間ほどの距離にあるジョグジャカルタでジュエリーを作っています。インターネットは使えず、村人が物々交換をして暮らしているところで、ジュエリーをつくる第一歩は、人類学的な価値観に立った「この人たちにとって幸せとはなんだ?」というインタビューから始めました。
その結果、彼らにとって「ものづくり」は所得を得るためのものではないことがわかったのです。王宮に仕えてきた宝飾職人である彼らにとって、大切なのは現地の伝統をいかに守るかということでした。わたしたちも彼らとともに王への敬意を抱き、その延長線上で「ものづくり」をする必要があります。<この点をおろそかにしない仕事の進め方はどんなものか?>と徹底的に考えましたね。
いじめ、柔道、バングラデシュの大学院
――そのバイタリティの源はなんですか?
わたしは小学校の時にいじめられていて、自分自身がアウトサイダーという位置づけがずっとあります。机がない、椅子がないから始まって、暴力も振るわれました。結局、自分ではどこが他の子と違うと認識できなかったのです。輪のなかに入れない状態が何年も続きました。そうしているうちに、グローバル(世界的)なメジャープレイヤー(中心人物)には、人の輪に入れない人がたくさんいることに気がつきました。<たとえ輪の外にいても存在意義があり、個性もあるじゃないか>と、自分自身に言い聞かせてきたけれど、彼らも同じ。そうかわたしも仲間じゃないかと思ったのです。
同時に、やっぱり<学校って、おかしいじゃないか>という意識を持ちました。それが権力に対する疑問の原点になったのかもしれません。その後、柔道に打ち込み、高校は県内屈指の強豪柔道部がある工業高校にあえて入学したのです。この高校には男子部しかなかったのですが、無理やり入部を認めてもらい、全国大会の個人戦で入賞しました。大学も「工業高校からは無理に決まっている」という周囲の声に反発し、懸命に勉強して慶應大学の総合政策学部に入学することができたのです。
もちろん、在学中はいくつもの貴重な出会いがありましたが、根本的には自分が何を軸に生きていけばいいのかが、まったく分からずにモラトリアムな時間を過ごしました。その答えを見つけたくて、バングラデシュの大学院に進んだのです。
現地で暮らしながら、わたしの心に芽生えたのが「(開発途上国の貧困問題解決に)必要なのは施しではなく、先進国と対等な経済活動」という考えです。それまでは<バングラに個性などなく、ただ貧しいだけ>という100パーセントネガティブな見方をしていたのですが、現地の友人が「黄金の繊維だぞ」とジュートを見せてくれたとき、「うそでしょ」と目からうろこが落ちる思いでした。たとえ世界の最貧国と呼ばれる国であっても、<そこにしかないものがある!>とハッとしたのです。
だったら、<その強みを生かそう>とわたしは思いました。しかし、不思議なことに現地ではそれを強みと思っている人はおらず、ジュートは斜陽産業だと思われていました。雑草のように生えてきて、麻袋になるだけ。そんなものを栽培するなら「コメなどの作物に切り替えた方がいいし、収入もいい」と言われていたくらいです。
それでもバングラのジュート輸出量は世界トップでした。ただ、肌触りがゴワゴワ、チクチクする繊維でしたから、これを良質な原料にするには、そもそも糸から変え、生地を変えないといけないと、わたしは条件を満たすジュートを生産している農家を徹底的に探し求めました。それは素材研究のはじまりでもありましたし、途上国での「ものづくり」は川上までいかないと良いものが開発できません。そうした調査を嫌になるほど繰り返し、オリジナルのジュート生地ができあがったのです。
わたしは小学校の時にいじめられていて、自分自身がアウトサイダーという位置づけがずっとあります。机がない、椅子がないから始まって、暴力も振るわれました。結局、自分ではどこが他の子と違うと認識できなかったのです。輪のなかに入れない状態が何年も続きました。そうしているうちに、グローバル(世界的)なメジャープレイヤー(中心人物)には、人の輪に入れない人がたくさんいることに気がつきました。<たとえ輪の外にいても存在意義があり、個性もあるじゃないか>と、自分自身に言い聞かせてきたけれど、彼らも同じ。そうかわたしも仲間じゃないかと思ったのです。
同時に、やっぱり<学校って、おかしいじゃないか>という意識を持ちました。それが権力に対する疑問の原点になったのかもしれません。その後、柔道に打ち込み、高校は県内屈指の強豪柔道部がある工業高校にあえて入学したのです。この高校には男子部しかなかったのですが、無理やり入部を認めてもらい、全国大会の個人戦で入賞しました。大学も「工業高校からは無理に決まっている」という周囲の声に反発し、懸命に勉強して慶應大学の総合政策学部に入学することができたのです。
もちろん、在学中はいくつもの貴重な出会いがありましたが、根本的には自分が何を軸に生きていけばいいのかが、まったく分からずにモラトリアムな時間を過ごしました。その答えを見つけたくて、バングラデシュの大学院に進んだのです。
現地で暮らしながら、わたしの心に芽生えたのが「(開発途上国の貧困問題解決に)必要なのは施しではなく、先進国と対等な経済活動」という考えです。それまでは<バングラに個性などなく、ただ貧しいだけ>という100パーセントネガティブな見方をしていたのですが、現地の友人が「黄金の繊維だぞ」とジュートを見せてくれたとき、「うそでしょ」と目からうろこが落ちる思いでした。たとえ世界の最貧国と呼ばれる国であっても、<そこにしかないものがある!>とハッとしたのです。
だったら、<その強みを生かそう>とわたしは思いました。しかし、不思議なことに現地ではそれを強みと思っている人はおらず、ジュートは斜陽産業だと思われていました。雑草のように生えてきて、麻袋になるだけ。そんなものを栽培するなら「コメなどの作物に切り替えた方がいいし、収入もいい」と言われていたくらいです。
それでもバングラのジュート輸出量は世界トップでした。ただ、肌触りがゴワゴワ、チクチクする繊維でしたから、これを良質な原料にするには、そもそも糸から変え、生地を変えないといけないと、わたしは条件を満たすジュートを生産している農家を徹底的に探し求めました。それは素材研究のはじまりでもありましたし、途上国での「ものづくり」は川上までいかないと良いものが開発できません。そうした調査を嫌になるほど繰り返し、オリジナルのジュート生地ができあがったのです。
施しではなく、先進国と対等の関係で
――これまで何に一番苦労されましたか?
販売ですね。一生懸命作れば売れる、良いものを作れば必ず売れると信じていましたし、売るよりも現地で作るほうが何十倍も大変じゃないかと楽観していたのが間違いでした。それが売れない。「卸してください」とお願いしても、だれも受け付けてくれない経験をしました。たとえ店頭に置いてもらえても、お客さんはワゴンの中の当社の商品を見ても何も感じてくれないし、説明もできません。そこで「卸」という形態をやめ、2年目から直営店展開に切り替えました。
東京台東区の入谷がスタート地点になりました。残念ながら、やはり全然売れなかったのですが、お客さんが実際に来てくれ、自分がレジに立って接客をするという人生初の経験は大変勉強になりました。それは「卸」にはない醍醐味でしたし、<ここが良くないから売れないのか>と腑に落ちた点を改良するめたに、また工場に入ろうと思えるようになったのが、とても良かったです。そして、そのとき自分にバッグの知識が無いのがいけないと痛感し、専門学校に通いました。
その後、当社の商品が選ばれない理由を知りたいと思い、新宿店にポストを設けてお客さんに不満を全部書いてもらい、投かんしていただいたら、「革製品が足りない」「革製のバッグが欲しい」という意見が数多く寄せられたのです。それでバングラに行ってバングラの牛について調べました。するとヨーロッパの人たちもバングラの革だけ、素材だけを調達している人がいること。結構しなやかで軽いことが分かってきました。じゃあこれは1回ジュートと同じように研究してやろうと、オリジナルのレザーバッグを新宿店から発表していったのです。それから少しずつ販売数が伸びていきました。
販売ですね。一生懸命作れば売れる、良いものを作れば必ず売れると信じていましたし、売るよりも現地で作るほうが何十倍も大変じゃないかと楽観していたのが間違いでした。それが売れない。「卸してください」とお願いしても、だれも受け付けてくれない経験をしました。たとえ店頭に置いてもらえても、お客さんはワゴンの中の当社の商品を見ても何も感じてくれないし、説明もできません。そこで「卸」という形態をやめ、2年目から直営店展開に切り替えました。
東京台東区の入谷がスタート地点になりました。残念ながら、やはり全然売れなかったのですが、お客さんが実際に来てくれ、自分がレジに立って接客をするという人生初の経験は大変勉強になりました。それは「卸」にはない醍醐味でしたし、<ここが良くないから売れないのか>と腑に落ちた点を改良するめたに、また工場に入ろうと思えるようになったのが、とても良かったです。そして、そのとき自分にバッグの知識が無いのがいけないと痛感し、専門学校に通いました。
その後、当社の商品が選ばれない理由を知りたいと思い、新宿店にポストを設けてお客さんに不満を全部書いてもらい、投かんしていただいたら、「革製品が足りない」「革製のバッグが欲しい」という意見が数多く寄せられたのです。それでバングラに行ってバングラの牛について調べました。するとヨーロッパの人たちもバングラの革だけ、素材だけを調達している人がいること。結構しなやかで軽いことが分かってきました。じゃあこれは1回ジュートと同じように研究してやろうと、オリジナルのレザーバッグを新宿店から発表していったのです。それから少しずつ販売数が伸びていきました。
――途上国との「フェア」なビジネスとは?
実は現地でフェアトレードの商品を最初に見たとき、純粋に自分が買いたいかどうかという軸が見つからなかったのです。その後、<何がフェアなの?>という視点で色々なことを考えていたら、やはり現地の生産者にとって最大のプレゼントは「リピートオーダー」だということに思い至りました。「彼らの生活を守る」という大文字の宣言ではなく、「明日もちゃんと発注が入るの?」「明日も働けるの?」「給料はオンタイムで出るの?」という問いにリアルに答えられなければならないし、それが経済ではないかと思ったのです。
だとすれば「確実に売れること」を約束するのが一番大事なこと。これなら100パーセント勝てるという製品をつくることが一番フェアだと思いますし、それはお客さんにとってドキドキ感とワクワク感がある製品でなければいけないと思っています。大学時代の恩師が「途上国にとって最も大切なのは人的資本であり、それがないと経済の発展にはつながらない」と話してくれたことがあります。そこに現在のわたしの仕事の原点があります。
それからもうひとつ。わたしのゼミは毎年OB会があり、だれか一人がスピーチをすることになっています。2017年に恩師がわたしを選んでくれたので「どうして私なんですか?」と尋ねると「アクションしている人が一番偉いんだ」といってくれました。「どんなに頭のいい人とか、口を動かせる人よりも動いている人が世界を変えていくんだ」とおっしゃってもらえたのが本当に励みになっています。
やまぐち・えりこ
1981年埼玉県生まれ。慶應大学総合政策学部卒。当時、アジア最貧国とされたバングラデシュの大学院に進学。23歳で起業し、マザーハウスを設立。バングラデシュ、ネパール、インドネシアなどの自社工場・工房で、ジュートや皮革のバッグ、ストール、ジュエリーを生産し、自らデザイナーを務める。