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【寄稿】同志社大学大学院教授 浜矩子さん「経済優先と人命優先の真の関係」

経済優先か、人命優先か。こんな問題設定を目にするようになった。安倍政権はもっぱら「経済最優先」で人命を軽視しているのではないか。こんな批判や疑念も耳にするようになっている。

安倍政権には、どんなに手厳しい批判が集まっても当然だ。我が宿敵チームアホノミクスは、その政策運営の有り方について、もっともっと非難の集中砲火を浴びて然るべきところだ。筆者は、日頃から強くそう思っている。ただ、彼らが経済を優先して人命を軽んじているという批判は、少々、的はずれな面がある。なぜなら、経済を重視するということは、とりもなおさず、人命を重視することにほかならないからである。むしろ、この本質的関係にまるで気づいていないところにこそ、チームアホノミクスのアホたる最大の所以がある。ここを理解しておかないと、勘所を得た形で彼らを糾弾することが出来ない。

「国民の暮らしを最優先で考えた経済とはどういうものか。」この問いに答えよというのが、今回の寄稿ご依頼に際して頂戴したご指示だ。この設問に的確な解答を出すためにも、経済優先と人間優先の関係について的を射た認識が求められる。
 

基本的人権の土台中の土台は生存権

経済活動は人間の営みだ。他の生き物たちは経済活動を行わない。経済活動に携わるのは人間という生き物のみである。このように人間に固有な営みが、人間を不幸にしてはいけない。不幸にするはずはない。人間に固有の営みが人間を不幸にするというのは、全く辻褄(つじつま)の合わない話だ。経済活動は、人間を幸せに出来てこそ、初めて、経済活動の名に値する。多少とも、人間を不幸にする要素をはらんでいる営みは、経済活動ではない。経済活動としては、失格だ。名ばかりの経済活動だ。いつわりの経済活動である。経済政策に責任を持つ者たちは、まずは、これらのことについて理解と認識を徹底しておかなければならない。

今の状況の中で、一定水準の経済活動を維持しなければならないとすれば、それは何故か。それは、経済活動が完全停止状態に陥れば、まさに「国民の暮らし」が立ち行かなくなるからだ。国民の暮らしが立ち行かなくなれば、やがては国民の命が危機にさらされる。それほど人間を不幸にする状態はない。だから、経済活動を何とか維持するための工夫が必要になって来る。経済活動は人権の礎となれなければ、経済活動ではない。人から命を奪うのは、究極の人権侵害だ。生存権は基本的人権の土台中の土台だ。だから、経済活動を完全に途絶えさせるわけにはいかない。ここが基本だ。
 

「僕富論」ではなく「君富論」で

この基本をしっかり押さえた上で、何をしていいのか、何をしてはいけないのかを考える。どこまで経済活動のレベルを引き上げればいいのか。どこまで引き上げてはいけないのか。それを見極める。これが基本姿勢で、ここを発想の寄る辺としているのでなければ、パンデミックのさなかにあって、適切な経済運営をすることなど、出来はしない。

人権の礎であり、命の守り手たり得る。そのような経済活動の姿とは、どのようなものか。どのような要素がそこにあれば、そのような姿の経済活動が浮かび上がって来るのか。筆者は、そこに必要な要素は涙だと確信する。人が他者のために流す涙だ。不幸のどん底にある他者に、思いを馳せて泣く涙。他者の痛みが、我が胸に突き刺さるときに溢(あふ)れ出る涙。救いを求める他者の悲鳴が、耳をつんざくときに湧き出る涙。

このような涙を流すことが出来る人々。このようにもらい泣きすることが出来る人々。その人々が営むのが、真の経済活動だ。その人々が担うのが、真の経済政策だ。もらい泣き出来る力が人々の中に広くみなぎるとき、経済優先は全き人命優先になる。全き人命優先にぴったり合致する経済優先の構図が、そこに成り立つはずである。

そのような経済活動の構図とはどのようなものか。それが成り立つ世界とは、どのような世界か。
そこは、「君富論」の世界だ。筆者はそう思う。「きみふろん」と読む。経済学の生みの親、アダム・スミスの大著「国富論」にインスピレーションを得たネーミィングだ。「君富論」の「君」は「○○君」と言うときの「君」である。「あなた」の意だ。「君富論」の世界の住人たちは、常に「君の富が増えるためなら、自分は何でもする。あなたさえ良ければ、私は幸せだ」と言う。

「君富論」の世界と対極にあるのが、「僕富論(ぼくふろん)」の世界だ。この「僕」は「僕ちゃん」の「僕」だ。自分の意である。「僕富論」ワールドの住人たちは、常に「僕の富が増えるためなら、自分は何でもする。自分さえ良ければ、自分は幸せだ」と言う。
 

「ケアリングシェア・エコノミー」とは

「君富論」の世界は、究極の分かち合いの世界だ。もらい泣き出来る人々によるシェアリング・エコノミー。それが「君富論」ワールドにおいて成り立つ経済活動の有り方だ。筆者は、これを「ケアリングシェア・エコノミー」と名づけたい。

シェアリング・エコノミーという概念は、もうかなり定着している。自分の手元で余っているモノや空間を人に貸す。自分の余り時間に副業をして自分の能力を人に提供する。シェアリング・エコノミーは貸し借り経済だ。これが分かち合い経済に昇格するために、筆者が必要だと思うのが「ケア(care)」である。ケアなきシェアは本当の分かち合いではない。ケアはすなわち思い遣りだ。相手が何を必要としているのか。何をして欲しがっているのか。それらのことを慮(おもんばか)りながらモノをわけっこしたり、助け合ったりする。それがケアリングシェア・エコノミーだ。
 

ケア無きシェアは真の分かち合いではない。真の分かち合いは、相手のためを思っての貸し借り行為だ。今の世の中で行われている「ライドシェア」とか「シェアハウス」とか「民泊」などは、誰もが自分のためにやっている「シェア」だ。自家用車を持っているが、あまり使わなくて「車庫のこやし」となっている。それなら、人に貸してカネを稼ごうと考える。借りる方も、車があれば便利だが、買うのはイヤだ。だったら借りようと考える。いずれにせよ、誰もが「自分さえ良ければ」思考で動いている。それがシェアリング・エコノミーの世界だ。基本的に「僕富論」の原理に基づいて動いている。ついでに世のため人のために役に立てば、なお結構。それくらいの感覚はそこにあるかもしれない。だが、基本は我がためだ。

日本語的語感で「ケア」と言えば、いまや、看護や介護のイメージが強い。だが、ケアの元々の意味は、気をつけるとか、気にかけるなどである。”I care for you”と言えば、「私はあなたを愛している」の意だ。そこに愛があるとき、「シェアリング」は初めて「貸し借り」の域を脱して「分かち合い」に昇華する。この昇華が実現した時、単なるシェアリング・エコノミーが「僕富論」の世界と決別して、「君富論」の世界に踏み込むことが出来る。そういうことなのだと思う。

人間には、その世界に踏み込む力があると思う。だからこそ、このコロナの災禍に怯(おび)える中にありながら、世のため人のために布製マスクを懸命に量産したり、※「エッセンシャルワーカー」たちに心の底から喝采を送ったりしている。他者のために泣ける人々が、どれだけ数多くいるか。今、そのことが我々に示されていると思う。希望はある。我々はケアリングシェア・エコノミーが花開く「君富論」ワールドにたどり着ける。それを邪魔建てするチームアホノミクスを蹴散らし、踏みつぶし、その息の根を止めながら。
 

撮影/魚本勝之
 
※医療従事者を筆頭とする生活に不可欠な職種に従事する人たち


 撮影/越智貴雄
はま・のりこ
1952年東京生まれ。一橋大学経済学部卒業。三菱総合研究所初代英国駐在員事務所所長。同社経済調査部長を経て、2002年から現職。専攻はマクロ経済分析、国際経済。『小さき者の幸せが守られる経済へ』(新日本出版社)、『新・国富論』(文春新書)、『グローバル恐慌』(岩波新書)など著書多数。近著に『人はなぜ税を払うのか 超借金政府の命運』(東洋経済)がある。

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