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「モヤモヤ感」が大事なんです!

朝日新聞社編集委員 高橋純子さんに聞く


前回の衆議院議員選挙が実施されたのは2017年10月22日。来年秋には任期満了に伴う衆院選挙が予定されている。一時は「早期解散総選挙説」もささやかれたが、新型コロナ禍の影響もあってか立ち消え状態となった。前回総選挙の直前に河出書房新社から『仕方ない帝国』を出版。「選挙に勝った我々こそ民意だ」と言い切る政治のありように疑問を呈し、それはまったくの「カンチガイ」だと指摘したのは朝日新聞編集委員の高橋純子さんだ。再び衆議院選挙が近づくなか、あらためて「民意」とは何かを高橋さんに聞いてみた。

最初は「マスクファシズム」と評していたが

――新型コロナ対策をめぐり、政府に強いリーダーシップを求める声が聞かれます。国家が「緊急事態宣言」をすることに慣らされているようで怖い気もします。

安倍政権は経済や雇用などの不安を強調し、「解決できるのは自分しかいない」「この道しかない」と支持を勝ち取ってきました。もちろん、人々の不安を政策によって解消するのは政治の役目です。ただ、そのように組織された人々の不安が強い国家やリーダーを求める怖さを感じています。いま新型コロナ禍をめぐって問われているのは、まさしくそうした問題ですし、報道に関わる人間として、個の自由の保障と国家権力の発動による制御という矛盾した現実を前に何をどう書いていけばいいのかと悩む日々を送っています。ただ、コロナの問題では国家がある程度、前面にせり出してこざるを得ない部分もあります。公衆衛生に関わる問題を個々人の判断でよろしくとはいえませんから、やむを得ない側面はありますが、この状況に安易に「慣らされる」のは危険です。

当初「マスクを着けろ」といわれたとき、この動きを「マスクファシズム」と私は評していました。ですが、自分が感染するのではなく(だれかに)感染させる可能性があるとき、マスクをしない選択肢があり得るのかと考えました。現在は屋外ならマスクを外してもいいという方向にありますが、外していると「こいつは何だ」と非国民のように扱われ、エチケットを無視する人間に見られてしまうのではないか、だれに何をされるかわからないという恐怖感がこみ上げてきます。なぜかだか私、普通にしていてもおじさんから絡まれることが多いんですよ。

20年前になりますが、森喜朗首相の総理番記者を命じられました。首相が靖国神社に参拝するかもしれないというので、朝から現場で待機していたら石原慎太郎さんが参拝に来て、いわゆる右派のおじさんたちが盛り上がったのです。彼らはテレビ局のカメラマンと小競り合いになりました。そのとき私は朝日新聞の記者であることを示す腕章をしていなかったのですが、おじさんたちに「お前、朝日だろ。朝日新聞は出ていけ」と急に絡まれたのです。腕章をしていないのに、なぜか「反体制派」だと決めつけられて、朝日の記者だとばれちゃうんです(笑)。

そんなおじさんたちに絡まれたのは一度や二度ではありませんから、マスクをしていないと一層危険性が高まるんじゃないか、女性であればより危険ではないかと内心恐怖を感じてもいます。結局、いまはマスクをしてはいますが、大事にしなきゃいけないのは、慣らされるのではなく「これは必要なのか」「いまする必要があるのか」と自問自答し、結果的に国家の言うことに従うという状況ではあっても、自分が選択していると思えるかどうかでしょう。唯々諾々と権力者が言うことに従うのではなく、自分の頭を通して判断をしているんだと毎回確認していくことが面倒だけど必要ではないかと思います。


――それは「同調圧力」に屈するなということですか。

少し違います。「同調圧力」という言葉だけでは包含できないものがあると私は考えています。総理番の記者になるまでは、権力って何かを上から押し付けてくるものとばかり思っていましたが、それは誤った認識でした。記者が総理に一歩でも近づこうとすると取り巻きの人たちが「来ちゃダメだ」と強く威嚇するような行動に出ます。このようにわっと責め立てられると自己規制が働き、怒られるかもしれないからやめておこうとなるわけです。それは同調圧力とはちょっと違う。周囲を見渡すのではなく、自分で自分にブレーキをかける意識が働き、その力が自分のなかに次第に蓄積されていく。もちろん権力の怖さは同調圧力を生むことにもありますが、いつの間にか私たち自身が自己規制をしていくことのほうが怖いと思いますね。

世の中、「二分法」でも「ゼロサム」でもない

――「自己規制」が「同調圧力」を増強するという側面を見落としてはならないということですね。そのようにして生まれた「民意」を大いに味方に付けたのが小泉純一郎政権だった思います。小泉政権以降、日本の政治は正邪善悪が実に単純二分法化され、本来は断定できない、簡単には言い切れない部分をばっさり切り捨てる政治手法が定着し、社会的にも精神のデジタル化が進んだ気がします。

『仕方ない帝国』には収録できなかったのですが、私は「0か1かを乗り越えよう」という趣旨の企画を、かつて朝日新聞が発行していた『論座』という雑誌で手がけ、シンカーソングライターの井上陽水さんにインタビューしたことがありました。
井上さんの曲の歌詞って何が正しいとか、こう生きるべきと訴えるものではなく、だいたいモヤモヤしているというか、核心をあえてズラしている感じじゃないですか。インタビューの際ものらりくらりとかわされましたが、「ヒット曲を出した後の歌手って保守化していく人が多いですよね、人生賛歌を朗々と歌い上げたり……」という話の流れから、井上さんが「でも、私の『少年時代』もそういう感じの歌じゃないですか」と言われるので、私が「そのわりには歌詞の意味がよく分かりません」と返すと、井上さんが我が意を得たといわんばかりに「そう。それでなんとなくお許しをいただいているようなね」とおっしゃったのです。

『少年時代』はどこか郷愁を誘うメロディラインの曲ですが、歌詞の意味をはっきりさせないことで、単純な人生賛歌を乗り越えて、簡単には「消費」されない強度を有している。人を気持ちよくさせるだけの安易なやり方ではだめなんだということを井上さんは言っている、そう勝手に理解しました。メディアで働く人間として気を付けたいのは、敵味方をはっきり分けて自分の味方を囲い込む言説のほうがやっぱり読まれますし、ファンも増えて熱いエールも送られ、手っ取り早く気持ちの良い状態になれるということです。でもそれでは記者として、メディアとしてはだめ。読み手に悩んでもらったり、考えてもらったり、モヤモヤしてもらったりするためにメディアはあると私は思っています。


「ならば、両論併記でいこう」の意見が少なからずメディアの現場にはありますし、読者からも「一方的な意見ではなく、反対意見も掲載すべき」という要望が届きます。しかし、意見を意識的に対立させるとか、読者が自分で考えるものなのだから両論併記にするのが必ずしも正しい方法とは思えません。世の中、敵か味方かの二分法でもなく、合計するとゼロになる「ゼロサム」でもないはずです。私も常にモヤモヤ感を抱えて原稿を書いているのですが、すっきりとした書き方にしないと「今回の原稿はつまらなかった」「今回の原稿は元気が無いですね」と言われます。本当に悩ましい限りです。

二分法的といえば安倍政権は野党に対して「政府の施策に反対するなら、すぐに対案を出せ」と凄みました。本来なら「別の方法があるか無いか議論し、ともに考えていきましょう」と言うべきでしょう。そのプロセスを通して妥協点を探るのが議会制民主主義に基づく政治ですよ。ではなぜ、いまのような状況が生まれたのかといえば、1990年代の選挙制度改革、政治改革によるところが大きいと思います。「決められる政治にしていこう」「日本の政治が悪いのは政権交代が無いからであり、選挙制度を見直して政権交代が起こる状態を作り出していかなければならない」と、過度に民意を集約する選挙制度システムが導入されました。

それを上手に使ったのが小泉政権です。郵政民営化に賛成か反対かの二分法で問題提起して、総選挙を国民投票化することに見事に成功したのです。国民投票とは異なり、総選挙のイッシュー (争点) は一つではありません。にもかかわらず、選挙を国民投票化し、それに私たちメディアも乗せられ、選挙を勝つか負けるかという世界に見立てて面白がってしまいました。スカッとして、政治ってこんなにダイナミックなものかと受け止め、そうじゃない政治はつまらないものだと安直に考えてしまったのです。結果、私たちの暮らしにとって本質的に大事なことを議論する、小さいことに目配りし議論することが政治の世界から急速に失われていきました。

本当は目の前の小さなことを片付けるほうがはるかに大変なのです。たとえば、シングルマザーの貧困問題をどう解決するかという政治的課題に取り組もうとすれば、さまざまな要因が複雑に絡み合っているので難しいに決まっています。しかし「憲法改正」などと威勢の良いことを言っているほうが政治家としては楽ですし、注目も浴びます。これは私の経験則ですが、落ち目になった政治家はなぜか「憲法改正」と言い出します。安倍首相も改憲には熱心で「民意は我とともにあり」と訴えています。ところが、首相は民意にほとんど関心が無く、支持率という数字化されたものにしか興味がないのではないでしょうか。首相の関心は民意をどう汲み取るかではなく、どうすれば支持率を維持できるか、上げていくことができるかという点にしかなく、人々の意思を政治に反映する気はさらさらないようにしか見えません。だから自分にとって都合の良いタイミングで衆議院を解散し、我が勝利は民意の証しだと言ってのけ、自分たちにとって都合の悪い民意は「一部の声」として素知らぬ顔がしていられるのでしょう。ここに私たちは注意深く目を向け、もっと怒らなければならないはずです。

高校生に浸透する「為政者目線」と「無形の蓄積」

ところが、怒るどころか、奇態な現象まで起きています。ある大学の先生に聞いたのですが、「進学校の講演会に行くと、特に男子学生が『為政者目線』だったのに驚いた」と。「人生に失敗し、職が無いのは自業自得」「なぜ、私たちが助けなければならないのか」という意見が多く、「自分もそうなるかもしれない」とか、「これは個人の問題ではなく社会の問題。だから社会のありようを変えなければいけない」とは考えていないというのです。先の同調圧力にもつながりますが、日本の場合、個が立っておらず、集団性の中で生きさせられているのに、生き方に失敗したときだけ自己責任になってしまう。そこだけ個を立たせて、その人が悪いという論理がそこまで浸透していることに驚きました。

「日本には国家と個があって社会が無い」よく言われますが、社会というものは私たちひとりひとりが成り立たせているものであり、私たちの意思で形作ることができると考えられるような教育がなされていないように思います。周囲と競争し、たとえ望んだ結果が得られなくてもセーフティネットがあり、失敗しても立ち上がれるのだと若い人たちが思えていないのが気になります。そんな根強い自己責任論を問い直していかなければなりません。その意味で新型コロナ禍はひとつのチャンスかなと思うのです。自分たちの社会がどうなっていて、どんな人たちの尽力によって成り立っているか。それをより良いものにしていくためにはどうすればいいかを個々人が自問し、それを「民意」として発していく、政治の世界に突きつけていくときだと思いますね。


――容易に変わらない現実に挫折感やあきらめにも似た気持ちを抱えながら「このままでいいの?」と「モヤモヤ感」を抱え続けることの大切さについて、思想家の吉本隆明さん(故人) が「答えが出ないものは考え中でいいじゃないか。考え続けたことは無形の蓄積になる」と話してくれたと『仕方ない帝国』に書かれていますね。

吉本隆明さんは「ゼロかイチかの生産性の論理でいえば、原稿を書こうと机の前に座って1文字も書けなかったらゼロ。しかし、毎日書きたいと思って机の前に座るのと座らないとでは全然違う。結果1文字も書けなかったとしても、それは無形の蓄積になっている」とおっしゃった。もっぱらゼロかイチかの生産性の発想から人間を数字に換算していくような社会にしないためにも「私たちは人間だ」と声を出し、ひとりひとりの意思を表明していくしかない。それが無形の蓄積となり、私たちのパワーになっていくという重く意味深い提言と受け止めました。

思想家の鶴見俊輔さん(故人) は1960年の安保闘争の際に「法案が通っちゃったから負けたとか、これで終わりということではまったく無い」という趣旨のことを語っておられます。ここまで人の意思が集まったという実績を糧として、これからどうするかを思考していこうじゃないかという力強い呼びかけであり、意思ある人々が積み重ねてきた営為は無駄にはならないという貴重なメッセージだと思います。今年2020年は戦後75年ということもあり、長崎の原爆資料館に長崎市のメッセージが掲げられています。そこには「核兵器や環境問題、新型コロナなど世界規模の問題に立ち向かう時に必要なことの根っこは同じである。(1)自分が当事者だと自覚すること。(2)人を思いやること。(3)結果を想像すること。(4)行動に移すこと」とあります。その通りだと思います。私たちは主権者であり、私たちにはパワーがあるのです。この点を私は強く意識して原稿を書き続けていますし、今後もそうしていきます。

もう一点、忘れてはならないのが国家権力を心の底から信用してはいけないという75年前の教えです。だとすれば常に立ち止まって考えてみる、結果として受け入れるにしても眉に唾して舌打ちくらいはするくらいの気概を持ちたいものです。国家というものは恐ろしいもので、しっかり縛っておかないと何をするかわかりません。だから常に身構えてチェックするという義務が日本国憲法のもと私たち主権者に課せられているのです。とはいえ、権力は実に御しがたいもので、いつしか私がおかしいのか世間がおかしいのか、だんだんと分からなくなくなってきます。

そうならないためにも自分が嫌だな、おかしいなと思う感情を常に解放させ、いったんは言葉にする。もし間違っていたとしたら、素直に謝罪すればいいのです。それが自分の居場を手放さないということであり「自分が自分であることを諦めない」ことだと私は考えています。だからでしょうね。なかなかスッキリとはいかず、常にモヤモヤ感を抱えっぱなしです。そんなモヤモヤ感の大切さを多くの方にわかってもらえたらうれしいですね。

撮影/魚本勝之
取材構成/生活クラブ連合会 山田衛

たかはし・じゅんこ
1971年福岡県生まれ。1993年に朝日新聞入社。鹿児島支局、西部本社社会部、月刊「論座」編集部(休刊)、オピニオン編集部、論説委員、政治部次長を経て編集委員・論説委員を兼任。

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