「新しい生活様式」と「消費税」にご用心!
新型コロナウイルスの感染拡大が続くなか、「新しい生活様式」「新しい日常」というキャッチコピーが社会に浸透している。その意味するところは手洗いにマスク装着、密閉・密集・密接の3つの「密」を避け、人付き合いや仕事も情報通信技術を活用した「リモート対応」の奨励だろうと思いきや、どうやら話はいささか違うようだ。巨大地震などの大惨事につけ込み、巨大企業の利益を最優先した過激な新自由主義的改革を断行することをカナダのジャーナリストのナオミ・クラインは「ショックドクトリン」と呼び、警鐘を鳴らしている。同様の意図が「新しい生活様式」「新しい日常」という言葉に潜んではいないか。併せて、緊急浮上した新型コロナ対策としての「消費税」の税率引き下げの妥当性ならびに消費税制が抱える根本問題について、ジャーナリストの斎藤貴男さんに話を聞いた。
政官財とメディア、GAFAによる「支配」
――『民意のつくられかた』が岩波書店から出版されたのは、東日本大震災で社会が揺れていた2011年7月27日でした。当時、斎藤さんは「原子力神話」や「国策PR」「五輪誘致」など8つの切り口から「民意」とは何であり、どんなプロセスを経て形成されるかというテーマを追われています。来年で出版から10年になりますが、あらためて執筆の動機をお聞かせください。
何らかの社会的な動きが生まれるとき、そこには時の政権なり巨大資本の意志が働いており、メディアはたとえ命令されなくとも彼らの思惑に沿った報道を積み重ねていく流れが定着していきます。政権も巨大資本もメディアにとっては重要な情報源ですから、これはこれである程度は自然の成り行きともいえますが、それだけではいけないに決まっています。にもかかわらず、これを「民意の反映」と称してはばからない政治に強い疑念と嫌悪感を覚えたのが『民意のつくられかた』を書いた理由です。岩波書店の月刊『世界』で、その基になる連載をしたのは「3.11」より前でした。現在も状況は変わらず、そうした「民意創出法」は一層複雑かつ巧妙になってきていると思っています。
だいたい一口に民意といいますが、その実体は容易に把握できるものではないはずです。人間ひとりひとりの心の中を正確に覗けるのであれば、それを合計して多くの人たちの考えていることの方向性を割り出すことができ、それを「民意」といえるかもしれません。しかし、実際にそんなことができるわけもなく、私たちは主に報道を見て社会の現状を把握し、認識しています。ただし、同じ事実をどう解釈するかで変わってくるのが報道。だとすれば、これすなわち民意とは軽々にはいえないはずです。
今年8月に辞任を表明した安倍前総理は「民意」という言葉を「選挙の結果」という意味で使っていました。この用法を正しいとはまったく思いませんが、そこに根拠が無かったかといえば、そうとも言い切れない面があります。有権者に自分の政策を支持するか否かを問いかけて得た勝利なのだから「自分の考え通りに進めて何が悪い」と言われれば、原則的にはその通りですね、というしかないのが議会制民主主義だからです。この現実認識といかに向き合い、たとえば「選挙の際の公約に嘘はなかったか」とか「当選後、人の道を踏みはずした行いをしていないか」といった評価が有権者の判断によって、次の衆議院議員選挙で問われなければならないのはいうまでもありませんが、残念ながら「選挙で勝った政党がやることはいつだって絶対的に正しい」という意識ばかりが着実に広がり続けています。
これは『民意のつくられかた』に書きましたが、全国地方新聞社連合会という団体があります。共同通信社に加盟する地方紙の広告部門を担当している人たちの組織ですが、実際に取材してみると、たとえ広告部門であってもジャーナリズムの世界に身を置く人たちの間にさえ「選挙で勝った政権政党がやることはすべて絶対的に正しい」という見方が広がりつつあり、それに疑問を感じていなかったという現実に大きなショックを受けました。事態はかなり深刻になっているというしかないでしょう。
――選挙は「株主総会」と同じだと平然と主張する人まで出てきています。だとすれば日本はもはや国民国家ではなく株式会社だということになってしまいませんか。
そうですね。実際にそれこそ政治権力と巨大資本が一体となった超権力が標榜する新自由主義の姿でしょう。イスラエルの世界的な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの言葉でいうと「ルーラー(支配者)」ですね。昨今は政治権力と巨大資本にGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)と称されるプラットフォーマー(テクノ企業)が加わりました。彼らがビッグデータ(膨大な情報)を解析するために設定したアルゴリズム(数学的な問題解決のプログラム)が巨大な力を持ち、ほぼ完成の域に近づいているのは確実です。彼らは新型コロナ禍を機に情報技術(IT)によるリモートワークやリモート学習などの情報通信技術(ICT)化を推進し、人口知能(AI)の積極的活用を推進しようとしています。あとで触れますが、そこには必然的に大変な問題が含まれているのですが、実に素直というか従順にこれをメディアはイノベーション(技術革新)と囃(はや)し立て、歓迎する空気が着々と醸成されてきています。
何らかの社会的な動きが生まれるとき、そこには時の政権なり巨大資本の意志が働いており、メディアはたとえ命令されなくとも彼らの思惑に沿った報道を積み重ねていく流れが定着していきます。政権も巨大資本もメディアにとっては重要な情報源ですから、これはこれである程度は自然の成り行きともいえますが、それだけではいけないに決まっています。にもかかわらず、これを「民意の反映」と称してはばからない政治に強い疑念と嫌悪感を覚えたのが『民意のつくられかた』を書いた理由です。岩波書店の月刊『世界』で、その基になる連載をしたのは「3.11」より前でした。現在も状況は変わらず、そうした「民意創出法」は一層複雑かつ巧妙になってきていると思っています。
だいたい一口に民意といいますが、その実体は容易に把握できるものではないはずです。人間ひとりひとりの心の中を正確に覗けるのであれば、それを合計して多くの人たちの考えていることの方向性を割り出すことができ、それを「民意」といえるかもしれません。しかし、実際にそんなことができるわけもなく、私たちは主に報道を見て社会の現状を把握し、認識しています。ただし、同じ事実をどう解釈するかで変わってくるのが報道。だとすれば、これすなわち民意とは軽々にはいえないはずです。
今年8月に辞任を表明した安倍前総理は「民意」という言葉を「選挙の結果」という意味で使っていました。この用法を正しいとはまったく思いませんが、そこに根拠が無かったかといえば、そうとも言い切れない面があります。有権者に自分の政策を支持するか否かを問いかけて得た勝利なのだから「自分の考え通りに進めて何が悪い」と言われれば、原則的にはその通りですね、というしかないのが議会制民主主義だからです。この現実認識といかに向き合い、たとえば「選挙の際の公約に嘘はなかったか」とか「当選後、人の道を踏みはずした行いをしていないか」といった評価が有権者の判断によって、次の衆議院議員選挙で問われなければならないのはいうまでもありませんが、残念ながら「選挙で勝った政党がやることはいつだって絶対的に正しい」という意識ばかりが着実に広がり続けています。
これは『民意のつくられかた』に書きましたが、全国地方新聞社連合会という団体があります。共同通信社に加盟する地方紙の広告部門を担当している人たちの組織ですが、実際に取材してみると、たとえ広告部門であってもジャーナリズムの世界に身を置く人たちの間にさえ「選挙で勝った政権政党がやることはすべて絶対的に正しい」という見方が広がりつつあり、それに疑問を感じていなかったという現実に大きなショックを受けました。事態はかなり深刻になっているというしかないでしょう。
――選挙は「株主総会」と同じだと平然と主張する人まで出てきています。だとすれば日本はもはや国民国家ではなく株式会社だということになってしまいませんか。
そうですね。実際にそれこそ政治権力と巨大資本が一体となった超権力が標榜する新自由主義の姿でしょう。イスラエルの世界的な歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの言葉でいうと「ルーラー(支配者)」ですね。昨今は政治権力と巨大資本にGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)と称されるプラットフォーマー(テクノ企業)が加わりました。彼らがビッグデータ(膨大な情報)を解析するために設定したアルゴリズム(数学的な問題解決のプログラム)が巨大な力を持ち、ほぼ完成の域に近づいているのは確実です。彼らは新型コロナ禍を機に情報技術(IT)によるリモートワークやリモート学習などの情報通信技術(ICT)化を推進し、人口知能(AI)の積極的活用を推進しようとしています。あとで触れますが、そこには必然的に大変な問題が含まれているのですが、実に素直というか従順にこれをメディアはイノベーション(技術革新)と囃(はや)し立て、歓迎する空気が着々と醸成されてきています。
東日本大震災の際には、元に戻すのではなく震災前より良い方向にもっていくという意味で「復興」という言葉が使われました。ところが、その結果がどうなったかといえば震災前にあった小さなコミュニティーをつぶして高速道路をつくり、津波で流された町は放置したまま。原発事故で家に帰れなくされた被災者の補償もそこそこに、せっせと大型ショッピングモールを建設する動きが強まりました。まさに「復興」は大手ゼネコンや流通資本にとってのビジネスチャンス以外のなにものでもなくされてしまったのです。同様にルーラーは新型コロナ禍を新たなビジネスチャンスにしようとしているのは明らかです。それではいけない。いま求められているのはITやAIに身を委ねるのではなく、人間が人間として生きていける元の社会を取り戻すことだと私は考えています。
それにしても現在のマスメディアの動き方はひどい。本来なら、あまりに性急なIT化の流れに疑問を呈し、待ったをかけるのが責務だと思いますが、マスメディア自身がビジネス論理を優先し「こっちに付いておいた方がおトクかな」というような訳知り顔の報道ばかりが目立ちます。特にテレビと新聞にはがっかりさせられることが多いのですが、そこには「このままではネットメディアに席巻される。自分たちの生き残りのために金をくれるなら後は野となれ山となれ」という打算が働いている気がしてなりません。こうした思いを確信させられたのは、前地方創生担当大臣で自民党の片山さつき総務会副会長が「スーパーシティ」をテーマにした本を出したときです。
スーパーシティ構想と「人間ロボット化」計画
片山総務副会長(当時)に時事通信の記者がインタビューをして、今年8月10日付で配信したのが「スーパーシティになるしか自治体は生き残れない。キャッシュレス、自動運転、リモート授業などの新しい生活様式をデジタルでつくりあげる取り組みだ」という旨の記事でした。それまで「新しい生活様式」という言葉は新型コロナ感染防止のためだとされるマスクの装着やソーシャルディスタンシング(社会的な距離)の確保、テレワークと聞かされ、専門家もそう話していました。それがいつの間にかスーパーシティにおける生き方マニュアルにされてしまっていることに驚くと同時に、この間の問題意識のかけらも感じられなかった報道姿勢に嫌悪感を覚えたのです。
そもそも新型コロナウイルスの感染拡大が収束されるまでには、かなりの時間がかかることはだれの目にも明らかです。ワクチン開発が急がれるのは当然でも、安全性が確認されないうちに接種を進めれば、より悲惨で残酷な結果が待ち受けることにもなりかねません。それまで四六時中マスクをしているわけにもいかず、社会にはテレワークでは対応できない仕事も数多く、ならば「新しい生活様式」というより「とりあえずの生活様式」「当面の生活様式」という言葉が当てられなければおかしいので、「新しい」という表現はどこかおかしいと私は思っていました。そこに降って湧いたようにスーパーシティでの生き方が「新しい生活様式」だという話が飛び出してきた感じです。
スーパーシティは今年5月に通った国家戦略特区改正法の適用を受けた都市構想です。日本のどこかに実証実験するための都市をつくろうとするもので、内閣府が国策と位置付ける「Society(ソサェティ)5.0」に基づいています。人類の歴史は狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会。今度は情報社会の次の段階として、サイバー(仮想)空間と現実空間をつなぐモノのインターネット化(IOT化)により「超スマートシティ」をつくろうというのです。
そもそも新型コロナウイルスの感染拡大が収束されるまでには、かなりの時間がかかることはだれの目にも明らかです。ワクチン開発が急がれるのは当然でも、安全性が確認されないうちに接種を進めれば、より悲惨で残酷な結果が待ち受けることにもなりかねません。それまで四六時中マスクをしているわけにもいかず、社会にはテレワークでは対応できない仕事も数多く、ならば「新しい生活様式」というより「とりあえずの生活様式」「当面の生活様式」という言葉が当てられなければおかしいので、「新しい」という表現はどこかおかしいと私は思っていました。そこに降って湧いたようにスーパーシティでの生き方が「新しい生活様式」だという話が飛び出してきた感じです。
スーパーシティは今年5月に通った国家戦略特区改正法の適用を受けた都市構想です。日本のどこかに実証実験するための都市をつくろうとするもので、内閣府が国策と位置付ける「Society(ソサェティ)5.0」に基づいています。人類の歴史は狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会。今度は情報社会の次の段階として、サイバー(仮想)空間と現実空間をつなぐモノのインターネット化(IOT化)により「超スマートシティ」をつくろうというのです。
いまのところ、市民は情報を与えられる側に立つことが多いわけですが、今後は情報提供者となる双方向性を強化し、集めたデータをAIで解析して市民が暮らしやすい社会にしていくと内閣府は説き、それが「人間中心の社会」だと訴えています。よしんば監視されているという実感はなく、苦痛もない便利な暮らしが提供されたとしても、それって私たち自身の人生なんだろうか。早い話が一挙手一投足の監視につながる仕組みであり、AIに隷従するような暮らしのどこが「人間中心主義」なのか、私にはまったく理解できない。本末転倒も甚だしいというしかありません。
まだあります。日本で初めて新型コロナ感染者が確認されたのは今年1月16日。一週間後の1月23日に内閣府が「ムーンショット型研究開発制度」を発表しました。「ムーンショット」とはアポロロケットが月面着陸した際の米国大統領の掛け声です。普通なら考えられないくらいの大目標を設定し、そこに向かって政府や企業が研究、イノベーション(技術革新)していくことを意味する言葉です。
内閣府は「ムーンショット型研究開発」に関する報告書のなかで「2050年までに国民一人が1つのタスクに対して10のアバターを操作できるようにする」という目標を掲げています。アバターとはロボットおよび3D映像のことで、「一人が10の仕事に対して5から10体のロボットないしは3D映像を使えるようにする」とあります。この構想は「AIロボットと人間の融合」あるいは「人間のロボット化計画」とも呼ばれていますが、この報告書にも「新しい生活様式」という言葉が登場していたのです。人がルーラーに監視され、無意識にAIに管理され、働く機械として扱われるのが「新しい生活様式」というなら、とんでもない話です。
『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)によれば、中国は私たちが想像を超えた監視国家になっています。政府が信用スコアリング(採点、格付け)だけではなく、人々の道徳心、愛国心までスコアリングしているのです。「怠け者」だとスコアはどんどん下がりますが、愛国心を示すといっぺんにリセットされるという信じられない事例さえもが数多く収録されています。新疆ウイグル自治区や香港のように中央政府の権力と激しく対抗している地域もありますが、そこを除けば「みんなハッピー」とする旨が書かれていました。「中央政府が監視してくれているから安心して暮らせる。中央の不正は糺(ただ)されないが、地方役人の腐敗は中央の共産党幹部が懲らしめてくれる。以前より経済格差もなくなった」として国家による“幸福な監視国家”を歓迎する人が増えている。それだけ従来の中国社会が陰惨だったということですが、だとすれば、なおさらそれはまさに最大多数の最大幸福の実現であり、そこには功利主義に立脚した新自由主義の原理が働いているというわけです。
中国と同じ方向に日本社会が進まない保証はありませんし、むしろ、限りなく近づいているのではないですか。中国もどきの世の中が好ましくないと思うのであれば、いま私たちにできることは、どんなときにどんな形で「新しい生活様式」という言葉が使われているのかを、個々人が立ち止まって検証するしかないでしょう。そのとき注意したいのは、どんなメディアから発信されている情報についても、可能な限り「原典」に当たって確認することです。無責任でよい立場の人が流す情報というのは、主観が強く入りやすいし、そもそも真偽のほどさえ定かでない場合が多いので、たとえば内閣府に関する情報なら、内閣府のホームページを見て必ず確認するというように、大元をたどる必要があります。「誰々が言った」「〇〇といわれている」という記事があれば、その事実関係を必ず確認する手間を惜しんではいけないと思います。
政官財とメディアの「国策PR」が生んだ魔の税金
――新型コロナ禍を乗り切るための施策として消費税率の引き下げをめぐる議論が政治の世界で起きています。斎藤さんは2010年7月に発刊された『消費税のカラクリ』(講談社現代新書)、『決定版消費税のカラクリ』(ちくま文庫)で消費税不要論を提起し、その問題点を具体的かつ詳細に書かれています。その考えは現在も変わりませんか。
はい。いまも悪魔の税制だと思っています。消費税はあらゆる商品・サービスの全流通段階で課せられます。小売の段階はもちろん、小売店が問屋から仕入れるときも、問屋がメーカーから仕入れるときも、メーカーが素材メーカーから仕入れるときも全部かかります。輸送にもかかるし、保管の倉庫代にもかかる。ただし、2003年までは年商3000万円を下回る場合は納税義務を負わない合法的な「免税」事業者と見なされていたのですが、これが04年には年商1000万円以上の事業者はすべて納税義務を負わされることになりました。まさに中小企業つぶしといえる措置です。下請けの町工場が、元請けの大工場に部品を納める際に消費税を乗せて請求書を持っていけば「お前は二度と来るな」と言われ、暗に「取引中止」をほのめかされるといった事態は消費税の必然です。この理不尽から立場の弱い事業者が逃れる術は一切なくなったといっても過言ではありません。
帳簿上は消費税を支払ってもらえた形になったとしても「消費税分は値引きしろ。安くしろよ」と求められれば応じるしかなく、結局は収益が悪化するなかで消費税分を自己負担せざるを得なくなる構造も常態化しています。年商1000万円規模なら、現行税率で単純計算すると消費税は100万円。これが持ち出しになるわけですから、経営環境の悪化は免れませんし、現実に倒産して自殺する経営者も続出しています。
にもかかわらず、この地獄のような構図を一般のサラリーマンはなかなか理解してくれません。理由は1980年代から流布され続けているクロヨン論。税金を源泉徴収されるサラリーマンばかりが多くの税金を取られて損をしており、自営業や事業主など自分で確定申告する人はうまく脱税しているという認識を広げられてしまったからです。そもそもサラリーマン税制はナチスドイツが戦費調達のために導入した戦時徴税システムです。それを絶対的な正義と見なす価値観は政治権力と大資本、大手広告代理店を軸とするマスメディアが一体となって国民大衆に刷り込む「国策PR」から生まれました。そんな「民意」を巧妙に利用してつくられた輸出型大企業のための税制が消費税なのです。
この点は周知の事実となっていますが、消費税の課税対象は日本国内での取引きに限定されるため、海外への輸出には課税されません。この結果、輸出企業が仕入れなどのために国内の取引先に支払ったことになっている消費税は「輸出戻し税」として、数百億円から数千億円単位で還付されています。詳細は『消費税のカラクリ』に書きましたので、興味がある方はご一読ください。
とにかく欺瞞と欠陥だらけの税金というしかなく、いまも私は消費税廃止論者です。しかし、新型コロナ対策として消費税率の引き下げには反対です。消費税の問題点は多々ありますが、転嫁できない現実が続いていることが一番の問題だと思っています。中小零細企業は取引先に転嫁できない消費税を自腹で納め続けなければならず、おまけに不況による消費者の低価格志向のあおりを受けて値引きを迫られる状況下で、いま消費税率を引き下げれば、過剰な価格引き下げ圧力が働くのは必定だからです。ますますデフレが深刻になり連鎖倒産が起きかねません。やはり、30年くらいのスパンで現在の税制を見直し、最終的に消費税制を廃止していくしかないでしょう。この税制の悪魔性は、それほどまでに根深く、ひとたび陥れば容易なことでは脱出がかなわないということです。
――すぐにできることはありませんか。
租税特別措置の見直しでしょう。これは経団連の幹部に直接聞いた話ですが、「日本の法人税は世界一高いと言ってるが本当はそうじゃない」と言うんです。表面税率だけを比べると高いのですが、多種多様な特別措置があって「企業が国策に合ったことをすると研究開発減税などを税制面で優遇してくれる。そういう事実に照らせばトータルでは決して高くない」と。日本の社会保険料や年金、健康保険の負担は企業と従業員でおよそ半々ですが、ヨーロッパでは6割くらいを企業が負担しています。この点でも日本の企業負担は高いわけではないのです。
所得税の累進税率も1970年代の19段階から、99年には4段階にまで緩くなりました。最も税率の高い年間所得1800万円以上でもわずか37パーセントです。1800万円といえば大企業の部長クラスですが、その上の役員になると億単位の所得、ユニクロやトヨタの会長クラスになれば天文学的な所得があるのに、適用税率は同じというのは実におかしいわけです。さすがに批判を集めて2007年からは5段階にして最高税率は年間所得1800万円以上が40パーセントに、2015年からは4000万円以上には45パーセントの税率が課されることになりましたが、まだまだ、とても十分とはいえないのです。この累進税率の見直しをもっともっと強化しなければ格差是正など夢のまた夢。だから累進を強化する。これは国税の話です。いま、住民税はフラットで富裕層もそうじゃない人も10パーセント。これも累進にすべきでしょう。あとは富裕税の新設と相続税の見直しですね。宗教法人課税も検討の余地があると思います。
ここで消費税に話を戻しますが、私が学生だった40年ほど前も「日本は財政破綻寸前だ」と言われていました。ところが、現実はそうなっていません。その理由について「消費税を導入したからだ」という人もいますが、とんでもない。消費税が導入されたのは1989年。3パーセントから5パーセント、8パーセントから10パーセントになり税収が増え、いまや基幹税の一つになっています。それで税収が増えて赤字国債の返済が進んだかといえば決してそんなことはなく、「税と社会保障の一体改革」と言っておきながら社会保障費が十分に増額されたわけでもありません。結局、大企業の法人税減税の穴埋めに使われただけだと断じてよいと思います。
東京海上アセットマネジメントという投資顧問会社のエコノミストが、2019年12月に「GDPに占める日本の借金残高比率は現在200パーセント。この数字は戦争末期と同じ」という試算を公にしています。消費税が導入される80年代後半はまだ50パーセント。導入後に4倍の200パーセントまで財政負担が上がっているのはおかしいと思いませんか。政府は消費税の導入時に「少子高齢化に備える」と言っていました。88年にワンルームマンションを運営する会社が、顧客向けに発行していた宣伝媒体で「日本銀行の調べによると、定年後に老夫婦が暮らすには年金の支給だけでは足りない。あと1500万くらい必要」として「だから当社のワンルームマンションを買って老後に備えてください」と呼びかけたことがあります。日銀のデータというのは事実であり、だからこそ宣伝にも使えた。いまでも、誰にでも確認できますよ。昨年話題になった「2000万円問題」と似ていませんか。あの当時は「1500万円足りないから消費税で賄う」と言っていたのに、結局30年経ったら老後の資金不足は拡大してしまった。これも社会保障には全然使われていないという証しでしょう。なんだってみんな、たった30年前のそんな肝心なことを忘れてしまうのでしょう。そんなことだから、いつまでも騙(だま)され続けるのではないですか。
撮影/魚本勝之
取材構成/生活クラブ連合会 山田衛
さいとう・たかお
1958年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。英国バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。日本工業新聞記者、「プレジデント」編集部、「週刊文春」記者などを経て独立。『機会不平等』(岩波現代文庫) 『ルポ改憲潮流』(岩波新書)、『「あしたのジョー」と梶原一騎の奇跡』(朝日文庫)、『子宮頸がんワクチン事件』(集英社インターナショナル)『決定版消費税のカラクリ』(ちくま文庫)など著書多数。