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三里塚で続く、有機農業【青果物】


ニンジン、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ。見た目は他で販売される野菜と変わらないが、これらはすべて農薬も化学肥料も使わないで育てているもの。それを消費者に食べてもらうのが、「三里塚農法の会」の願いだ。

想いは同じ

「三里塚農法の会」は、千葉県成田市の成田国際空港周辺で有機農業を営む、10軒の農家の集まりだ。
そのうち6人は15年ほど前から新規に農業を始めた。最初から農業を選んだのではなく、それぞれに公務員や会社員として働きながらこれからの人生を考えた時、農業と出会ったという。動機はさまざまだが、同じ農業でも、農薬も化学肥料も使わず、自然と共生し生育を見守る有機農業を目指す想いは同じだった。

農業の経験のない彼らが頼ったのが、有限会社「グリーンポートアグリ」。成田国際空港が、有機農業者を育てる目的で周辺の農家に協力を呼びかけ、2005年に設立した。そこでは、有機農業を始めたい人が、2年間、実際にほ場で作物を作りながら研修を受ける。卒業すると、農地や機械を借りて就農することができる。農地は、以前は農民がたい肥を入れるなどして土作りをし、野菜を育てていた土地だ。空港が建設され、上空を飛行機が飛ぶ騒音地域となったため、放置されていた。

空港建設をめぐっては、地域農民は長年、成田国際空港と対立してきた歴史がある。自らも反対運動を続ける一方、グリーンポートアグリの設立にかかわった三里塚農法の会の龍﨑春雄さんは、「日本の農業人口は65歳以上が3分の2を占めるようになりました。この地域の農業者は60代、70代が多く、後継者もいない状態です。空港会社が、普通の農業者ではなく、私たちが続けてきた有機農業に就く農業者を育てるというなら、自分も協力しようと思いました」と話す。一般に行われている栽培方法は、農薬や化学肥料を使う慣行栽培であり、当時、有機農業者を育てる試みは画期的な事業だった。

グリーンポートアグリの最初の卒業生が就農する頃、三里塚農法の会ではメンバーが高齢になり、農地の規模を縮小したり農業をやめたりなど、会の存続が危ぶまれていた。一方、有機野菜の需要は高まり販路が増えている。生産物の販路をみつけなければならない卒業生は、快く三里塚農法の会に受け入れられた。

「みんな、一旦は社会に出て苦労して裸一貫で飛び込んできた人たちです。就農して3年後ぐらいから私たちと対等に作付けし出荷しています。刺激にもなっていますよ」。農法の会に新しい力が加わったことをとても心強く思っている。

空港反対から生まれた有機農業

千葉県成田市南東部は三里塚と呼ばれ、関東ローム層に覆われた北総台地の中心部にある肥沃(ひよく)な土地だ。明治時代に開墾が始まり、1930年代の終わりごろには関東地方有数の農業地となり、牧畜も盛んだった。第2次世界大戦後も未開地の開拓がすすめられるが、農地として利用できるようになるまでの農民の苦労は大変なものがあった。

66年、その三里塚と周辺の芝山町、多古町にかけて、新東京国際空港(現成田国際空港)建設が閣議決定される。建設予定地では、土地の農民と全国から集まった活動家により、激しい建設反対運動が繰り広げられた。

この反対運動の中から、有機農業を営む生産者グループが生まれる。70年代にたい肥作りを始めたのが「三里塚微生物農法の会」。農薬も化学肥料も使わず、自然のサイクルの中で育つ野菜を作っていた。途中、考え方の違いなどから分会を繰り返し、76年に三里塚農法の会が発足する。

代表の柳川秀夫さんは、明治期より開墾に入った農家の3代目。「当時、農薬も化学肥料も使わないで虫食いだらけになる覚悟で野菜を作るということは、常識では考えられないことでした」。時間をかけて土作りをし、育つ時間がそれぞれに違う作物を相手に自然に従って栽培する。その、作物が育つ条件を整えるのが自分の仕事だと言う。それは、機械化も含め、化学肥料や農薬を使い、作物の成長をコントロールする近代農業とは対極にある考え方だ。

「近代農業と同じ効率重視の政策のひとつとして空港建設がありました。それにノーと言うには、自分たちのそれまでの農業のやり方を変えなければなりませんでした。空港反対運動があって、有機農業に行きついたのです」
三里塚農法の会の代表、柳川秀夫さん。「成田空港建設前の三里塚は、四季の移り変わりがきれいでした。その頃の風景、どこに何があったかを今でも覚えていますよ」
龍﨑春雄さん。室町時代末期ごろからの農家。三里塚の歴史をつぶさに見てきた
佐々木智子さん。2年間の有機農業研修を経て就農した。生活クラブの窓口を担当している

元気な野菜を育てる

そういった想いを知ってか知らずか、新規就農者もそれぞれに、2ヘクタール前後のほ場で、年間を通して30種類から40種類の野菜を作る。

2009年に三里塚農法の会に参加した佐々木智子さんは、「自分で食べるものを自分で作りたかったんです。それも、なるべく自然に迷惑をかけない方法で」。有機JASも取得した。「有機JASの中でも、使用を許されている生物農薬があります。虫の天敵の役割をする微生物を散布するのですが、それも使いません。まったく農薬を使わず、自然にまかせて野菜を育てているんですよ」

土作りはたい肥や緑肥を使い、自分たちで工夫しながらそれぞれのやり方を考える。栽培方法などは、メンバー同士で情報交換することもある。三里塚農法の会としては、出荷を一緒にするだけ。「共通なのは、元気な野菜が採れるように、それぞれに努力すること」と柳川さん。「三里塚で農業を続けている私たちが、一番大事にしていることです」。その想いは受け継がれ、野菜を通して消費者に伝えられる。
根岸潤一郎さん
幸島祥典さん
関谷良和さん
橋本誠一さん
池田佳代子さん
龍﨑一彦さん
撮影/田嶋雅巳
文/本紙・伊澤小枝子

自分らしく、農業を

「消費者から有機農業は大変ですね、とよく言われますが、ぜんぜんそんなことないですよ。食べてもらいたくてこの方法で作っているんですから」と、三里塚農法の会の発足当時からのメンバー、龍﨑春雄さん。新規就農した他の人たちも、「思っていた通りの農業です」と口をそろえる。

根岸潤一郎さんは東京出身。「食料自給を考えた時、農業に就くことを決めました」。続けるには消費者の支えが必要だと言う。橋本誠一さんは、「小さいころ田んぼにメダカがいたような、自分が経験した楽しかった環境を残していきたい」。

「自分が一生続けられる仕事として農業を選びました」とは、長野県出身の関谷良和さん。幸島祥典さんは「実践している人たちに教えてもらいながら、生活が成り立つ限りここで農業をやっていきますよ」。学校給食の栄養士だった池田佳代子さんは、定年後に予定していた就農を少し早めた。「覚悟はしていましたが、虫とか草とか大変でした」と笑う。「前の仕事をやめてここで農業を始めたらストレスがなくなりました。激しい気候の変化に対応できるようにしたい」とは龍﨑春雄さんの長男で、後継者を自任する一彦さん。

三里塚農法の会の発足は1976年。化学肥料も農薬も使わないので虫食いだらけの野菜を作っていた。当時の常識では考えられず、農協にも理解してもらえなく、販路はほとんどなかった。

78年、生活クラブ千葉で取り組みが始まる。組合員のもとへは穴だらけの葉物も届いたが、共同購入は続いた。代表の柳川秀夫さんは、「その頃は数人で活動する班が中心で、みんなで話し合いをして、どういう野菜なのかと理解を深めながら利用していたのではないかと思いますよ」
 
三里塚農法の会で出荷する野菜はすべて、生活クラブ連合会が自主的に定める規格、「あっぱれ育ち野菜」にあたる。生活クラブへの出荷時期は、ほかの生産地との調整もあり、あらかじめ決められている。出荷時に重量や大きさが規格内ではなかったり、数量がそろわなかったりすると、あっぱれ育ち野菜とはならない。カタログの表示の仕方では、どのような野菜であるかが、組合員にうまく伝わっていないのがもどかしいとメンバーは思っている。

ほ場のほとんどが、普段なら時間帯によっては、頭上を飛行機がひっきりなしに飛ぶ場所にある。速さを競い、便利さを追い続ける世の中の流れとは別の時間が流れていた。

撮影/田嶋雅巳
文/本紙・伊澤小枝子

『生活と自治』2021年4月号「新連載 ものづくり最前線 いま、生産者は」を転載しました。
【2021年4月20日掲載】

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