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必要な時に必要なことを――「逆境力」で生業をつくる


 
宮城県牡鹿(おしか)郡女川(おながわ)町。東日本大震災発生直後、壊滅的な被害を受けた海沿いの町の避難所では、体や心に大きな傷を負った高齢者たちが悲しみに暮れていた。高齢者の心の復興を目指して始まった手探りの市民活動は、一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」の事業へと発展。震災から10年を経て、市民主体の新たな生業をつくり地域の活性化を図ろうと、動き出している。

夢をかなえる場所

写真左手の一軒家が「ゆめハウス」

高台の道路から穏やかな海が見える。浜に降りていく坂道の途中にポツンと一軒、建物がある。「ゆめハウス」。宮城県女川町で地域の復興支援を続ける一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」の活動拠点だ。東日本大震災で津波による壊滅的な被害を受けた高白浜(たかしろはま)地区で、奇跡的に残った倉庫を改築した。

「母屋はゆめハウスの前にありました」。うみねこの代表、八木純子さんがそうつぶやく。倉庫は代々漁業を営む八木さんの実家の持ち物だが、震災後、女川町沿岸地域には建築制限が課せられ、津波が到達した地点には新築はできない。「解体せずに何とか再生したい」。八木さんの願いは共感を呼び、企業や行政の助成金のほかインターネット上で出資を募る「クラウドファンディング」を実施したところ、全国から改築費用が寄せられ現場作業にはボランティアで参加するさまざまな人が集まった。2014年4月、人々が夢を語り、夢をかなえる場所にしようとゆめハウスがオープン。以来、地域食堂やコミュニティーカフェだけでなく、農産物の加工や木工品の創作の場所としても、多目的に活用されてきた。
倉庫のほかにも津波に流されなかった物がある。2本のイチジクの木だ。1本は枯れてしまったが、震災から2年後、生き残った1本が実をつけた。八木さんはその生命力に勇気づけられ、津波に土をさらわれ荒れ果てた土地を開墾し、畑にしようと考えた。「かつては多くの家の庭先にイチジクの木がありました。畑をつくり、特産品を生み出そうと考えたんです」。夢は、女川町を「イチジクの里」にすることだと言う。

敷地内の果樹園には、6種類、140本のイチジクの木がある。果実の最盛期は10月上旬。コンポートやドライフルーツに加工して販売する。果実の収穫期以外も経営が安定するよう「いちじくの葉茶」も開発した。カフェインを含まずミネラル成分が豊富で、定期的に購入するファンもいる。今や重要なうみねこの収入源の一つだ。

うみねこの活動は各種メディアで紹介され、八木さんへの講演依頼も多い。ゆめハウスには、全国から企業や市民団体、修学旅行生など、おおぜいの人が訪れ、ボランティア活動なども体験する。その原点にあるのは、東日本大震災直後、八木さん自身が避難所で始めたボランティア活動だ。
一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」代表の八木純子さん

マイナスをプラスに

「コロナ禍で家にいる間も、布ぞうり作りがあって良かった」と話す女川町小乗(このり)地区のみなさん。手慣れた人でも1足編むのに二日間はかかる
牡鹿半島の観光振興を図る「牡鹿よかとこ隊」の齋藤舞美(まいみ)さん。斎藤さんが集めた魚の耳の骨「耳石(じせき)」╳元漁師が作るうみねこの「ゆめだま」で、新たなものづくりが始まった
2011年3月11日、八木さんは自宅のある石巻市で被災した。身を寄せた市内の避難所で目にしたのは、小さな子どもを抱え、食事やトイレもままならない母親たちの姿だった。「子守りならできる」。20年以上、保育士として働いた経験から、八木さんは知り合いの女性たちにも声をかけ、乳幼児の見守りを始めた。

その後、生まれ育った女川の避難所を訪ねると、多くの高齢者が生きる意味を見失い、布団に伏したまま時間をやり過ごしていた。「私ではなく、若い人たちが生き残ればよかった」。異口同音にそう話すのを聞き、自分のこと以上につらかったと八木さんは振り返る。「何かできることはないか」。石巻の仲間と話し合い、高齢者にも、誰かのためになるような仕事が必要だと思い至った。

試行錯誤の末、女川の仮設住宅で、支援物資のTシャツを再利用した布ぞうり作りが始まった。八木さんたちは、かぎ針を使った独自の編み方を考案し、高齢の女性たちに教えていった。凹凸が足裏を心地よく刺激する布ぞうりは、復興を願う人たちに歓迎された。たくさんの支援に感謝する一方だった高齢者たちにとって、布ぞうりを買った人からの感謝の言葉は、何よりの励みになった。

畑の開墾は仕事を失った元漁師たちの活躍の場として始まった。がれきを撤去し、木の切り株を引き抜く。毎日のようにボランティアの応援があり、時には100人を超える日もあった。震災から2年後、無事開墾した畑にトウガラシやニンニク、そして新たにイチジクの木が植えられた。鳥獣除けの防護ネットの扱いには、漁師の経験が大いに生かされた。

うみねこは、困難に直面しても心折れることなく明るく生きられるよう、地域の人々を支援してきた。ここ数年、全国で大きな自然災害が多発し、うみねこには、そうした「回復力(レジリエンス)」について話をしてほしいという依頼が寄せられる。
八木さんはこれを「逆境力」と呼んでいる。「一つには、生きる力をなくした人たちがものづくりで生きがいを見つけ、作り方を教える人になっていったこと。次に、荒れ果てた土地を農地にして特産物を作ったこと。最後に、壊滅的な被害に遭った建物をみんなが集まるような場所につくり変えたこと。逆境力でこの三つにチャレンジしました」

高齢者には知恵と経験が、荒れ果てた土地には生き残ったイチジクが、壊れた倉庫には夢を描く自由があった。マイナスをプラスに逆転させ、驚きと笑顔を生み出すことが、八木さんのパワーの源だ。
手作り品の製作・販売は今もうみねこの主要活動。地域の女性が中心となり手作りされている
靴下製造会社から譲り受けた裁ち落とし部分を利活用したバスマット

新たな生業を次世代に

「今まで頑張って維持していた集落が津波で跡形もなく流された時、若者より高齢者の方がずっとダメージが大きかった」。高齢者の笑顔を取り戻すことから始めた理由を八木さんはそう振り返る。

だが、その役割も少しずつ変化してきた。「震災から10年たって、女川の人口も産業も減り続けています。働く場所がない。やりたいと思う仕事がない。若者が離れていくという負の循環です。ゆめハウスを建てた時、ここを働く場にしたいと思いました。これからは若者が働ける生業をつくって持続させることが、私たちにできることかなと思っています」

こうした八木さんの構想を支え、引き継ぐのは、ゆめハウスを働く場として選んだ平塚浩介さんと山内美恵子さんだ。常勤スタッフの平塚さんは、震災前、家具製作会社に勤めていた。「ずっとものづくりをしてきて、僕自身も転換期でした。うみねこは面白いことをしているな、ここなら働きながらものづくりができるなと思ったんです」と平塚さん。17年にはようやく仮設住宅を出て、石巻に新築の家を建てた。地域の役に立つ仕事をしながら、暮らしを維持していきたいと考えている。
「ここで働かない?」。6年前、カフェの客としてゆめハウスに来た山内さんは八木さんから声を掛けられた。「子育てに疲れたとつぶやいたら、八木さんが『楽しくできるよ』って。子育ては楽しいけれど、それ以外のこともしたかったんです」と山内さん。「人見知りの私でも、ここでは無条件に人に関わらざるをえない。それが楽しいですね」と話す。当時は小さかった子どもも中学生になり、今後は働く時間を増やす予定だ。

ものづくりで事業を持続する。うみねこのファンをつくる。平塚さんも山内さんも目指すところは同じだ。とはいえ、小さな団体には課題も限界もある。「こういうことって始めるより続けることが重要ですよね」と平塚さん。買ってくれる誰かではなく、うみねことつながりたい誰かに向けて、地道にものづくりをしていこうと考えている。

昨年末から、八木さんは鮎川浜(あゆかわはま)や雄勝町(おがつちょう)など女川町近隣の地域の活性化にも関わり始めた。「地域特有の資源を活用して新しい仕事をつくりたい」。そうした思いはあっても、地域の生業づくりに行き詰まっている人々の伴走だ。八木さんがこれまでに培ってきたアイデアの出し方や販売の仕方が力を発揮する。何より、うみねこには人とのつながりが生み出した多くの実績と経験が生きている。

「コロナ禍で、改めてその価値を実感した」と八木さん。つながるその先にも、さらなるつながりが広がっていきそうだ。
イチジクの枝切りをする平塚浩介さん(右)と山内美恵子さん
撮影/永野佳世
文/本紙・元木知子

『生活と自治』2021年3月号「ロードマップ――その先の明日へ」を転載しました。
 
【2021年5月24日掲載】

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