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【連載】 斎藤貴男のメディア・ウオッチvol.4 いまも私たちを操り続ける巨大な「怪物」 日本広報センターの亡霊


 
「日本広報センター」という組織をご存じだろうか。政府の施策や方針を国民に広く知らせる目的で、1967年6月に設立され、2013年3月に解散するまでの46年間にわたって運営された財団法人だ。

具体的な活動内容がマスメディアに詳しく報じられたことはない。もはや実体はどこまでも藪の中なのだが、その発足直前の67年5月30日付「日本経済新聞(朝刊「窓」欄)」(以下、日経)が、次のような “コラム” を載せたことがあった。同センターは総理府(現内閣府)からの1億5000万円の補助金と、財界などからの寄付金を合わせ、合計約4億1000万円で事業を行うと述べられている。さらにこう続く。※太文字引用

……◎講演会の開催、出版物の刊行とならんで連続テレビドラマ、劇場用短編映画の製作も計画しており、テレビドラマでは一本約450万円をかけて「一時間もの」を年間十数本製作したい。

……◎日本広報センターでは民間協力会社をスポンサーにして政府の名前は表面に出さないが、「娯楽的要素も盛り込んだ優秀な作品を目標として、国家の正しい方向を浸み込ませるようにしたい」


と、全国ネット放映を実現したいと意気込んでいる。

要は政府と財界が、世論を都合よく操る目的で映像作品を放送局や映画会社に作らせる。国民は楽しみながら洗脳されていく。戦前戦中もかくやのプロパガンダなのだった。

許されてよい “政策” では絶対にない。であれば少なくとも社会面トップ、いや、1面トップでもおかしくないスクープがどうして、“ちょっとした読み物” みたいな扱いになったのか。

大昔の業界話なんて、と思われるだろうか。それでは済まないと考えるから、このテーマを筆者は取り上げている。だから今しばらくは、騙(だま)されたと思って読み進めてみていただきたい。

話を戻す。こんな経緯があったらしい。

没(ボツ)原稿を他紙に託した記者

日経文化部の放送担当記者が、政府と財界の動きをキャッチしたのは前年(1966年)末のことだったという。この記者は半年近くをかけて取材を進め、表紙にマル秘のゴム印が押された「日本広報センター」設立趣意書や事業計画書なども入手。スクープ扱いにも耐えられる全文120行の原稿にまとめ、社会部のデスクに持ち込んだ。

記者はきわめて慎重に原稿を構成していた。「世論操作」などといった、価値観の別れる表現を避け、同センター設立に関わる、ごく客観的なデータと、当局側資料を引用の柱とした。系列放送局(日経の場合は東京12 チャンネル・現、テレビ東京)を擁する新聞社では、電波を司る郵政省(現、総務省)を刺激しそうな記事は掲載されにくいのが常なので、記者はこの関門を突破することに心を砕いたそうである。

と同時に、当時の日本新聞協会会長(毎日新聞社社長)や日本民間放送連盟会長(TBS社長)らが、同センターの評議員就任を辞退する姿勢である旨をも述べておいた。政財界の意図に対するマスコミ首脳の警戒心を知ってもらえば、多くを語らずとも読者はわかってくれるに違いない、という判断だった。

苦心は、しかし、実らなかった。デスクには、「この記事を載せて国会で問題になり、同センターの計画が潰れでもしたら、系列放送局が得られるはずの政府広報予算がふいになる、それは日経にとってマイナスだ」と、一度は没(ぼつ)を宣告された。

紆(う)余曲折の結果、原稿はわずか28行、当初の4分の1足らずに圧縮・改変され、前述のコラムの形で掲載されることになる。ボツにはしなかったゾ、と言いたいがためだけのアリバイ記事。実際、あえて読者の関心をひかないように “工夫” されたミニ・“コラム” が注目されることはなかった。

もっとも記者は、そうなる過程で早い段階から上司らに見切りをつけていた。
日経ではこの問題で世論を喚起することはできないと踏み、最初にボツを言い渡された翌日、同じ記者クラブを拠点にしている朝日新聞の放送担当記者に、自らの取材成果を託したのである。

朝日は大きく取り上げてくれはした。2面のトップで、〈“官製ドラマ” 茶の間へ 日本広報センター 十月から店開き “世論操作” の批判も〉の大見出し。これを受け、横山泰三の1コマ漫画「社会戯評」も、その危険性をしっかり訴えていた。

ただし、掲載されたのはネタの提供から1ヶ月近くも経った後の6月25日付朝刊。この間には国会も終わり、日本広報センターの是非がスタート前に国会の場で議論されることはできなくなっていた。

幻のスクープが伝えるのは――

以上のストーリーは昨年11月3日に90歳で亡くなったメディア研究者・松田浩の絶筆『メディア支配』(新日本出版社、2021年)の記述を、筆者なりに再構成したものである。松田は後に立命館大学教授に転じるまでは日本経済新聞の記者であり、件(くだん)の「日本広報センター」をめぐる “幻のスクープ” の、まさに当事者本人であった。

松田は同書の、このエピソードを取り上げた最後の節に、こう書いている。

まず朝日新聞について。※太文字引用

うがった見方をすれば、一見特ダネの形に見えながら、その実広報センター関連の予算・討議終了を待ったうえで、しかも週刊誌報道の「後追い」の形で記事掲載をするという政府にとってもっとも実害の少ないタイミングと方法を選んだ政治的配慮が印象に残った。資料を提供した人間として言えば、国会審議中のもっと早い段階で朝日が報道してくれていたらという思いは残る 

週刊誌云々(うんぬん)というのは、松田自身が朝日の報道の1週間前、『週刊現代』(1967年6月15日発売号)のニュース欄に匿名で、「日本広報センター」に関する短い記事を寄せていた件を指している。本来の職場で原稿をズタズタにされ、ここならと頼った朝日もなかなか報じてくれない中で、この問題をとにかく広く伝えたい一心だったようである。

日経の記者として取材した情報を、朝日や週刊誌に流すとは、と憤った読者もおられるかもしれない。なるほど一般の企業で情報漏洩(ろうえい)はご法度だろうが、会社員である前に職業人たらんとする傾向が強かった時代の新聞記者には、決して珍しいことではなかった。

もちろん、自社での報道のために全力を尽くし、職業倫理を自律的に守り抜いた上でのこと。松田の場合はこれに該当すると、私は考える。また、新聞記者が週刊誌その他の雑誌などに頼まれて匿名の記事を書く「アルバイト原稿」も、時と場合によりけりではあるけれど、とかく閉鎖的で、独善に陥りやすい新聞記者にとっては、有益な “他流試合” になり得るのではないか。なにしろ雑誌の編集者たちは、こと原稿を読むことにかけては、海千山千の作家たちを日常的に相手にしているだけに、新聞社のデスクなどよりも、はるかにたけているのだ。

松田の引用を続ける。
 

広報センターに対する協力いかんは、放送局にとって一種の “踏み絵” にもなった。だから、評議員を断ったTBSも、広報センターの企画審議機関である企画審議会(民放各社の編成局長・局次長クラスで構成。毎月一回開催)には人を送っていた。それに、年間四億円も広報予算をもつ日本広報センターは、営業的にも魅力ある存在だった。(中略)

そして、二年目に入って、日本広報センターは “脱兎(だっと)” のように走り出す。六八年五月、広報センターは「今までタブー視されていた憲法問題、核と日本の態度、防衛論争、安保問題などをテーマにとり上げる」方針を打ち出した。


そのはず、当時の政府と財界が日本広報センターを立ち上げた一義的な狙いが、1960年代の前半から日本社会に高まってきていた反戦機運の封じ込めにあったことは明々白々だ。インドシナ戦争への米軍の介入、さらには東西両陣営の代理戦争としてのベトナム戦争の拡大は、地理的に近い日本に高度経済成長をもたらしてくれる「打ち出の小槌(こづち)」に他ならなかったからである。

テレビを「プロパガンダ機関」に

世論操作の舞台は報道だけではなかった。いや、むしろ大衆に受けいれられやすい娯楽番組や映画などの映像作品こそが、より巧妙かつ効果的な洗脳工作の対象となったというべきか。

反戦機運は、そして必然的に、格差や貧困、差別など、経済社会に付き纏(まと)う世の中の矛盾や理不尽をも炙(あぶり)り出してしまう。日本広報センターが発足する以前から、現状に批判的な眼差しを向けるテレビドラマは政府や財界、あるいはそれらに連なる保守勢力によって、しばしば弾圧されていた。

波野拓郎『知られざる放送~この黒い現実を告発する』(現代書房、1967年第3版)や、佐怒賀三矢『テレビドラマ史』(日本放送協会、1978年)などの文献を参考に、代表的なケースをいくつか紹介しよう。

福岡市のRKB毎日放送が制作し、1962年11月25日夜に全国TBS系の「東芝日曜劇場」で放送される予定だった『ひとりっ子』(制作・秦豊、脚本・家城巳代治、寺田信義、出演・山本圭、加藤嘉、望月優子)は、直前になって放送を止められた。大学の工学部への進学を志望していた熊本の高校生が、家計の事情で防衛大学校を受験して合格するも、戦争で長男を失っている母親の「お前までが軍人に」という嘆きで再び方向転換し、働きながら学ぶ道を選ぶ、という筋書きが、代表的な防衛産業であるスポンサーのトップに憎まれたとされている。

1963年には、全23回の予定で始まったやはりTBS系の『こちら社会部』(脚本・大橋喜一、片岡薫、出演・宇野重吉、伊藤孝夫、高野由美ほか)が、約半分の12回で放送中止。1966年9月には、両親を亡くした5人兄弟の青春群像を描いたフジテレビ系『若者たち』(脚本・山内久ほか、出演・田中邦衛、橋本功、山本圭、佐藤オリエほか)が、高視聴率だったにもかかわらず、やはり突然、打ち切られた。前者は韓国問題、後者は在日朝鮮人差別をテーマにした回が、ことのほか攻撃されたという。

NET(現、テレビ朝日)が1962年から66年までの4年間で合計200回も放送した、法律事務所を舞台にした社会派ドラマ『判決』(脚本・若杉光夫、出演・佐分利信、仲谷昇、河内桃子ほか)に至っては、そのうちなんと20回、つまり全放送の1割で、スポンサーなどからのクレームを受けている。まず過ぎて牛乳嫌いの子を量産した学校給食の脱脂粉乳を問題視した第61回「赤い実」。沖縄の米軍基地問題に切り込んだ第105回「沖縄の子」。朝鮮半島分断の悲劇を導いたのは日本に他ならなかった事実を突きつけた第148回「北からの人」。米軍に実効支配されている航空管制に疑義を呈した第191回「空を汚すもの」……。

教科書行政の欺瞞(ぎまん)に憤り、自殺した女性教師を描き、リハーサル段階で没にされた「佐紀子の庭」という脚本もあった。また、結果的には1961年から69年までの長寿番組になったTBS系『七人の刑事』(脚本・早坂暁、小山内美江子ほか、出演・芦田伸介、堀雄二、美川洋一郎ほか)が唐突に打ち切られたのも、その良心的なドラマ作りが上層部に危険視された結果だったと、『メディア支配』で松田は断定している。
 

日本広報センターの設立から54年、解散してから早や8年―。

ここまで読み進めた読者なら、旧い史実を改めて俎上(そじょう)に載せた筆者の意図を理解してくれているはずだ。政府や財界の狙いは確実に奏功し、長い時間をかけて、放送人たちの牙をほぼ完全に抜き去って、テレビを名実ともに権力のプロパガンダ機関へと堕さしめた。詳しく論ずる紙数はないが、NHKでも民放でも、たとえば政府に批判的と見なされたキャスターやコメンテーターが次々に降板させられていく近年の奔流は、すでに多くの読者の知るところではなかろうか。

階層間格差が拡大する一方の社会の矛盾や、戦争への道行きをテーマとするようなドラマは死に絶えて久しい。春秋の番組改編時に繰り出されてくるのは、かの『七人の刑事』とは対極にある、警察権力を礼賛するかのような刑事ものか、ビジネス世界の面白さや、東京五輪のような国策の宣伝が主目的でもあるかのような、コマーシャル・ドラマばかりになってしまった感がある。

松田浩の分析は、実に的確だった。『メディア支配』の一節にこうある。

それ(引用者注・日本広報センター)は、政府と財界が一体となって、広報専門家の知恵を動員し放送機関を “共犯者” にとり込みながら、テレビを国民に対するより効果的、組織的な世論操作の機関に再編成しようと乗り出したことを意味していた。

日本広報センターはもう存在していない。だが、その亡霊は存命中より巨大な怪物となって、今なお私たちの精神を操り続けているのではないか。件の松田も、第一報以降はなぜかテレビドラマによる世論操作の実態を深く追及した形跡がない。したがって実態は何もわからないのである。

筆者がよく知る放送関係者は苦笑していた。

「近ごろは最大手広告代理店の電通が、従来にも増して存在感を増していますからね。メディアそのものには素人の政府や財界が無理して主導しなくても、世論操作のプロとも言うべき電通が何もかも心得て、巨額の血税と引き換えに、権力に都合のいい臣民を育んでいるということでしょう」

おぞましい現実に、しかし目を背けてはなるまい。直視して、とりあえず絶望し、けれども絶対に諦めず、ではいかにして抗(あらが)っていくのかを考え続けていく。

魂を湛(たた)えた人間でいたければ、だ。
 

撮影/魚本勝之
担当/生活クラブ連合会 山田衛


さいとう・たかお
1958年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。英国バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。日本工業新聞記者、「プレジデント」編集部、「週刊文春」記者などを経て独立。『機会不平等』(岩波現代文庫)『 ルポ改憲潮流』(岩波新書)、『「あしたのジョー」と梶原一騎の奇跡』(朝日文庫)、『子宮頸がんワクチン事件』(集英社インターナショナル)『決定版消費税のカラクリ』(ちくま文庫)など著書多数。

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