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「そんなこんな」をすっ飛ばし、「次行こ、次」の空気のなかで

【寄稿】朝日新聞編集委員 高橋純子さん
 

東京オリンピック・パラリンピックが開かれて、新型コロナウイルスの国内新規感染者数が過去最高を記録し、首相が交代して、感染者数が激減して、総選挙があって、与党が勝って、野党第一党の代表が交代して、2021年が終わった。けっこう重要なことがたて続けに起きていて、ひょっとすると後年、「2021年が日本のターニングポイントだったね」と評される可能性だってないとはいえないと思う。

けれども不思議なことに、私自身のこの1年の記憶は「あいまい」だ。解像度が低く、細部が不鮮明なのだ。
なぜだろう?

「もういいじゃん」「次行こ、次」。たくさんの人に、そう肩をたたかれたような気がしている。忘れたくないのに。覚えておくべきなのに。テレビニュースの年末回顧、「日本中が熱狂した東京オリンピック」と満面の笑みを浮かべるアナウンサー。「うそつかないでよ」。ひとり小声でつぶやいているうちに、2022年の幕が開けた。ああ、おめでたい。

ことさら強調される「提案路線」の真意はどこにあるのか

総選挙のあと、晩秋から初冬にかけて繰り広げられた政治の語り口は、それまでとはがらりと様相を変え、野党第一党の「懺悔(ざんげ)」が中心をなした。

「批判ばかりの野党ではだめだ」

立憲民主党が現有議席を減らしたことには複合的な要因があるはずだが、なぜか「批判ばかり」という言葉だけが突出して語られるようになっていた。なんだかヘンな話だと思う。

「野党食堂」が供する“トンカツ”にたとえて考えてみる。政権批判はいわば下味、豚肉にあらかじめ振っておく塩・こしょうで、やって当たり前のこと、考える前に手が動くというやつである。その上で、パン粉は粗挽きか細挽きか、揚げ油の温度は何度か、揚げ時間は何分か、キャベツの千切りにはトマトを添えるかそれともパセリにするか、ソースは甘口か辛口かもしくは岩塩はどうか……。ひとつひとつに工夫を凝らす。それが店の個性となり、客の評価を左右する。なのに、客足が減った原因は肉の下味だ!なんて、そんな総括があり得るのか。
 

最後にソースをかけるんだから下味なんかつけなくていいのだ、という言い分であれば確かに成り立つかもしれない。しかしそれは「手抜き」に類することで、胸を張って言うようなことではない。店舗をより清潔に保つ、営業時間を見直す、店員のサービス向上を図る。そういう小さな努力を怠らず積み重ねたのか、そこをこそまずひとりひとりが自らに問うべきではないのか。ついでに言うと、新規の客をどう取り込むのかという視点だけで議論がなされ、これまで店を大事に思い、文句を言いつつも通ってくれた客に対する目配りはゼロでいいのか。常連ナメてんのか? 

そんなこんなをすっ飛ばしての、まさかの「下味主犯論」。ひょっとするとこれは、トンカツ屋であることに嫌気がさし、大手チェーンの傘下に入った方が楽だしもうかるじゃんと考える一派による「クーデター」と呼ぶべき事態なのではないかと、私はキャベツの千切りを口いっぱいに頰張りながらひとりひそかに店内を監視している。もちろん、誰にも頼まれてはいない。

森友・加計学園問題も、桜を見る会も、日本学術会議の任命拒否も、なにがいったいどうなってこうなったのか、政府はまったく説明責任を果たしていない。そんな現状にあって、「提案路線」をことさらに強調したり、政府与党と協力することもあり得るなどと党幹部が予言したりすることは、「抵抗しても仕方がない」「長いものには巻かれろ」というメッセージを社会に発しているも同然ではないだろうか。野党が、そんな諦観を広めることに加担してはいけない。野に在ることの矜持(きょうじ)をいったん手放してしまえば、あとは安く買いたたかれるだけだ。

たくさん惑い、落ち込み、怒り、悲しんだりして知ったのは

総選挙を通じて私がもっとも衝撃を受け、絶望にも近い気持ちを抱いたのは、投票率が55.93パーセント(2021年11月総務省発表の小選挙区投票率)で戦後3番目の低さだったことだ。

2020年2月、時の首相は唐突に小・中学校、高校と特別支援学校の一斉休校を要請し、大人も子どもも大きな混乱の渦に放り込まれた。「マスクを配れば国民の不安はパッと消える」という官邸官僚の進言によって小さな布マスク、いわゆる「アベノマスク」の全戸配布が400億円超という巨費を投じて行われた。人気アーティストに便乗して自宅で優雅にくつろぐ動画をアップしたこともあった。そして、内閣支持率がじりじりと下がりゆくなか体調不良を理由に政権を投げ出した。代わって首相となりし人は、ついぞ国民に届く「メッセージ」を発することができなかった。「なぜいま」という疑問に正面から答えないまま東京オリンピック・パラリンピックが開催され、国内新規感染者数は過去最高を更新し続け、病床ひっ迫により医療につながれずに自宅で亡くなる人もいた。
 

コロナ禍のなか、私たちはたくさん惑い、落ち込み、怒り、悲しんだ。政治と自分の生活が密接に、逃れようもなく関係していることを深く実感したはずだ。ならば、日本の「これから」を現政権に託すのか、それとも野党に委ねるのか、自ら選択すべきだったと強く思う。1票を投じることの意味は、単にどの政党を勝たせるかを決めるための「頭数」になることにとどまらない。「私はこの社会で生きている」という存在証明、さらには「私という存在をないがしろにはさせない」という、政治に対する意思表示でもあると私は思っている。

そして、私の「絶望にも近い気持ち」は、2021年12月9日付の朝日新聞朝刊に掲載された、英国在住の作家・ブレイディみか子さんの寄稿を読んだことでさらに深まった。子息が来秋カレッジ(日本でいう高校)に進学するので、いくつか見学に行ったというブレイディさん。どこのカレッジも、科学や歴史、経済などに比べ、政治の教室は多くの見学者を集めていて、担当教員はコロナ禍の影響を指摘したという。「これほど10代の子どもたちが政治に未来を左右された時期はありません。だから政治について考えるようになったのでしょう」

また、あるカレッジでは、保守党と労働党の人気投票が行われていた。保守党支持のマグネットは二つ、労働党支持のマグネットも四つしかなかったが、下のほうに「自分自身の党」と誰かが書いていて、その周辺には20を超えるマグネットが付けてあったという。「それは文字通りに自分で政党をつくるという意味かもしれないが、『特定の政党に追従しない、自分自身を核に置いて政治を考える』という宣言とも取れる」とブレイディさんはつづっていた。

それに比べて……とは言いたくはないのに、つい比べて思ってしまう。コロナ禍にあって、半数近くが選挙に行かないこの国。ひょっとするとこれは、政治不信の究極の表現なのではないか?どの政党が勝った負けた以前にあるこの「危機」について、私たちはもっと真剣に受け止め、考えるべきだろう。
今夏には、参議院選挙がある。きっとずっと私の「絶望にも近い気持ち」は続くだろう。でも決して、絶望はしない。してたまるかよ。
 

撮影/魚本勝之

 
 

たかはし・じゅんこ
1971年福岡県生まれ。1993年に朝日新聞入社。鹿児島支局、西部本社社会部、月刊「論座」編集部(休刊)、オピニオン編集部、論説委員、政治部次長を経て編集委員。

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