いまなぜ、“くらしのアナキズム”なのか?
岡山大学文学部准教授 松村圭一郎さんに聞く
<国家が自分の手柄であるかのような顔をしている「民主主義」や「自由」、「平等」という価値は、国家内部の動きから実現したものではない。むしろそれへの抵抗や逸脱の結果として生まれた。だからこそ、ぼくらがより良き状態に向けて動けるようになるには、既存の国家がおしつける「常識」から距離をとり、そこでのあたりまえをずらしていく姿勢が欠かせない>
2021年秋にミシマ社から刊行された『くらしのアナキズム』の一節です。この本は「いま」の日本の姿を当たり前なもの、自明なものと受け止めているだけで本当にいいのかという筆者の問いから生まれた一冊です。著者の松村圭一郎さんに話を聞きました。
そもそも人間は多面体的な存在だから
――生産者でもなく消費者でもなく「生活者」。その意味するところを教えてください。
松村 単純に生活していない人なんていない、ということだと思います。米国の大統領も日本の首相もだれもが生活者。いうまでもなく国家は生活者によって成り立っているのに、国会答弁などを聞いていると「あなたたち、同じように自分の家庭でも話せますか?」と言いたくなる発言が飛び交っています。野党の追及ぶりにしても、まるで自分だけが正義であるかのような印象を受ける。そんな対話の仕方では、家庭生活も友人関係も成り立たないですよね。政治家の「勝ち負け」なんて、生活している私たちにはまったく関係ありません。生活者の実感から政治がかけ離れている。これで本当にいいの?ということです。
松村 単純に生活していない人なんていない、ということだと思います。米国の大統領も日本の首相もだれもが生活者。いうまでもなく国家は生活者によって成り立っているのに、国会答弁などを聞いていると「あなたたち、同じように自分の家庭でも話せますか?」と言いたくなる発言が飛び交っています。野党の追及ぶりにしても、まるで自分だけが正義であるかのような印象を受ける。そんな対話の仕方では、家庭生活も友人関係も成り立たないですよね。政治家の「勝ち負け」なんて、生活している私たちにはまったく関係ありません。生活者の実感から政治がかけ離れている。これで本当にいいの?ということです。
――だれかを一方的に手厳しく批判し、白か黒かをはっきりさせる手法はSNSなどのインターネット空間でも激しさを増しているようです。
松村 SNSでのやり取りについていえば、自分の目の前にいる生身の身体を持つ人間には、そんな言葉は投げつけられないはずです。仮に私たちが心に浮かんだ言葉をすべて吐き出したら、お互いの関係性は一瞬で破綻(はたん)します。だから、私たちは思ってることを全部相手にぶちまけたりしないし、そんなまねをすれば人間関係を維持できないとわかっています。だれに対しても言いたいことはたくさんあるのが当たり前ですが、それをお互い飲み込みながら生きているわけです。
でも「デジタル」空間でのやり取りには抽象的な観念としての人間しかいません。いわば空想の世界だけを舞台にして「ネトウヨ」「パヨク」という役柄を演じ合っているわけです。実際に会ってみたら、普通のおじさんだったり、若者だったりするでしょうし、話してみたら「あんた、いいとこあるじゃない」という感じになる可能性もありますよね。
この人とはどうも意見が合わないと思ってる人とも言葉を直接交わせば、わかり合える可能性が見えてくるものです。「そうか、あんたもプロ野球は阪神タイガースファンか」となるようなことが多々あるように、人は政治的な意見が合わなくとも別の話題では意気投合して盛り上がるような多面体的な存在なんです。人間はいろんな面をもっていて、デコボコしてる。だからこそ、どこかの部分では対立していても、別の部分では折り合うかもしれない。なのに、その認識の端緒となるはずの身体を介したコミュニケーションの場が社会から急速に失われている気がします。
私たちはカテゴリーで人をくくることに慣れてしまっています。男性と女性、体育会系と文化系、敵と味方、黒人と白人。それもデジタル的な分け方です。カテゴリーで区分けし、スパッと切ってしまえば確かに物事を判断しやすい側面もあります。でも、実際に対面してコミュニケーションを取るという「なんだかんだ言っても」という交わりが政治の場はもちろん、生活の場には不可欠だと思います。そもそも人間は一つの立場だけでいがみ合うようなシンプルな存在ではないのに、抽象的でデジタルな人間観だけが一人歩きするのは、怖いことです。
互いに認め合い、思い合うことで生じる「融通」
――『くらしのアナキズム』では多数決すなわち民主主義という捉え方にも疑問を投げかけています。
松村 民俗学者の宮本常一の『忘れられた日本人』のなかに、意見が出尽くすまで話し合いを続けて結論に至る村の寄合の話が出てきます。おそらく、そういう場では、世間話に大半の時間が割かれていたと思います。世間話の間にお互いの考えを出し合い、いろんな関心事を共有していた。ひとつのイシュー(解決を求められる課題)についてだけ徹底的に討議する「熟議」とは違ったはずです。先に申し上げた阪神の話と同じです。そのイシューについては立ち位置も考え方も違っている。でも阪神の話をした後にそのイシューの話に戻ると「まぁ、あんたの言うことも聞けるかな」となったはずで、そこに民主主義的な合意形成のポイントがある気がします。
あくまでも一つの説ですが、米国先住民の合意形成の進め方が合衆国憲法の民主主義の理念に使われたとの指摘があります。たとえば、イロクォイという民族同盟の会議は本当に民主的でした。その同盟は6つの民族から構成されていましたが、各民族内も細かく分かれていて、それぞれのレベルで話し合ったうえで、民族の意見をひとつに集約し、さらにそれを民族の代表が持ち寄って民族間の意見を調整するようにしていました。すべての民族の意見が一致しなければ、その議題は放棄される。多数決をとると禍根が残るからです。各グループのリーダーを決めるときも、男性も女性も投票権を持っていました。米国が女性に参政権を与えるはるか前からアメリカ先住民は男女同権の選挙権を持っていたわけです。そうした西洋近代とは異なる人類の歩みから「いま」を見つめ直すと見えてくるものがたくさんあります。
――私たちの暮らしは、だれかに与えられるものではなく、自分でつくり出すものではないかと問いかけてもおられますね。
松村 民俗学者の宮本常一の『忘れられた日本人』のなかに、意見が出尽くすまで話し合いを続けて結論に至る村の寄合の話が出てきます。おそらく、そういう場では、世間話に大半の時間が割かれていたと思います。世間話の間にお互いの考えを出し合い、いろんな関心事を共有していた。ひとつのイシュー(解決を求められる課題)についてだけ徹底的に討議する「熟議」とは違ったはずです。先に申し上げた阪神の話と同じです。そのイシューについては立ち位置も考え方も違っている。でも阪神の話をした後にそのイシューの話に戻ると「まぁ、あんたの言うことも聞けるかな」となったはずで、そこに民主主義的な合意形成のポイントがある気がします。
あくまでも一つの説ですが、米国先住民の合意形成の進め方が合衆国憲法の民主主義の理念に使われたとの指摘があります。たとえば、イロクォイという民族同盟の会議は本当に民主的でした。その同盟は6つの民族から構成されていましたが、各民族内も細かく分かれていて、それぞれのレベルで話し合ったうえで、民族の意見をひとつに集約し、さらにそれを民族の代表が持ち寄って民族間の意見を調整するようにしていました。すべての民族の意見が一致しなければ、その議題は放棄される。多数決をとると禍根が残るからです。各グループのリーダーを決めるときも、男性も女性も投票権を持っていました。米国が女性に参政権を与えるはるか前からアメリカ先住民は男女同権の選挙権を持っていたわけです。そうした西洋近代とは異なる人類の歩みから「いま」を見つめ直すと見えてくるものがたくさんあります。
――私たちの暮らしは、だれかに与えられるものではなく、自分でつくり出すものではないかと問いかけてもおられますね。
松村 ええ。ただ、そのとき忘れてはならないのが「自助」一点張りではいけないということ。何事も自分でやらなければいけないというのは強者の論理でもあります。そうしようと思ってもままならない人もいます。そうした他者にどう手を差し伸べるかが重要です。これはパン屋でアルバイトをしている学生に聞いたのですが、その店では売れ残ったパンを決まった場所に置き、そこの蓋(ふた)が開くようにしていたそうです。あくまでも捨てたという形をとるわけですが、それが無くなっているのを見たとき「あぁ、あの人が持っていったんだな」とわかる、と。
そのように互いの存在を思い、いたわり合うことから生まれる「融通」こそが「経済」の本質で、暮らしを支えています。何かを必要とする人がいれば不要な人もいる。この両者をつなぐのに必ずしもお金のやり取りだけが求められるわけではない。いまは値札のついたものしか店頭に並ばず、賞味期限が過ぎれば「ゴミ」として一律で焼却処分するのが「決まり」とされていますが、何とも融通に欠けた対応です。
「私」を成り立たせている「だれか」に目を
――今回の東京五輪では弁当の大量廃棄が問題になりました。あれも「捨てる」のを当たり前とする、あまりに機械的な対応でした。
松村 全部が「公」の論理。一部の団体や個人を支援してはならない。そうするなら、みんなにしなければならない。配った弁当を食べた人がおなかを壊したら責任問題になる。そんな「事なかれ」のロジックが優先されたのかもしれません。残った弁当を捨てるくらいなら困窮者支援をしている人に連絡を取り、有効に使う道を探ることもできたはずです。でもそんな融通を利かせられる人間がいなかった。誰もがルールだけに従って責任をとりたがらなかったわけですね。
何のためにルールがあるのかといえば、現実をうまく円滑に動かしていくためです。それがいつの間にか逆転してしまい、ルールを回すために公務員がいて、現実にルールを合わせて柔軟に動けなくなっている。各地に「子ども食堂」が増えているのも行政の動きを待っていたら、目の前の子どもたちの窮状を救えないという必要に駆られての動きですよね。それが生活者の力であり、私の考える「アナキズム」です。
松村 全部が「公」の論理。一部の団体や個人を支援してはならない。そうするなら、みんなにしなければならない。配った弁当を食べた人がおなかを壊したら責任問題になる。そんな「事なかれ」のロジックが優先されたのかもしれません。残った弁当を捨てるくらいなら困窮者支援をしている人に連絡を取り、有効に使う道を探ることもできたはずです。でもそんな融通を利かせられる人間がいなかった。誰もがルールだけに従って責任をとりたがらなかったわけですね。
何のためにルールがあるのかといえば、現実をうまく円滑に動かしていくためです。それがいつの間にか逆転してしまい、ルールを回すために公務員がいて、現実にルールを合わせて柔軟に動けなくなっている。各地に「子ども食堂」が増えているのも行政の動きを待っていたら、目の前の子どもたちの窮状を救えないという必要に駆られての動きですよね。それが生活者の力であり、私の考える「アナキズム」です。
現在の私たちの暮らしは国家の提供する行政サービスや、さまざま企業(資本)が生み出す商品やサービスが複雑に絡み合うネットワークのなかで成立しています。なので、それらを破壊してしまうと多くの人の生活が脅かされます。だから、あえて私は目指すべきは「革命」ではないと書きました。ただし、国家や資本の言いなりでいいのかといえば、それでは私たちの暮らしはどんどん弱くなり、何が起こっても国家や資本が何とかしてくれるのを待つだけになってしまいます。だからこそ人類が自分たちの手で暮らしを成り立たせてきた営みから学ぶ必要があるのです。
『くらしのアナキズム』では「共同性」という言葉を使いましたが、私たちが互いの事情をさらけ出せる関係性を構築し、互いに共有できる場を意識的につくっていこうとしなければ、「自由」「平等」「自治」の精神に基づく民主主義は実現できないと思います。ちなみに思想家の鶴見俊輔さんはアナキズムを「権力による強制なしに人間が互いに助け合って生きてゆくことを理想とする思想」と定義しました。それは「私」を成り立たせてくれている「だれか」の存在に日常的に目を向けることでもあります。
イタリアの精神保健の研究をされてきた松嶋健さんが書かれていますが、イタリアのある町では精神に障害を抱えた人が店に入り、代金を払わずに商品を持っていくことがあっても、店に居合わせた人が「自分が払うよ」と進んで肩代わりするそうです。松嶋さんは、町の人間関係を耕し、より良いものにしているのは、むしろ障害を抱えた人の存在だと指摘しています。そういう人が町に出ることで、社会は健康な人だけで成り立っているわけではないと実感できますし、自分に何ができるかを考えられる。それが地域の豊かな人間関係を生みだしている、と。国の福祉政策だけが「福祉」ではないと改めて教わった気がします。
松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)
1975年熊本県生まれ。京都大学総合人間学部卒業。2015年から岡山大学文学部准教授。2018年『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)で毎日出版文化賞・特別賞を受賞。専門は文化人類学。
1975年熊本県生まれ。京都大学総合人間学部卒業。2015年から岡山大学文学部准教授。2018年『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)で毎日出版文化賞・特別賞を受賞。専門は文化人類学。
静かで、温かな語り口で、これまでの「常識」を覆す
編集者より「ひと言」 ミシマ社 三島邦弘さん
『くらしのアナキズム』が誕生する2年前、ミシマ社が年に一度出している雑誌「ちゃぶ台」(現在は半年ごとの刊行)に「はじめてのアナキズム」と題した小論を松村圭一郎さんに書いてもらった。その原稿を読んだときの衝撃は今もはっきりと覚えている。「アナキズムの視点は、目の前の苦しい現実をいかに改善していくか、その改善を促す力は、政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、日常を生きる自分たちのなかにあることを気づかせてくれる」。えっ、と思われた方も多いだろう。当時の私も例外ではなかった。――アナキズムは、現存の権力を転覆させる思想ではないのか?
目から鱗が落ちた私は、早速、続きの執筆を依頼。結果、連載時より、論の精度はもちろん、はるかに高い生命力をもった一冊として生を享(う)けることとなった。
松村氏がなぜそれを成し遂げることができたか? 彼の筆力ゆえなのは間違いない。ただ、長年彼を見てきた者としては(実は大学時代からの親友)、何か大きな力が彼に宿ったような気がしていた。その背景の一つに、D ・グレーバーの存在及び不在がある。『ブルシット・ジョブ』などの著作で世界的に著名なこの人類学者には、本書も当初より色濃く影響を受けていた。そのグレーバーが2020年9月に急逝。あのとき同じ人類学者である著者のなかに、グレーバーが果たすはずだった仕事の一部を担う、その覚悟が芽生えた。その最初の一歩目となる著作となった。そう想像するのは行き過ぎだろうか?
松村氏が本書で直接的にグレーバーを引用した箇所は数箇所である。その一つが、これだ。「もしあなたが人びとを本気で大人として処するなら、彼らは即刻、大人として行動しはじめるだろう」(『アナーキスト人類学のための断章』)
静かな、温かな語り口で、これまでの常識を覆す捉え方を読者に無理なく与える。かといって、合理的で冷ややかな鋭さをもって世の矛盾や不条理を衝(つ)くわけでもない。まさに「大人」のことばで綴られたのが本書である。その書物が、すでに六刷(2022年1月現在)。きっと少なくない生活者たちが「大人」のことばを待っていた、そしてそうした人たち自身が大人であるにちがいないのだ。
この事実はまた、暗いと思いがちな社会に光を照らす。なぜなら、大人同士であるかぎり、どんな問題であれ、必ずなんとかしていけるのだから。“くらしのアナキズム”は、生活者であれば誰でも、今、すぐに実践できる態度であり、力である。それを活用しないのはあまりにもったいないというものだろう。
撮影/魚本勝之
取材構成/生活クラブ連合会 山田衛
取材構成/生活クラブ連合会 山田衛