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「奇跡の一本松」をめぐる物語

陸前高田市の広田湾に立つ「奇跡の一本松」

岩手県陸前高田市にある高田松原津波復興祈念公園。その一角に、ひときわ目を引く背の高い松が1本だけ立っている。
高さは27.5メートル。東日本大震災の大津波を耐え抜いた「奇跡の一本松」だ。

この「名勝・高田松原」として多くの人に親しまれていた場所には、震災前、全長2キロメートルにわたる美しい松林が広がっていた。しかし、震災後に発生した津波は約7万本の松を一気になぎ倒し、陸前高田の市街地に甚大な被害を与えた。そこに一本だけ立ち姿のまま残っていたのが樹齢174年の黒松(赤松との交雑種)だった。

震災後、瓦礫(がれき)の中に立つ一本松は「希望と復興のシンボル」としてメディアの注目を集め、世界的にも有名になった。しかし、2012年5月、その一本松は地盤沈下と海水によるダメージにより枯死していることが確認された。その「生前」の姿を後世に残そうと、陸前高田市はさまざまな方法を検討した。結果、幹を5分割し、中心部をくり抜いた上で内側と外側から防腐処理を施し、金属製の心棒を通して元の場所に再設置することを決めた。枝葉部分の型をとって本物そっくりに複製し、落雷対策のために避雷針も設置された。現在、私たちが目にする「奇跡の一本松」は、保存のために人工的な処理が施されたモニュメントだ。

一本松をきっかけに進んだ人々の交流が力に

「東日本大震災の発生から1カ月が過ぎた頃、『一本松を残そう』という運動が起きたときには、地元から非難の声も上がりました。『保存やメンテナンスには1億円以上ものお金がかかる』『そんなことをするなら被災した人たちに補償したらどうか』と言われたのです」
そう話すのは、ホテル三陽の支配人・佐々木陽太郎さんだ。

ホテル三陽の発祥は、かつて高田松原の中にあった料亭(保養所)「松仙閣」。東日本大震災前に移転していたため津波の被害を免れたが、高田松原とは縁が深い。それでも当時、佐々木さんは「一本松を保存してどうするのか」と考えていたし、 地元の人たちからは「あんなものいらない」「命がなくなったのなら成仏させて、木材として利用するべきではないか」「津波の被害を思い出させるから、見たくない」という声が上がった。

「でも、一本松が有名になったおかげで、陸前高田には全国からボランティアのみなさんが集まってくれたのです。一本松をきっかけに人々の交流が深まることで、地域の人たちも大いに励まされました。今でも一本松のデザインが入ったマスクをお客様にお渡しすると、すごく喜んでもらえます。それくらい一本松はみなさんの記憶に強く根付いているんです。今思えば一本松は残してよかったし、復興の力になっていると思います」
 
ホテル三陽の支配人・佐々木陽太郎さん

「かわいそう。たった1本じゃあ、全部なくなったに等しい」

およそ7万本の松があった震災前の高田松原。「白砂青松の美しさ」と言われ、国の日本百景に指定されていた。海水浴場は雪景色。(撮影日:2007年2月4日/写真提供:陸前高田市)

「一本松を近くに見に行くことはしませんね。かわいそうだから。私にとっては『一本松』というより、たくさんの松があった『高田松原』なんです。ピンク色のハマナスが一面に咲いている、とってもきれいな場所でした」

そう話すのは陸前高田で生まれ育った村上ノブ子さん(85)だ。村上さんは高校時代、市内の小友町にあった自宅から毎日一時間かけて高田高等学校に徒歩通学をしていた。履物は下駄。通学路は砂利道だった。

高校からほど近い距離にあった高田松原は、村上さんにとって青春の思い出の舞台であり、最高の遊び場だったという。
「試験が終わった後は開放感いっぱいで、よく友だちと松原に行っていましたね。松の木の間を歩いたり、砂場で寝転がって思いを語ったり、お互いの胸の内を打ち明けたりしたものです」

白砂青松の景勝地でもあった高田松原は、岩手県内でも有数の海水浴場として知られていた。最盛期には1日に何万人もの海水浴客が訪れ、その賑わいは「東北の湘南」とも呼ばれるほどだった。そのため岩手県の人たちの心には、今でも高田松原での思い出が残っているという。
 
震災の前年夏、海水浴客で賑わう高田松原の海水浴場。1980年代には、1日で6万人を越す海水浴客が訪れたという記録もある。三陸沿岸のなかでも、高田松原の海水浴場は特に人気で、短い夏を楽しむ人々が集まった。今年、11年ぶりに海水浴場が復活したが、訪れる客はまばらだった。(撮影日:2010年7月18日/写真提供:陸前高田市)

しかし、高校を卒業すると、村上さんは高田松原とは縁遠くなった。村上さんの家のすぐ前にも海があったからだ。家から遠い松原にわざわざ行くまでもなく、陸前高田の人たちにとって、海は身近な存在だった。

村上さんが再び高田松原を意識するようになったのは震災後のことだ。村上さんは各地からやってくる修学旅行生を民泊で受け入れ、子どもたちに震災の記憶を伝えている。その時、高田松原を抜きに語ることはできないと考えたからだった。

「修学旅行生が来ると、子どもたちを陸前高田の街全体がよく見える箱根山の展望台に連れて行って被災の状況を伝えているんです。こちらの海から津波が来て、こっちの海からも津波が来てぶつかって、陸前高田の市街地は一面瓦礫に覆われてしまったんだよ、って。そうすると、みんな驚いて被害の大きさをわかってくれます。そのとき、展望台からは遠くに一本だけ残った松が見えるんです。見るたびに、『ああ、砂だけの松原だなあ。あんなにいっぱい松があったのになあ』と思って寂しく感じます。たった一本じゃあ、全部なくなったに等しいもの」

震災後、陸前高田の海沿いには高さ12.5メートル、総延長2キロメートルの防潮堤が作られた。
「防潮堤が高すぎて、海が全然見えなくなってしまったのは本当に寂しいですね。新しい家ができて、新しい地区ができて、それが復興だとは思うのですが、もう少し懐かしさも残っていたらよかったな。かつて歩きながら見た景色は本当に素晴らしい記憶として残っていますからね」

村上のぶこさんと写真家の飯塚麻美さん

ボランティア体験を機に移住。立ち上がる人々の姿に

ボランティア体験をきっかけに、陸前高田に移住する人たちも増えている。フリーランスのフォトグラファーである飯塚麻美さんもその一人だ。

飯塚さんは大学1年生だった2015年に初めて陸前高田を訪れた。高校時代の先輩が広田町に拠点を置くNPO法人で活動しており、「被災地に興味があるなら来てみる?」と誘われた。その時、飯塚さんは初めて「奇跡の一本松」を前にした。

「私が一本松を見に行ったのはその時ぐらいですね。『ああ、陸前高田に来たんだな』という感じで、ケータイで写真を撮りました。私がカメラに興味を持って本格的に撮影を始めたのは2016年ですが、それ以降も積極的に一本松の写真を撮ることはしていません。私は人の暮らしに興味はありますが、モニュメントには興味がないみたいです」と笑顔で話す。

飯塚さんが強くひかれたのは、陸前高田で出会った人々の暮らしだった。2015年にはNPOの活動を通じて前出の村上のぶこさんと知り合った。そして2019年夏頃から村上さんを継続的に撮影しはじめ、作品作りを意識するようになった。

飯塚さんが2020年4月に移住を決めたのは、新型コロナウイルス感染症の拡大がきっかけだ。飯塚さんは折に触れて東京から陸前高田に通っていたが、村上さんの家族が介護の仕事をしていることもあり、感染拡大が続いている東京から陸前高田に通って撮影することが難しくなってしまった。
「通えないなら、ずっと高田にいるしかない。それが一番の理由です」

飯塚さんは移住後も村上さんを撮り続け、2021年4月に写真集『報せ』を完成させた。そこには広田湾で漁を手伝い、畑で野菜を作る村上ノブ子さんの日常が収められている。

飯塚さんにとって、奇跡の一本松は興味の対象とはならなかった。しかし、仕事で他の地域に出かけた帰途に一本松の前を通ると、ある感情が芽生えるという。
「あの平たい大地にツンって立っている感じ。あれを見ると『帰ってきたんだなぁ』と思ってホッとします」

飯塚さんは、陸前高田の魅力をこう語る。
「やっぱり、人との関わりがすべてですね。私にとって、のぶこおばあちゃんと過ごす時間は何よりも大切なものでした。周りの人も、みんなありのままの私を受け入れてくれます。だから私は今も陸前高田にいるのだと思います」

ブランド米「たかたのゆめ」と海産物で

陸前高田には奇跡の一本松以外にも「顔」がある。そのひとつが陸前高田限定で栽培されているブランド米「たかたのゆめ」だ。市内の下矢作地区で水田の手入れをしている佐藤信一さん(72)を訪ねると、トラクターのエンジン音に負けない元気な声でこう言った。「高田には豊かな海山川里がある。まだまだ捨てたもんじゃないよ!」

佐藤さんは組合の仲間とともに、たかたのゆめの栽培を2012年から続けている。
「たかたのゆめは震災の農業復興ということで、JT(日本たばこ産業)さんから新種のイネを提供していただきました。生産者はだんだん増えて、今は48人で60ヘクタールに作付けしています。目標は年間280トンの収穫。全国から応援してもらっているおかげで私たちも元気が出ています。今は陸前高田に来てくれたみなさんに、たかたのゆめと陸前高田の海産物を食べてもらうという取り組みをやっています」

佐藤さんは2003年から2015年までの3期12年間、陸前高田市議を務めた。東日本大震災当時も市議だった。震災後は市議会で何度も一本松の保存について質疑を行うなど、奇跡の一本松の保存に奔走した一人だ。
 
震災遺構「旧気仙中学校校舎」の窓から見た「奇跡の一本松」。割れた窓ガラスや、津波によって校舎に流れ込んだ被災物など、当時の様子が生々しく残されている。


「一本松にはとっても思い入れがあるね。奇跡の一本松イコール復興のシンボルだから。私は最初から一本松をしっかりリニューアルして残すべきだという立場でしたから、そのことを内外に知らせる意味もあって議会で何回も質問しました。そのおかげでみんなからは『なんだ、信一は一本松議員だな』と冗談を言われるぐらいだったんです」

佐藤さんはあらためて一本松の意義を語ってくれた。
「一回見にくればそのうち来なくなるべ、という人もいるけど、やっぱり何回も来てもらいたいよね。それにはやっぱりおいしいものがなければダメ。一回見たからもういいよではなく、一本松を見ながらおいしいものを食べに行こうよとなってもらいたい。高田の人たちは本当に人情がある。今度は家族で行こう、友だちを誘っていこう、来年も行きましょうねっていうような、まさに陸前高田のファンを増やしていくことが地域にとって大切だと思うんですよね」

震災から10年が経ち、新しい市役所も完成した。市役所7階に設けられた展望室からは奇跡の一本松も見える。
復興は何割ぐらい進んだと思いますかと聞くと、佐藤さんはこう答えた。
「ハード面ではほとんど終了だけども、みんなそれぞれいろんなものを背負っているわけだからね。どこで終わりということはないですよ。とくに心の問題は死ぬまで抱えていかなきゃならない。『10年も経つから、亡くなった人たちのことを忘れたら』なんていう話は絶対ダメだ。だから復興がどこで終わったかっていう答えはないんでねえのかな」

佐藤さんも震災で亡くなった身内のことを思うと、今でも泣きたくなるという。それは高田で暮らす多くの人に共通する思いだろう。
「ただ、次の展開は見えてきた。全国にこれだけの応援団がいてくれる。いい出会いをして、いいお付き合いをしていくのが一番大事。一本松は、そのきっかけを作ってくれているんじゃないかな」

佐藤信一さん

震災前に拾い集めていた松ぼっくりを女性が寄贈。高田松原の再生へ

3年かけて新たに4万本の松が植樹された高田松原。もとのような高さの松林になるには、30年後とも50年後とも言われている。陸前高田の復興は、そんな長い時間を見据えて進められている。

陸前高田市の復興は「奇跡の一本松」を抜きには語れない。しかし、地元の人たちの記憶の中では、今も「高田松原」が生きている。そのため陸前高田では「高田松原」そのものを復活させようという動きも起きている。
それが一本松の遺伝子を持つ後継樹の大規模な植樹だ。
高田松原があった場所への植樹は2017年から開始された。計画は4万本。そのうち3万本は市の委託を受けた業者が植樹し、残りの1万本は市民団体である「高田松原を守る会」が受け持っている。

同会の副理事長、千田勝治さん(73)を訪ねると、高田松原の歴史的な経緯から話をしてくれた。
「陸前高田の海岸線に松の植樹が始まったのは今から380年前の江戸時代です。大雨による水害で気仙川が氾濫(はんらん)した後、そこに農地を作ってもいい作物が取れなかった。海岸線に松林がなかったために、塩害や砂じんの被害が出たのです。そこで伊達忠宗の命を受けた菅野杢之助が、現在の高田町側に7年かけて1万7千本を植樹したのが高田松原の始まりです。その後、隣の気仙町側には松坂新右衛門が松を植えました。時代時代で地域の人たちが松を植樹していき、合計約7万本の見事な高田松原になりました。1940年には文部科学省から『名勝・高田松原』の指定を受けるほど貴重な財産でした」

高田松原は度重なる津波から街を守ってきた。高田松原を守る会は、市民の財産である高田松原の保全をするため、震災前の2006年に立ち上げられた団体だ。2003年に高田ロータリークラブが始めた活動が起点となった。

本来であれば、震災の復興現場に市民団体が深く関わることは珍しい。通常は国や県が業者に委託するからだ。それなのに、ここでは高田松原を守る会が大きく関わってきた。
「私たちが復興現場で活動しているのには、大きなきっかけがあります。津波で高田松原がなくなってしまったことを知って心を痛めた方が、震災前に高田松原で拾っていた松ぼっくりを私たちに寄贈してくれたのです」

その女性は震災の半年前、クリスマスのリース作りのために松ぼっくりを拾っていた。それを発芽させてなんとか植樹してくださいと依頼されたという。
松ぼっくりは岩手県滝沢市にある育種場に送られた。そこで発芽した600本の松は、陸前高田市内の休耕田を借りて苗木として育てられた。そこには全国から多くのボランティアが駆けつけた。報道で取り上げられることも増え、会の活動を市は無視できないほどになった。
 
まだ背丈ほどの松たちにも、雄蕊(真ん中くらいの小さな蕾のようなもの)、雌蕊(穂の先端に小さくついている赤いポツンとしたもの)、そして松ぼっくり(松ぼっくりの中に種子が入っている)が付いている。こうした命の息吹が、いずれ大きな松林へと育っていくのだろう

「それが私たちの今の活動の原点です。あの贈呈がなかったら、我々は市にまかせて、市がやることを黙って見ているだけの団体でした」
2017年から始まった植樹事業は、岩手県内外からの応援を受けて2021年5月18日で完了した。高田松原の歴史は、確実に後世に伝えられようとしている。

「震災前は私らも高田松原のような松林はどこにでもあるものだと思っていました。でも、震災後に全国の松原を視察して、高田松原の素晴らしさを再認識することになったのです。やっぱり、きれいなんですね。なくなって初めて感じました。植樹はようやく終わりましたが、かつてのような松原になるまでにはあと50年かかります」

大きな課題もある。それは今後の保存、保全活動だ。高田松原を守る会のメンバーは高齢化しており、70歳以下の役員は2人しかいない。
「高田松原を守る会だけでは、とてもではないが保全活動はできません。今後は学校や地域の人たち、陸前高田に関わってくれる人たちと協力していかなければなりません」

市が抱える課題はもうひとつある。人工的に保存された「奇跡の一本松」だ。その耐用年数は「10年」。それを超えれば台風や強風などによる破損や倒壊などの危険も出てくる。
「一本松が再設置されたのが2014年だから、あと3年ぐらいで耐用年数の10年を迎えます。その時にどうするか。市はまだ明確な方針を出していません。もちろんなんらかの形で残してほしいとは思いますが、なかなか難しいかもしれません」

奇跡の一本松をきっかけに、陸前高田への支援の輪は全国に広がった。市では一本松の根も保存しており、今後はその展示も考えているという。
高田松原の再生までは、あと50年かかる。今の私たちにできることは、陸前高田に何度も足を運ぶことくらいかもしれない。
 
千田勝治さん


撮影:渡部真/文:畠山理仁

(取材2021年夏、文中の年齢は取材当時のもの)

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