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【特集】対談「利他の時代」と協同組合 協同の領域を広げる 中島岳志さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)╳伊藤由理子さん(生活クラブ連合会会長)

 
災害やコロナ禍などさまざまな危機が訪れる今、他者との関わり方への関心が高まり、「利他」という視点に注目が集まる。気候危機や貧困、格差、競争社会など、資本主義経済が現在の課題を生んでいると指摘する声は大きい。だがその代案として誕生したはずの社会主義もまた多くの課題を抱える。社会の構成員一人一人の意志を持ち寄り、地域や事業をつくる第三の道として、協同組合は注目と期待を集めてきたが、そこにはどのような意味と可能性があるのか。自分と他者との距離感や、共に行動すること、利他という視点の中にそのヒントはあるのか。東京工業大学「未来の人類研究センター」で「利他プロジェクト」を主宰する政治学者の中島岳志さんと、生活クラブ連合会会長の伊藤由理子さんが話し合った。

 

受け取ることで初めて起動する「利他」


利他と利己はメビウスの輪


伊藤 協同組合は、社会的に「良いこと」をする団体とみられます。相互扶助の場であり、社会的に有用な活動や事業を行っていますが、その一方で表面的、偽善的な「うさんくささ」を感じる人もいるようです。生活クラブ生協も協同組合ですが、「社会のために」が先ではなく、まず自分がどうしたいかから始めることを大切にしてきました。私の「必要や思い」から出発して、それは誰かの「必要や思い」と重なり、そこから「対等な協同」につながっていくという考えです。私はこう思うと主張することは、「利他」とどう関係するのでしょうか。

中島 利他を考えるときに重要なことが二つあります。一つは、利他と利己は、対立するものではなく、メビウスの輪のようにつながっているということです。被災した地域を支援する、寄付するなどの行為は、一見、利他的なようですが、その動機が「社会に賞賛されたい」「いい人に思われたい」というもので、それが見え隠れすると、途端に利己的に思えてしまいます。

もう一つ、利他は、誰かのために何かをしてあげることではありません。受け取られたときに初めて成立するのが利他の特徴です。例えば、私が「伊藤さん、これ喜ぶだろうな」と思ってプレゼントをしても、伊藤さんが嫌いだったり、食べると不調になるものだとすれば迷惑でしかありません。与え手の思い込みだけでは成立せず、受け取る側から考えなければならないのです。その意味で、未来を先回りしすぎないことも大事です。今は、何事も計画してその通りに実行することが重要視されます。けれど、利他はいつ、どこで誰に受け取られるかわかりません。私が研究者になった原点には、中学時代にある先生から言われた言葉がありました。その意味を受け止められたのは、20年もたってからです。ああそういえばと、振り返って初めて思い至るわけで、利他は、そういう長い時間軸で成り立っています。あまりきっちり設計しないことで、いろいろなものが開かれていくように思います。

統御せず、他者に沿う

伊藤 自分の思いを押し付けるのではなく、他者の思いに重なることで、いつか誰かの利になるかもしれないことが「利他」ということなのですね。一方、報道やインターネットなどを通して社会の現実を知り他者の苦境がわかると、それに対して何かをしたいと気持ちが揺さぶられることがあります。コロナ禍や貧困、地震や戦争、難民など多くの苦難が知らされ、ごく普通の人がフードバンクに協力したり寄付やボランティアに参加しています。人に良く思われたいだけではなく、そういうことに無関心な自分でいたくないという気持ちは自然にあるのではないかと思うのですが、それについてはどう理解したらいいでしょうか。

中島 もちろん、何かをしたいと思う気持ちは重要で、それを否定するわけではありません。ただ、自分の意志で何か行動し、社会を動かしていきたいと思うと、それに他者を従わせたい、コントロールしたいと思ってしまいがちです。それが抑圧や争いにつながってしまうのです。

伊藤 そうならないためには何が必要でしょうか。

中島 重要なのは、自分の行為は、必ず社会を良くすることにつながるわけではない。もしかしたら、誰にも受け取られないかもしれないと、自分の力の限界を知り謙虚であることです。他者に対しても、統御するのではなく、沿うことが大切です。「NHKのど自慢」という番組がありますが、そこで一番重要なのは、バックミュージシャンの存在です。出場者の中には、待ちきれず前奏の途中で歌い始めたり、ピッチも音程もずれている人もいます。普通のミュージシャンは、そうした場合、是正するように伴奏しますが、あの番組では、歌が始まったら前奏をやめて歌い手を追いかけ、音程がずれていると思ったらそれを巧みに調整していくんです。そうすると歌い手は気持ちよく歌い、会場にも温かい拍手が起きてとても盛り上がります。ミュージシャンが歌い手に沿うことでその個性が発揮されて、その人の生きる価値観みたいなものがあふれ出てきます、利他とは、そこにある人たちの潜在的な力をどう引き出すのか、その沿い方にあるように思うのです。

伊藤 自分がどう思うかが出発点ではあるけれど、それに他者を従わせるのではなく、異なる思いとも重ねながら、「私」と「他者」の協同の在り方を探り、同じ問題に向き合う、というイメージなのかもしれませんね。
 

自己責任ではなく、協同の場で向き合う意味

自己責任と利他

伊藤 中島先生が「利他」について考え始めたきっかけは、「自己責任論」にあると伺いました。利他と自己責任とはどのようにつながるのでしょうか。

中島 この20年間、日本は新自由主義的な経済政策を進め、国や公共の領域を狭め、行政サービスをどんどん縮小させてきました。それに伴い、すべて個人が自分の責任で行い、結果が悪くてもそれはその人の責任だという考えが広がりました。政治学者である私が利他について考え始めたのは、この「自己責任論」がどうしても理解できなかったからです。それでは社会が持たないと、政治学者はさまざまな政策提案をしてきたのですが、うまくいきません。そこで、今の日本人が抱いている人間観を少しずらして考える必要があるのではないかと思ったのです。

「人間は常に強い意志を持って、合理的に自己の行為を選択し、結果には責任を伴う」という考えは戦後民主主義の中でずっと主張されてきましたが、それは本当なのか、疑ってみることが必要ではないかと思いました。私たちはそもそもいろいろなことを選んで生きているわけではありません。生まれた国、親、地域などは、自分という人間の人格形成に関わる重要なものですが、いずれも意志を持って選択してはいないのです。であれば、すべてを自分の責任で選択するという考えには無理があるのではないでしょうか。人生にはさまざまな偶然があるし、確固たる意志で選択した行為ではないこともたくさんあります。

伊藤 最近の若い人たちは「自分はこう思う」ではなく、「思っちゃった」という言い方をしますね。自己責任社会における自己防衛の一つではないかと思っていたのですが、自分だけではないさまざまな要素が社会にはあり、それらを共に考える知恵ともいえるのかもしれません。

中島 人間の素直な反応だと思います。ヒンディー語の文法に「与格」というのがあります。主格は「〜は」「〜が」で始まる文章ですが、与格は「〜に」で始めます。例えば、ヒンディー語では「私はうれしい」を「私にうれしさがやってきてとどまる」と表現します。与格は自分の行為や状況が、自分の意志の外部によって規定されている場合に用います。日本語にも「私は思う」ではなく「私にはそう思える」という言い方があります。思いはめぐったりやどったりするもので、常に人間が意志をもって自ら選択するわけではない。人間観を少しずらしてみると、別の人間の可能性、世界の可能性が開けてくるのではないかと考えました。

場から生成されるもの

中島 これまでの社会運動というのは、理論を立て、それに基づいてこうすれば世の中はうまくいくという形で進んできました。それは他者をその正義に当てはめることになり、さまざまな弊害があります。それよりも、いろいろな人たちが関わることができる場、それぞれの人たちの潜在力を引き出す場が存在していることが重要だと思います。

私が札幌市の発寒地域に住んでいた頃、シャッター街になった商店街の復興のために、商店街振興組合の人と一緒にカフェを設置し、そこに公共的空間をつくろうと試みたことがあります。それには多くの学生が集まりました。身近な場所に関わり、自分自身もその場で役割を果たし、みんなと合意形成していく、その延長上に民主主義というものがあると思っています。生活クラブ生協の人たちは、そういう場をつくることに積極的に取り組んでいて、私はそこに新しい社会運動の可能性を感じます。

伊藤 今は、自分や子ども、高齢者など、地域の「居場所」が求められていて、居場所づくりの活動がとても盛んです。少し前までは自分の意見にこだわる人も多かったのですが、今の世代は、年上の人に生活の仕方や料理を教わるのにも抵抗がなく、人とつながって地域で何かをすることに積極的で楽しそうです。

中島 商店街のカフェにもいろいろな人がやってきました。あるとき、鉄道が好きな引きこもりの青年がやってきて、自分の部屋は狭いからここに電車の模型を走らせたいと言い出したのです。そのカフェでは、したいことは否定しないと決めていたので、みんなでどうにか実現しようと考え、一日カフェを貸すことにしました。その日は鉄道カフェにして、電車を見ながらお茶を飲もうと。そうするとこれまで来なかった男性たちが来て話に花が咲き、青年はこの場のヒーローになりました。こういう社会にしようと設計すると、そこからずれた人を排除してしまいがちです。まずはその人の言うことを受け止めて、その潜在力を引き出す、それができる場所があれば、いろいろなものが生成し、想定しなかったようなことが次々に起きていくのではないでしょうか。それを受け止めていく力が大切なんだと思います。

伊藤 振り返れば、私たちの活動も、多様な人が集うところから広がってきたように思います。50年前は参加するのは女性なのに、加入用紙には夫の名前を書くのが当たり前でした。でも生活クラブに加入するのはあなただから、と自分の名前を書いてもらったそうです。一人一人の存在を認めることで、その個性が発揮されてきたのかもしれません。ただ、そうはいっても生協は事業体なので、計画を策定して提案し話し合って方針をまとめ、それに沿って行動していく必要があります。しかし組合員は仕事としてこれに参画するわけではないので、提案に対して、自分の生活や自分自身の思いのフィルターを通して考えます。人間の生活というのは、地球上で起きているすべてのことにつながっているので、そのフィルターを通すことで多くの人が見逃していることに気づいたりもします。そんな意見が持ち寄られ、ちょっと違うなと思っていた人同士が認め合うようになり、初めて物事が決まり、動く、そんなやりとりが重要なんですね。誰かがこうしたいと言い出し、いつかどこかで受け取る人がいて、事業や活動が広がっていけば良いと思います。
 

協同の領域を広げ、サポートする民主主義

協同組合への期待

伊藤 冷戦後、資本主義の勝利と言われた時期もありましたが、最近は気候危機など、その限界も指摘されています。一方、ロシアの侵略行為が発生するなど、旧社会主義国もまた問題が多い。第三の道としての協同組合は、これからどんな役割を果たしていけるのでしょうか。

中島 たとえば100年前の1910年代から20年代にかけては、ちょうど今と同じようにスペイン風邪がはやって世界中が疲弊しました。資本主義が大きな危機に直面した時代です。そのときにフランスの社会学者、マルセル・モースが「贈与論」という本を書いていて、彼は最終的な結論として、この危機を克服するには協同組合が必要だとしています。資本主義は市場の論理だけでは成立せず、市場とは異なるお金の動きがあって初めて健全に機能します。国が高所得者から税金という形でお金を徴収し、再配分するから、低所得者や弱者といわれる人たちも消費者として市場に参加できるようになり、それによって市場は活性化するというメカニズムです。同じように、協同の力で資源を再分配する仕組みが広がることで、資本主義の在り方を是正していけるのではないかというのがモースの考えでした。

伊藤 社会主義国家ではそうはならず、歴史的には独裁型になってしまっていますね。

中島 正しい理論に従って社会を設計し、革命によって遂行しようとするのが、かつてのソ連のような社会主義国家でした。誰かが正義を所有しているから、それと違う意見を言う人は粛清されます。人間はどうしても間違いや、誤認をしやすいもので、この世界を特定の理論に基づいて正しさに導いていくのは無理があります。それよりも長い年月をかけて多くの無名の人たちが経験を積み、伝えてきた経験値のようなもの、歴史の風雪に耐えてきたものが重要だと私は思っています。それを尊重し、変わっていく世の中に合わせて、手を入れながら徐々に変えていくのが「保守」の考え方です。自分も間違っているかもしれないと思うから、異なる意見を持つ人に耳を傾け、合意形成していくのが保守であり、それができるのは協同の場です。その意味で私は、生活クラブ運動は、大変良質な保守なのではないかと思っています。

伊藤 その褒められ方は初めてで、新鮮です(笑)。一人一人の生活を通して考えた意見を持ち寄るというのは、まさに無名の経験値の集積なのですね。
 

市民社会と政治の役割

伊藤 ただ、今起きている危機は、より深刻なものになっていると思います。新自由主義の政策で小さくなった政府の役割をどう機能させていくのか。分厚い市民社会の形成に向かうべきだという意見もあり、協同組合の事業や活動を進めていくうえでは、政治への働きかけも重要な課題だと思っています。

中島 その国の政府の規模を見極めるのには、政治学では三つの指標を用います。一つは租税負担率、国民が税金をどれだけ払っているか。二つ目は国内総生産(GDP)に占める国家歳出の割合。三つ目が国民1000人当たりの公務員数です。この三つの指標で経済協力開発機構(OECD)加盟国を比較すると、日本の政府の規模は相当小さいことがわかります。格差が広がり、セーフティーネットが機能しないのも当然です。これをどうするか。まずは、小さすぎる日本の政府の役割をせめて平均値くらいに押し上げなければなりません。この運動をせずに、社会の問題解決はすべて市民社会が担うというのは無理があります。一方で、日本は市民社会の領域も小さく、社会に関わろうとする人は多くありません。だから、両方を広げる努力をしなければ、社会は持たないのではないかと思います。

伊藤 そうですね。現在は生協法で特定の政党支持などの活動が制限されていますが、生活は政治と密接につながっているので、これからの社会づくりに向けて、政治活動には積極的に参画していく必要があると思います。

中島 政治というと、投票を促す運動に終始しがちです。確かに投票権は重要な主権ですが、政治学が議論してきたのは、この主権からの疎外の問題です。選挙が行われるのは、年に1回くらいで、そこで投票しても自分が民主主義の主役という実感はわきません。投票だけに民主主義を押しこめていることが民主主義を弱くしているのではないかと思います。そこで重要なのが地方自治です。国際情勢は知っていても、自分の住んでいる自治体の議会はいつ開かれ、何人議員がいて、今何が問題になっているのか、詳しく知っている人はあまりいません。身近な生活に関係する政治の課題は実はたくさんあるのだけれど、どうすればそこに関われるのかわからないというのが多くの人の実感です。だからそこにアクセスしやすい場所をつくることが重要です。例えば駅の近くにいろいろな活動をしているカフェがあって、1日店長になって自分のテーマで運営できるようにすれば、いろいろなことを考えている人が集まってくるかもしれません。今、都会では空き家への関心が高くなっています。何かを始めたいと場所を求める人々がいる一方、高齢者が亡くなった後、空き家として放置される家も多くあります。それをマッチングすれば、若者や子育て世代など、いろいろな人が関わってきます。こういう場をつくり、そこから生成されるものをサポートするのが民主主義だと思うのです。一つには物理的な空間としての場。空間があれば人は集まります。同時にそこは単なる場所ではなく他者と関わる場でもあります。そこでは、自分の中にも余白をつくっておくことが重要です。それがないと、他者の意見や存在を受け入れられません。生活クラブは、いろいろな集まり、協同の場があるので、そこで出てきた問題を一つ一つ政治につなげる、その回路をつくっていくことが重要ではないでしょうか。

伊藤 生活クラブは、各地で議会に自分たちの代理人を送ろうという運動を行ってきましたが、そもそも議員だけで行われている政治を、市民に取り戻したいというところから始まっています。ごみを資源に生かすとか、都市農業の保全など、自分の暮らしそのものが政治だね、と主張してきました。今、生協法の規定でそれらが別々のものに受け止められている現状はもったいないですね。改めて場をつくり活動することが、協同の領域を広げ、政治への回路につながっていくと確認しました。



中島岳志さん なかじま・たけし 1975年大阪生まれ。専門は南アジア地域研究、近代日本政治思想。「保守と立憲――世界によって私が変えられないために」(スタンド・ブックス)、「料理と利他」(土井善晴共著 ミシマ社)など著書多数。最新刊は「いのちの政治学 リーダーは『コトバ』をもっている」(若松英輔共著 集英社クリエイティブ)。

伊藤由理子さん いとう・ゆりこ 1980年生活クラブ東京に入職。ワーカーズ・コレクティブの草創期を担当、多摩きた生活クラブ事務局長、生活クラブ東京常務理事などを経て、2020年から現職。共著に「イタリア社会協同組合B型を訪ねて――はじめからあたり前に共にあること」(同時代社)、「西暦二〇三〇年における協同組合―コロナ時代と社会的連帯経済への道」(ダルマ舎叢書Ⅲ)など。
イラスト/星 雅美
構成/本紙・宮下 睦

【本の紹介】

「思いがけず利他」(ミシマ社)
中島岳志 著
★『生活と自治』2022年5月号 「【特集」対談「利他の時代」と協同組合 協同の領域を広げる」を転載しました。
【2022年5月30日掲載】
 

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