のしいか20枚「万引おやじ」とパワハラ上司の「暴言」
※今月から朝日新聞社編集委員の高橋純子さんの連載コラムがスタートしました。私たちが日々の暮らしを足元から見つめ直し、いまの日本社会のありようや暮らしと政治とのつながりを見つめ直すヒントになれば幸いです。
【連載コラム】何気ない日々の向こうに――第1回
〈あなたの思い出の食べ物はなんですか?〉
もしそんな質問をされたら、私はたぶん、「のしいか」と「スープ」をあげると思います。
自宅から通える国公立大学か短期大学への進学しか認めてもらえないというのは「九州で生まれ育った女あるある」です。私もご多分にもれずで、なにを学びたいか、将来どんな職業に就きたいかなんてことはなにも考えずに、家から通える偏差値に見合った大学を受験し、入学したのはバブルまっただなかの1989年のこと。勉強にはまったく身が入らず、団体行動が苦手なのでサークルにも入らず、「水戸黄門」の再放送を見ることを帰宅後の楽しみとする典型的なノンポリ無気力大学生だったけれど、地元の酒店でのアルバイトは性に合っていて、けっこう精を出しました
電話番や伝票整理のほか、店の一角に設けられた立ち飲みコーナーでの接客も担います。つまみは缶詰と乾き物のみ。「いちいち洗剤つけて洗わないよ、もったいないから」というパートのおばさんの指導により、厚手のグラスはどれもくすんでいて、甘いような酸っぱいような臭いが漂う、安く飲める以外の魅力がひとつもないコーナーにふさわしく、やってくる客はうらぶれたおじさんばかり。一升瓶から注ぎ入れる日本酒は「表面張力」までもっていかないと本気で怒られました。
ただ、そんなうらぶれた空間にも序列や派閥はあるのです。缶詰のシーチキンにお酢をドバドバかけてつまみにする県庁勤めのおじさんはお高くとまっていて、フーテンのおじさんたちは彼にうっすら見下されていることに気がついていないはずはないのに、敬語でおべんちゃらを並べ立て、不思議なくらいヘコヘコしていました。
ある日、度の強いメガネのレンズをいつも脂で曇らせているおじさん(無派閥)が、1枚30円の「のしいか」をごっそりわしづかみにし、垢光りする一張羅の黒い作業ジャンパーのポケットにしまうのを目撃しました。万引きです。私は恐怖しました。そして、見て見ぬ振りを決め込みました。「のしいかを盗られました。被害額は600円くらいです」。そんな告発をしている自分を想像して心底バカらしくなったのです。バブル景気にわく東京では高級ブランド品が飛ぶように売れ、ワンレン・ボディコンの美しい女性たちがお立ち台の上で扇子を振って踊り狂い、1本何十万もするシャンパンがばんばん抜かれているらしい。なのに、なんなんだ、これは。
この世の中はマジでクソだ。文句を言いつつそこにどっぷり浸ってぬるぬる生きてる私もマジでクソだ。こんな世の中を、自分を、マジでどうにかしたい。そう真剣(マジ)に考えるようになり、おぼろに見えてきたのが記者という仕事です。私の新聞記者への道は、約20枚ののしいかによって拓かれてしまったのです。
93年に全国紙の記者となり、鹿児島総局に配属されました。女性記者はまだまだ少数派で、ちょくちょく飲み会に呼び出されてはおまわりさんや地元テレビ局のおじさんとチークダンスを踊らされました。でも、そのころの私は「セクハラ」という言葉を自分のなかに持っていません。嫌だな。ヘンだな。そう感じつつも、「男社会」に参入した以上、そこに早く「なじむ」「慣れる」必要があると思い込んでいました。
入社3年目の冬だったと思います。仕事が立て込み、帰宅は連日午前零時を過ぎていました。早くベッドに潜りこみたいのに、その日はカバンをあさってもひっくり返しても、自宅の鍵が出てきません。携帯電話は持ってなかったので総局にとって返し、年上の女友だちに電話して、夜分にごめんね、鍵なくしちゃって、今晩泊めてもらえる? ありがとう、じゃあいまから行くねと総局を出ようとした時、やりとりを聞いていた上司から「あんまり男とヤリ過ぎんなよ」と声がかかりました。何を言われているのかとっさには理解できず、「お疲れさまでした」とだけ返しました。
「寒かったでしょう」。友人は、夜中にもかかわらず温かいスープを作って待っていてくれました。心とお腹が温まってようやく、とても屈辱的な言葉を投げつけられたことを理解しました。そもそも仕事が立て込んでしまったのは、その上司が私の原稿を見てくれないからです。いくらでも書き直すから、どこがダメなのか教えてくれと何度頼んでも無視されました。あの時、セクハラ、パワハラという言葉が自分の中にあれば、闘えたのに――。悔しい。悔しい。情けない。いまでも苦いものがこみ上げてきます。ただ同時に、あのスープが格別においしかったことも思い出すのです。くず野菜をコンソメで煮ただけだよ、と彼女は言っていたけれど、私は救われました。弱っている人、困っている人、世の中の理不尽と闘っている人に、あんなスープを作ってあげられるようになりたい。私は記者だから、スープを差し出す代わりに、なにか力になるような記事を書きたい。そんなことを思ってこの仕事にしがみつき、今年4月で30年になります。
これから月に1度、このサイトにお邪魔させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。
撮影/魚本勝之
たかはし・じゅんこ
1971年福岡県生まれ。1993年に朝日新聞入社。鹿児島支局、西部本社社会部、月刊「論座」編集部(休刊)、オピニオン編集部、論説委員、政治部次長を経て編集委員。