[本の花束2023年3月] 追われる日々の手をとめて、自分の庭を耕そう 寄稿:翻訳家 和田佐規子さん
老い、病、トラウマ、孤独……人間の心の傷が、土を耕すことで癒されていく。
精神科医の著者が、多くの実例と自身の体験をもとに、自然と人間の精神のつながりを描いた本書。「耕す」ことが私たちにもたらすものとは? 翻訳を手がけた和田佐規子さんに、寄稿いただきました。
庭と植物と土と人間
夏から秋への庭や植物の変化は一見すると衰退の一途といった様相だ。裂けたり折れたりしてもなお咲いている前の季節の草花を、一気に抜いたり切ったりしてけりをつけることは暴力的かもしれない。だが、古い根を抜き、鉢底の小石を拾い、新しい土を足し、肥料を入れ、腐葉土を混ぜる一連の活動は、どこか心を和ませるところがある。
庭の世話をしているようで、実は自分自身のケアをしている。
この自然と人間、庭と心の間にある飛躍しているかのような仕組みを、英国の著名な精神科医で心理療法士、スー・スチュアート・スミスは科学の観点から解き明かし、数々の実践例を取り上げる。随所に盛り込まれている庭や自然との彼女自身の個人的な体験は、非常に美しく直感的で親近感が持てる。
ガーデニングをするカサガイ、ミクログリア……と私
南アフリカの潮だまりにいるカサガイが、除草とメンテナンスを繰り返して自分の餌場でガーデニングをするという現象が紹介されていて、仰天した。
また、脳の中では免疫担当細胞のミクログリアが指のような突起を使って毒素を除去して炎症を抑え、余分なシナプスや細胞を雑草のように取り除いている。驚くべき、脳内ガーデニングだ。
大きな自然の中に自分も含まれていることを、こぼれた肥料成分を吸い上げて強大化する雑草と苦戦しながら、私は真夏の庭の真ん中で了解した。
持続可能なライフスタイルを
健康障害の原因のトップは今や呼吸器系の疾患を抜いてうつ病だという。私たちのライフスタイルが持続可能でなくなってきているのだ。明日までに、来週までにこの仕事を……、これだけ、ここまでは終えなければ……と私たちはノルマと締め切りに追われている。
そんな中で、明日からしばらく雨の日が続くとか、定植のタイミングが迫っている苗や球根があるとかで、仕方なく仕事を中断して庭へ出るということがある。ところが一時間だけと思っていた活動が半日になり、その半日がまた翌日やることになったりする。庭に出ていることが楽しいからだ。そんなこんなで後回しにした仕事の方は、まあいいか、そこまで完璧でなくても、と自分に優しくなる。庭が楽しいからだ。庭仕事や自然に囲まれた環境に入ると課題集中型の思考に休息を与えることができると、著者は様々な研究成果を紹介して丁寧に実証してくれる。
「自分の庭を耕さなければならない」
「私たちは自分の庭を耕さなければならない」というヴォルテールの箴言の意味を翻訳するところで、私は何度も立ち止まなければならなかった。
最終章の一節で、lifeの意味を「人生」「生命」、あるいは「生活」のどれにするかで難航し、今読み返してもいびつな訳文だ。だが、lifeの意味の広がりと重なりのなかに、ヴォルテールの「庭」の意味はある。
cultivateという語は外へ向かう時は大地を「耕す」だし、内側へ向かえば愛や友情、精神的価値を「育む」。このような意味の広がり方は非常に本質的で、lifeと似ている。庭を耕すことは、土を耕すことは、人生に対する、命に対する姿勢になりうる。私たちは庭の土を耕しながら、生活も生命も人生も、正しく整えていく。それが「自分の庭を耕す」ことなのだ。
自然のサイクルに立ち会おう
一年で最も太陽の光から遠ざかったような日に、秋に植えたチューリップが芽を出した。次の季節への希望が冷たい土を押し上げているのだ。さあ、これから始まる庭のサイクルに立ち会おう。
【寄稿】翻訳家 和田佐規子さん
●わだ さきこ/岡山県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。夫の海外勤務にともないドイツ、スイス、米国に、あわせて9年滞在。44歳で大学院に再入学。専門は比較文学文化(翻訳文学、翻訳論)。現在は首都圏の3大学で、比較文学、翻訳演習、留学生の日本語教育などを担当。翻訳書に『チーズと文明』『宝石──欲望と錯覚の世界史』(以上、築地書館)がある。
書籍撮影:花村英博
『庭仕事の真髄
老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭』
スー・スチュアート・スミス 著
和田佐規子 訳
築地書館 2021年10月
19.5cm×13.5cm 416頁
●スー・スチュアート・スミス/英国の精神科医、心理療法士。ケンブリッジ大学で英文学の学位を取得し、その後医師となる。国民保健サービス(NHS)に長年勤務し、ハートフォードシャーで心理療法の分野を主導する存在となる。現在はロンドンのタビストック・クリニックで後進を指導しつつ、ドックヘルス・サービスで最高専門医を務める。夫は有名なガーデン・デザイナー、トム・スチュアート・スミスで、2人は30年以上かけてハートフォードシャーに素晴らしいバーン・ガーデンをつくり上げてきた。
老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭』
スー・スチュアート・スミス 著
和田佐規子 訳
築地書館 2021年10月
19.5cm×13.5cm 416頁
●スー・スチュアート・スミス/英国の精神科医、心理療法士。ケンブリッジ大学で英文学の学位を取得し、その後医師となる。国民保健サービス(NHS)に長年勤務し、ハートフォードシャーで心理療法の分野を主導する存在となる。現在はロンドンのタビストック・クリニックで後進を指導しつつ、ドックヘルス・サービスで最高専門医を務める。夫は有名なガーデン・デザイナー、トム・スチュアート・スミスで、2人は30年以上かけてハートフォードシャーに素晴らしいバーン・ガーデンをつくり上げてきた。
図書の共同購入カタログ『本の花束』2023年3月4回号の記事を転載しました。