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児童書『いちばんたいせつなもの』に込めた願い ――静かに「わたし」が消されていく時代に――

ジャーナリスト/斎藤貴男さんに聞く
 

 
宮崎駿さんの映画「となりのトトロ」がロードショー(封切り)される前に流れた宣伝コピーが「忘れものを届けに来ました」だった。映画をご覧になった方に余分な講釈は不要だろうが、この作品の「こころ」を見事に表現した言葉だった。同じ感覚を再び持った。今回は一冊の児童書を通してだ。書名は『いちばんたいせつなもの』。初版は2021年3月27日で新日本出版社から刊行された。作者は斎藤貴男さんで、イラストレーターのおとないちあきさんが愛らしい挿絵を手がけた。斎藤さんといえば硬派なジャーナリストで、『機会不平等』(岩波現代文庫)、『決定版 消費税のカラクリ』(ちくま文庫)、『驕る権力、煽るメディア』(新日本出版社)といった多くの著作を通して社会問題の深層に迫り、警鐘を鳴らし続けてきたことで知られている。

あの斎藤貴男さんが児童文学に挑戦?と驚き、急ぎ『いちばんたいせつなもの』を手に入れた。そのページをめくりつつ、思い浮かべたのは学生時代に読んだ吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)だった。この作品が山本有三編『日本少国民文庫』全16巻として最終配本として刊行されたのは1937年8月。この年の歴史をひもとけば、日本が紛れもなく「戦争」の遂行当事者となっているのがわかる。あれから86年が過ぎようとしている現在、いまも「戦争」は無くならず、ロシアによるウクライナ侵攻はもとより、アジアにアフリカ、中東や欧州でも「紛争」と称される無数の軍事的衝突が続く。こうしたなか、再び日本も「平和のための戦争準備」に取りかかろうとする政策が唐突かつ独断的に提示され、政権与党は喜々として「戦火」のたきつけに励もうとしているように見えてならない。

『君たちはどう生きるか』と『いちばんたいせつなもの』には、だれもが身を置く日常を舞台に、生身の身体を通して認識(あるいは発見)される社会の姿が平易な表現でつづられている。その根底には人は自然の一部であり、自己は他者の営為(あるいは労働)によって「生かされ生き」「生き生かす」関係の連鎖のなかにあるのではないかという重要な問いかけが存していると思う。ここに「非戦」の意味を考えるヒントがある。もはや「平和のための戦争準備」は社会の共通認識となってしまったのだろうか。

それにしても、何とも不可解な静けさが日本社会を覆っている気がしてならない。だからこそ、ここで紹介した二冊の本の世界に触れてほしいと思っている。
『君たちはどう生きるか』については岩波文庫を一読願いたいし、いまではコミック版も発行され、宮崎駿さんが映画化にも取り組んでいると聞いている。ぜひ何らかの形で触れていただきたい。今回は『いちばんたいせつなもの』の作者である斎藤貴男さんの思いを聞いてみた。

「とにかく何でも自分でやってみなよ」と伝えたくて

――今回、初めて児童文学に挑戦されたわけですが、どんな思いを込めてお書きになられたのですか。

大仰な目的があってのことではないんです。あえて言えば、私たち人間にとって大切なのは、誰かから与えてもらうのではなくて、何でもいいから自分の意思と力で、現実と格闘しながらやってみることなんじゃないかと、どうにかして子どもたちに伝えたいと考えたことでしょうか。「児童文学」なんてほどのものではないですけど、確かに創作物語の部分も大きい。ただ、根幹は私自身の実体験そのものなんです。いまの社会はインターネットへの傾斜が過剰に進み、デジタル化が万能のようにもてはやされています。その結果、世の中の何もかもがバーチャル(仮想現実)のように見える倒錯が起きてしまっているのではないか。むごい現実さえもが、まるでネット空間における作りものみたいに捉えられがちになったと、私には感じられてなりません。でも実際は、人間には喜怒哀楽があり、ゼロか百かの存在でもない、限りある「いのち」を燃やして生きる存在なんだ。だから、とにかく自分の身体で触れてみなよ、ぶつかってみてごらんよと、ごく当たり前のことを言いたかった。
 


――物語に登場するのは主人公で小学校3年生のテツオと仲間たちに上級生、そしてトモコ先生。舞台は「健康学園」という公営の保養施設ですね。そこでの日常生活を通じた主人公の精神的な成長が描かれているわけですが、テツオは斎藤さんご自身ですか。

はい。今どきじゃないネーミングですよね。ただ、もう40年以上も前に亡くなった私の父は鉄くず屋、最近だと鉄リサイクル業というのですか、をしていたんです。その父への感謝と、自分に一番欠けていて、もしも生まれ変わることができるなら、ぜひやってみたいのは哲学かなあ、なんて思いを込めて、テツオ君と名づけました。

体が丈夫でない子が共同生活をしながら体を鍛える「健康学園」というのも、実在した施設です。私が寄宿していた1960年代後半当時は、東京23区のうち17区が、千葉県や静岡県の海岸で同様の施設を運営していました。多くは美濃部亮吉都政の時代に児童福祉の一貫として設けられたのですが、後に石原慎太郎都政になって次々と廃止されてしまうことになります。私は小学校3年生の頃、千葉県の内房海岸にあった施設で、同じ区内のあちこちの学校から集まってきた先輩や同学年の子どもたちと過ごしました。勉強なんかはそこそこに、毎日ひたすら飛び跳ね、海で泳いで、仲間たちと思いきり遊びました。心と体が丈夫になり、大学で空手をやれるまでになれたのはそのおかげでした。毎朝の海岸散歩で拾ったタカラガイの貝がらを、園内では通貨のように使った。何もかもが自由で、思えば子どもの「楽園」でしたね。

とはいえ、いくら子どもの楽園でも、そこは人間の社会です。私はある時、園内での暮らしやすさを計算するあまり、リーダー格の上級生に「忖度(そんたく)」してしまい、大変な後悔をすることになります。『いちばんたいせつなもの』の肝にもなったエピソードです。

あの頃の、時間的にはほんの数カ月程度でしかなかったのですが、夢のような体験があるせいか、私には現在の社会がひどく異様なものに見えてしまう。いわゆる「指導者層」が世の中を自分の思いのままに動かすことができるゲーム盤でもあるかのように捉えているのは昔も今も変わりませんが、最近はむしろそうやって動かされている立場の人たちまでが、まるで自分自身が指導者になったかのように他人を見下し、神様みたいな上から目線で天下国家を論じたがる。無意味かつ滑稽であるばかりか、ハッキリ言って有害です。
 

身体感覚と「人間観」の欠落した社会の怖さ

――やはり、背景にはデジタル社会万能論があると?

私はデジタル化を全否定しようとは思いません。そんなことを考えたところでどうしようもないし、便利か便利じゃないかといえば、スマートフォンなどのデジタル機器はとてつもなく便利です。でも、だからといって、百人が百人とも、それに操られる筋合いはないでしょう。上手に使いこなす人もいれば、否定的に考える人がいてもいい。なのに現実にデジタル化は「国策」で、拒否する者は生きていてはいけない社会が築かれつつある。公衆電話は消え失(う)せて、自動券売機で電車の切符を買うのも難しい。いずれ現金では買い物ひとつできなくされていくのでしょう。

私はAI(人工知能)ごときに支配されたくない。もうじき高齢者と呼ばれる年齢に突入する私が古い価値観の持ち主であることは否定できませんが、こればっかりは、つまり人間が魂を湛(たた)えた人間であり続けられるかどうかの瀬戸際においては、子どもたちが安易に流されていいはずがないという強い問題意識を持っています。
 

『いちばんたいせつなもの』を書き終えたあとに知ったのですが、近年は小学生の「憧れの人ランキング」のたぐいで常に1、2位に選ばれるのは、やたら他人を見下して、「それはあなたの意見でしょ」の一言で片づける人物だそうです。それが悲しい歴史的背景を伴う、自分自身や家族の生命と尊厳を賭けた絶叫であろうと、いや、だとすればなおさらシニカルに、何アツくなってんだよ、バーカとばかりにせせら笑って悦に入る。そんな手合いが「論破王」だと讃えられているのだとか。これほど痛ましい、問答無用、一刀両断の、対等な立場での対話を拒絶する振る舞いが罷(まか)り通ることだけは許されるべきでないと、私は思う。それが「憧れの人」だなんて、あまりにも危険な風潮です。

――なるほど問答無用ですか。どこか1932年の「5.15事件」を想起させますね。そんな社会状況のなかで、身体性が担保されないまま、つまり人間は生身にして複雑かつファジーな存在であるとのリアルな実感がないまま、「戦争」という二文字が現実味を帯びて語られている気がしています。とても恐ろしいことではないでしょうか。

そう感じるのが真っ当な人間の神経だと思います。1991年の湾岸戦争は、まるで「テレビゲームみたいな戦争」と論じられました。あれから32年、現在のウクライナ報道では「生の映像」を見せられているにもかかわらず、それがリアルなゲームを見ているかのように受容されているとしたら恐ろしい。政府を中心とする「政官学」が一体化した権力がやっていることも、実に陳腐な表現ながら「ゲーム感覚」というしかなく、末端で生きている一人ひとりの生身の人間のことは、それこそゲームの駒としか捉えられていません。猫も杓子も、意味もわからぬままに「生産性」なる流行語をさえずり、数字でしか物事を判断しない。今こそ求められているのは、ヒューマニズムを湛えた「人間観」だと、私は感じます。ですが、今の社会で幅を効かせている言説には、それがまったく欠落している。来るところまで来ているのだと、真剣に身構える必要があるのではないでしょうか。

何よりもまず、デジタルはあくまで手段でしかないという当たり前の認識が、口先だけでなく、それこそ普遍的な価値として徹底されなければなりません。デジタル化のパワーはあまりに強力で、野放しにしておけば人間は確実に支配されます。「このままではナチズム以上の全体主義がやってくる」と警告する知識人が、世界には山ほどいる。「便利」の裏には真っ暗な影がある。

同様の怖さを安保関連3文書の内容を見ても感じます。なにしろ米国のシナリオ通りなのですから。日本と米国では地理的要件がまるで違う。中国や北朝鮮に対する見方、対応が米国と同じであってよいはずがないでしょう。米国にとって中国は太平洋を挟んだ遠くの国であり、日本は対中国の最前線にいる天然の要塞に他なりません。にもかかわらず、岸田政権の立脚点は米国とまったく同じです。これほどの恐怖はありません。
 

日本の指導者層の常ですが、とにかく当事者意識が全然ないのです。はるか昔から指摘されてきたことでもありますが、私はそれを、あの福島第一原発の工事責任者で、東日本大震災で過酷事故を起こした際の東京電力の副社長に取材をした際に痛感させられました。原発施設のどこがどうなっているかを説明してくださいと尋ねても、「何も知らない」の一点張り。嘘をついているふうでもなければ、「忘れてしまった」でさえない。どうして責任者が知らないのか、それで済まされるのかという話です。そうか、日本では軍事でも原発でも、重大なことを決めるのは総理大臣でも社長でもない。米国なんだ。事の善悪を度外視する限り、「俺のせいじゃない」としか考えられないのは、自然の成り行きなのかもしれないと、その「無責任体質」に心の底から呆れた次第です。

このままでは危ない、どころではないでしょう。彼らが人間を人間として見ているとは思えない。ということは、こちらとしては「わたし」が消されている。そんな社会を私は絶対に受け入れたくない。ましてや子どもたちには、見てくれは「やさしげ」であっても、本性は「酷薄で薄汚すぎる時流」に流されてほしくないのです。

 
撮影/魚本勝之
取材構成/生活クラブ連合会 山田衛

さいとう・たかお1958年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。英国バーミンガム大学大学院修了(国際学MA)。日本工業新聞記者、「プレジデント」編集部、「週刊文春」記者などを経て独立。『機会不平等』(岩波現代文庫)『 ルポ改憲潮流』(岩波新書)、『「あしたのジョー」と梶原一騎の奇跡』(朝日文庫)、『子宮頸がんワクチン事件』(集英社インターナショナル)『決定版消費税のカラクリ』(ちくま文庫)など著書多数。

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