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お盆に戻りくる先人たち 「あの時はごめんね」

【連載コラム】何気ない日々の向こうに――第7回 朝日新聞編集委員 高橋純子さん


推定4人の読者の皆様こんにちは。今年のお盆はどうお過ごしになりますか? あるいは、どうお過ごしになられたでしょうか?

子どもの頃、お盆といえば父方の実家に親戚一同が集合してわいわいする、年に一度の一大イベントだった。「迎え火」は13日の夕方、ほおずきの鉢植えが並ぶ狭い玄関先で、祖母がわらに火をつける。「おじいちゃんが帰ってきたよ」。その言葉にはいつもしっとりとした情感が込もっていて、われら孫たちも「そういうもん」だと思って育った。

16日の午後は「送り火」に備えて、いとこたちと近所の商店を回り、ロケット、ネズミ、ヘビ、線香、さまざまな花火をたんまりと仕入れる。夜になったら提灯をぶら下げて海岸へそぞろ歩き、木製の小さな舟に供物を載せて海に流し、最後は浜辺で花火やスイカ割りに興じた。

麦わら帽子の赤いリボン。おろしたての白いワンピース。ねだって買ってもらった少し大きめのサンダル。そういえば毎年、ほおずきの丸い実をやさしくもんで笛を作ろうと頑張ったんだよな。途中で破れて一度もうまくいったためしがないけれど――。思い出のふたが開き、懐かしさで胸が酸っぱくなる。だけど祖母が亡くなると、お盆に親族が集まることもなくなった。「生」の時と「死」の時が渾然一体となったああいう暑い夏を、我が子に一度も体験させてあげられなかったことは、ちょっぴり残念に思っている。
                              

 

母方の祖母は東京育ちのお嬢様で、敗戦後、満州からひとりで5人の子どもを連れて引き上げるなど大変な苦労をしたというのに、とてもおっとりした人だった。明治生まれの祖父は病気持ちで働けず、寝てばかりいるのにすごく威張っていて、家計も家事も一手に担っている祖母を「おい」と寝床に呼びつけては小言を並べ立ていた。それに「はい」としか答えない祖母は表情を失っていて、子どもだった私にも、祖母が心の「スイッチ」を切っていることがわかった。

祖父が亡くなって10年ほど経った頃、祖母は大学生の私にそっとささやいた。
「おじいちゃんが死んで、やっと自分の人生を生きているような気がするの」

えっ?と驚き祖母を見ると、「秘密」を誰かと共有できてうれしかったのだろう、「うふふ」と笑みを浮かべていた。彼女の表面上の「おっとり」は、怨嗟を飼い慣らして諦念に行き着いた末のことだったのだと腑に落ち、祖母との間にシスターフッドが芽生えた。

「自分の人生」を10年弱生きてのち、入院先で昏睡状態に陥った祖母。見舞いに行くと、ハァハァと息が荒い。時折痛がるそぶりを見せるので、叔母が年配の看護師さんに「なんとかしてやって欲しい」と訴えたが、「もう意識がないから、本人は痛さを感じていないんですよお〜」と軽やかに言い残して去って行った。「おばあちゃん」。耳元で呼びかけてみる。その刹那、祖母の息がもわっと私の顔にかかり、あまりの臭いのキツさに思わず顔を背け、そのままそばを離れてしまった。入れ替わりにいとこのお姉ちゃんが寄り添い、おばあちゃん、おばあちゃんとずっと手をなでている。しばらくのち、祖母は息を引き取った。

どうして私は最期、あんな態度しか取れなかったのだろう……どうやら私は、近しい人の死にちゃんと向き合えない性質(たち)のようなのだ。それを真に自覚したのは、7年前の8月9日、父が亡くなった時だった。 


 

 
危篤だと母から電話があったのはお昼過ぎ、けれど私は仕事があるからと言って、すぐさま帰省するという選択をしなかった。「帰ってきたヒトラー」を鑑賞すべく映画館へ行き、おそらく上映中、マナーモードにしたスマホへと訃報が届くだろうと思っていたら案の定だった。「ダメやった」と泣く母に、明日の飛行機で帰るからと言って電話を切り、銀座のデパートで喪服を買って、元から約束していた飲み会に出かけた。上司がカラオケで歌ったサザンオールスターズの「真夏の果実」が意外としみた。

葬儀での喪主あいさつは兄、すべて終えたあとの参列者へのあいさつは私がした。20年以上文章を書くことを生業としてきた私であるからして、スラスラと紡ぎ、そらでよどみなくしゃべった。酒癖が悪く、近所の人にもたびたび迷惑をかけてとても恥ずかしい思いをしてきたこと。だけど今日、こんなに多くの方が悼んでくれて、父を大いに見直したこと。涙と笑いを誘い、近所の人たちは「さすが純子ちゃん、上手な挨拶やった〜」と感心しきりだったらしい。でも私は知っている。型通りのあいさつをたどたどしく読み上げた兄の方が、父の死に対してよほど誠実なことを。「上手」なあいさつをしてしまう私は、とても嫌なやつなのだ。

……ん? なんでこんな話をしてるんだろうか私は。もともとなきに等しい好感度をあえて下げにいく必要もあるまいに。いや、でも、私みたいなのがいるから、お盆が「発明」されたんじゃないかと思うことがあるのだ。生きている間にしてあげられなかったあれこれの後悔。そんなことは1年のうち361日は忘れているんだけれど、お盆の間、あの世から帰ってきてふわふわとそのへんに漂っているはずの祖母や父のたましいに謝ることができる。「あの時はごめんね」と。

(※冒頭の「推定4人の読者の皆様」は、敬愛するエッセイスト、故・高山真さんへのオマージュです)


撮影 魚本勝之

たかはし・じゅんこ
1971年福岡県生まれ。1993年に朝日新聞入社。鹿児島支局、西部本社社会部、月刊「論座」編集部(休刊)、オピニオン編集部、論説委員、政治部次長を経て編集委員。
 

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