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生協の食材宅配【生活クラブ】
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ゼミ幹から「気愛」を込めて 「好き」を深めりゃ「推し」になり 推しを集めりゃ、和気あいあいの「平和」な暮らしに?!


かつて「生活クラブって、どんなクラブ?」というハンドメイドの生活クラブへのお誘いちらしをつくった組合員がいました。この問いは「いま」も大切かつ重要な問いではないでしょうか。

消費生活協同組合(生協)は厚生労働省が所管する組織で「消費生活協同組合法」に定められた諸条件を満たした組織です。その第一章には個々人の主体的意思に基づき加入した者が「組合」を構成する「組合員」であり、加入・脱退は原則自由とされています。では、その主体的意思とはいかなることを意味するのでしょうか。まったくの私見に過ぎませんが、必要とする物事を手に入れるためにオーダーメイドの仕組みを創造する起点となる社会に向けた問いや問題意識の表出ではないかと思うのです。

明治大学文学部教授の齋藤孝さんは「3」という数字の面白さ(角川書店刊『三色ボールペンで読む日本語』参照)に注目されました。同様に1968年の生活クラブ生協立ち上げに参加した元生活クラブ埼玉専務理事の河野照明さんは「1」は個人「2」は関係「3」は社会と捉え、2は対話のはじまりで、そこに別の角度の異見が入る3があっての民主主義と話してくれたことがありました。たしかに諸事何事も1の個人の意思がなければ始まりません。しかし、その意思に心を動かされる他者がいなければ関係は生まれず、個の意思の投影した社会は形成されないままかもしれません。

〇▽◇×

そんな最初のひとりはすでに「推しメン」であり、その「なかま」というか共感者となった人が、自分の推しメンを獲得していくプロセスを生活クラブでは「拡大」と呼んでいます。個=わたしが加入申込書に必要事項を記入し、生活クラブ組合員となり、他の「わたし」とともに生活クラブが供給(仕入れ販売)する食品や日用品を購入(買うとはいわないが取るとはいった)する、これを「おおぜい」の「わたし」(これまた私たちではない)の利用意思の集積が社会的な力となる、これが「利用結集」です。拡大に利用結集。何ともとがって硬質な言葉ですが、その原点にも個々の組合員が抱く社会への思念(このままでいいのか、もっと良くはならないのか、あまりに問答無用かつ一方的な価値観の押し付けにうんざりもやもや……イラッ)があったに違いないと推察します。

その「推しの意味」を確認しあう場が地域での会議や委員会であり、そこは学びを深める勉強(これまた硬派ですが)の空間ともなっていたのではないでしょうか。そこを通して新たな関係が生まれ、逆に対立とはいわないまでも対抗する関係も生まれ、異見交換が重ねられて暫定的な解決策が人びとの力で見いだされていったのでしょう。ここに当方は「利己」を「利他」としていく人びとの力を感じ、利己は利他を内包するものではあるまいかとの暫定的結論(仮説的な解)を得るのです。

〇▽◇×

こうした一連の社会的なアクションをアイドル研究家の中森明夫さんは「推す力」と定義し、人びとの「好き」からはじまり「好き」を深める精神文化から生まれくる「民主主義的社会変革力」として注目しています。詳細は集英社新書『推す力』をご覧ください。しかし、推す力には怖い側面もあります。ひとたび自分の推す対象を「絶対視」してしまうと、他の推しメンが「好き」な対象を敵視し蔑視し、ついには攻撃するようにまでになってしまう可能性を秘めてもいると中森さんは注意を促します。そこを常に自戒し心に留め、互いに「好き」な何かを尊重しあえる関係が維持されれば、ともに平穏で幸福な状態でいられることでしょうし、間違っても現下の世界のように人がドローンや無人機に殺戮されるような事態を招く恐れは低減化されるのではないでしょうか。

愛の対義語は「憎」ではなく「無関心」とされています。さて、この意味でいうと生活クラブに加入するのは紛れもなく愛。それがあるから拡大と利用結集にも参加もするし、いまの社会に疑問があればグラデーションがある色彩の「おおぜい」の「わたし」の力で、何とか知恵を出し合って問題解決のための筋道(別の仕組みや場)の開拓を目指すための緩やかな連帯を志向するのです。

この視点をくれぐれも忘れず、中森ゼミでは折に触れては生活クラブとは、生活協同組合とは、協同組合とは何なのかをテーマとしていきたいです。そして、ときには生産現場に中森教授と足を運び、生産者のみなさんとの意見交換も進め、そのポイントをお伝えしていけないものかと思っています。むろん、組合員のもとにも参上するつもりです。

中森明夫ゼミ
第2回プレ講座

とにかく「身近」がキーワード 推しの一歩目は――

前回のプレ講座に続き、中森明夫教授にお話を伺います。
いまや還暦をとっくに過ぎ、世間を知った気になっている見かけ倒しのゼミ幹が聞き手を務めさせていただきます。

「ポピュリズム」と「マス」と「大衆」と


――この数年、世界各国の首班選挙の報道には決まって「ポピュリズム」という言葉が出てきませんか。ポピュラーミュージックは「大衆音楽ですよね」。とするとポピュリズムは大衆主義あるいは、その欲し求めるところに迎合すねという意味になりそうです。この場合「大衆」は「マス」。マスコミのマス、マスプロ=大量生産のマスとされ、人の塊(かたまり)ないしは群れと見られるようです。
 
いきなり少しばかり難しい問いですね。僕は単なる「マス」にとどまってしまっていてはダメなんじゃないかと思っています。不平・不満の解消を求める流れに乗った人がひと塊になっている状態ではない。ある種、幅広い目的意識を共有して友好的に集っている。一つの主体性を持った集合体を「ポジティブな大衆」と定義したいですね。ただ、人は好むと好まざるにかかわらずマスにならざるをえません。人間とはそもそも一人一人が「顔」を持った違う人なのにもかかわらず、たとえば都会の雑踏では単なる塊としてしか互いの目には映らない存在になってしまいます。

資本主義のパワーは、個々の人間の欲望を活力源として増殖し、ひた走っている。そうして、あらゆるものをデータ化してしまいます。コンビニで何かを買ったなら、その記録は即座にデータ化され、だれか第三者が読み取ることが可能な数値と化します。個人の内面の動きなどまったく顧みられない。生身の身体と心を持った人間が「ビッグデータ」「マスデータ」として扱われるのが「いま」の社会なのです。その点は政治のありようにも通じている。たとえば、この間に与党の政治家が起こしたさまざまな不祥事が批判されています。多くの人が怒り、なんとかしたいと思っている。けれど、どういうわけか不祥事続きの自民党政権がずっと続いているのも事実です。もはや民主主義の限界を露呈していると叫ばれたりもする。その現実は「選挙でしか変えられない」のですが、結局はまったく変わらない。変えようが無いという絶望的な無力感だけが蔓延しています。僕は日本人ってそんなにバカじゃないと思う。そんなに悪い人もいないし、たとえば平成以降の30数年に限っても、みんながサボってきたとは思えない。個々の人間としてはみんながんばっているのに、ところが、それが反映されない。日本社会はだれがどう見てもうまくいっているとは言えませんよね。そこで政治だけではなく、文化に目を向けなければならない。

僕は「マス・カルチャー(大衆文化)」の世界に魅せられ、40年以上もそこで仕事をしてきました。代表的なのは、アイドルを批評する仕事です。たかがアイドル、と言われる。しかし、そのアイドルが本当に好きで自らの生きがいとしているたくさんの人を知りました。同じ思いで、いわば「推しの世界」を共有する人びとが存在する。そこにはすごい潜在的なパワーがある、そう気づいた。大げさに言えば、希望を感じたんですね。資本主義的な現実を考えれば、行き着くところは「売り上げ」です。アイドル文化も商業的なマスに還元されてしまう。しかし、推しの営みのなかに、実は何ものにも還元できない個人個人それぞれのかけがえのない思いや願いが存在する。そこにはたしかな希望があるんじゃないか?

いわば「何が好きか」「どこが好きか」をテーマにして深掘りすれば、サブカルチャーにもさまざまな「回路」が生まれる。先般、1970年代から警察の捜査網からの逃亡を続けてきた桐島聡という人が亡くなりました。その人生の最後の最後に70歳という年齢を迎えて初めて「桐島です」と名乗ったという。どうしてなのかと、その意味をずっと考えてみました。宮崎駿さんのアニメ映画に「千と千尋の神隠し」があります。舞台は廃墟となったかつてのテーマパークで、そこで主人公の女の子が働く。つまり崩壊したバブル経済の夢の跡地で、子どもに労働の価値を教えているんですね。さまざまに示唆的なところの多い作品です。なかでも面白かったのは千尋という女の子が油屋(銭湯)の主の湯婆婆(ゆばあば)に「お前はこれから千だ」と告げられるところです。それは別名、あるいはペンネームやハンドルネームでもあると解釈できる。他方、「千尋という本名を忘れるな」という教えがあります。結局、「千」は「千尋」という名前を手放さなかったおかげで異界から現実世界に戻ってくる。半世紀余りの逃亡犯が、最後に「桐島聡」という名前に戻って逝ったように。

アイドルを「推す」こと、アイドルに「推される」こと


 
つまり、名前というのは一つの固有性であり、虚構の世界から現実に戻ってくるための回路でもある。これはインターネットの匿名空間でハンドルネームで迷走している人たちにも届きますね。「千と千尋の神隠し」の最大のメッセージは「名前を大切にしなさい」ということです。あの映画を見たたくさんの子どもたちがそれを教えられた。学校では決して教えてくれないことです。この世に名前の無い人は一人もいない。親が子どもの名前をつける時、幸せになるよう祈ったはずなんですね。その祈りが名前には封じ込められている。それによって私たちは社会と繋がっている。つまり人はだれもが「推されて」生まれてきた。「推し」とか「推しメン」という言葉には、そんな根源的なパワーが存在するということです。推すことで繋がる人間集団の面白さ、おおぜいの「好き」が織りなして社会に発信するオリジナリティ(個性)の源となっている。そこに強力なポンシャリティ(秘めた可能性)を感じるんですね。
 
――それが「利己」と「利他」併存性ということですか。
 
「推しメン」は「推しメンバー」の略称です。グループアイドルを前提としていて、そのなかのだれかをチョイスするということ。推しの主体はファンですが、推される側のアイドルが「推し」と呼ばれるのが面白い。「好き」を深めて他者と共有し、ひとりのアイドルを社会に送り出して輝く存在とする。推しの力が現状をいくばくかでも変えられる、その達成感、それが未来を切り開く手立てとなる。自分の利益のためではなく、愛するアイドルや一緒に推している仲間たちや、自分以外のもののために尽力する。その「利他」的な生き方の素晴らしさに人々が気づきはじめていると感じます。

僕はアイドルの定義は、日本国憲法第一条だと言っています。日本国民の総意に基づき国の「象徴的地位」がある。天皇がアイドルで、国民がファンだとすると、主権はファンの側に存在するんですね。だけど人間が象徴になるというのは大変ですよ。象徴天皇制もそうですが、圧倒的多数の人々に推されるというのは実は非常に過酷なことでしょう。野球の大谷翔平選手が結婚を発表するとすぐにネットで相手は誰だと白日の下にさらしてしまう。あれだけの大スターになるとプライバシーを守ることさえ尋常ではない。そこには、いわば推し文化のマイナス面もありますね。日本の皇室も同じでしょう。最もいたたまれないのは雅子妃や女性皇族。眞子さんのご結婚の時もそうでしたが、心ないバッシングが浴びせられました。

若い女子もまたアイドルなったら、インターネットでぼろくそに書かれるわけです。日本人は表面では優しい。面と向かって人を悪くは言いません。しかし、SNSで匿名になると誹謗中傷の嵐です。アイドルになった子は、エゴサーチして自分に対する誹謗中傷を目にして、メンタルを病んだりします。子どもたちだってスマホを見てるでしょう。大人は表面ではみんなきれいごとばかり言ってるけど、匿名でひどく口汚い誹謗(ひぼう)を撒き散らしている。それが現実だと気づいている。SNSの誹謗中傷に対する法的規制の機運が高まっています。他方、開かれた言論空間への公権力による介入というリスキーな要素をはらんでもいる。これはなかなか難しい問題ですね。

しかし、こういう社会を作ったのは僕ら大人の責任でもある。大人が「これはノー」だとはっきりいう必要があります。しかし、もはや表面的な理想論ばかり語っていても意味はない。まず、この現実、このひどい現実から目をそらしてはいけない。大変だけど、そこから始めるしかないですね。

過酷な「現実」から目を背けず、「想像力」を磨けば


――著書の「推す力」には幾度も大変な目に遭ったアイドルを見てきたと書かれています。どういうことですか。
 
「感情労働」という言葉があります。苦情処理の電話対応とか介護職とか。アイドルもそうで感情を酷使するんですね。たとえば握手会で一日に何百人ものファンと握手する。それだけでメンタルをやられて倒れるアイドルがいます。握手する相手が殺人犯かもしれない。でも、拒否できませんからね。中には直接、ひどい言葉をぶつけてくる悪質なファンもいます。一人で大勢のファンと対峙するのは大変な圧迫感ですよ。たとえ999人が褒めてくれたとしても、一人そういうひどい人がいると心に傷が残りますよね。過酷なことです。

せめて、そうしたことに対する「想像力」は持ってほしい。いや持つべきです。自分が同じことをやられたらどうだろう、と考える最低限の想像力は絶対に必要ですね。

かつて僕は「知ると分かるの違い」に言及したことがあります。いまや若い人たちの知識量は19世紀の人間の何百倍、何千倍にもなっていると聞きました。インターネットがあるからいつでもすぐ調べることができる。「知る」ことは容易です。しかし、「分かる」ことはどうか?  「分かる」とは、自分が経験すること。実体験の「痛み」を感じることだと思うんです。たとえば、人は「死」を知っている。ドラマや物語には「死」があふれていて、それを通して知るんですね。だけど実際に自分の親とか大切な人が死んだ時、初めて「死」を知るんじゃなくて、「分かる」と思うんです。自らの「痛み」をともなって。

いま、イスラエルの攻撃を受けているパレスチナガザ地区の子どもたちの映像を見ると、いたたまれないですよね。あるいはウクライナでの戦争でもそう。子どもたちが可哀想だと思う、それはまともな感覚です。ただ本当のところは分からない。あそこに住んでいないと分からないということがある。それでも分かろうとする。それでいいのかと問い続けることが大事ですね。戦場だけじゃない。被災地もそうでしょう。元日に能登で大きな地震があった。復旧作業がなかなか進まず、被災された方々は大変な思いをされているはずです。それは自分の体験ではないから、本当のところは分からない。だけど、なんとか分かろうとして想像力を働かせる。

10余年前にNHKの朝ドラ「あまちゃん」にはまりました。その舞台となった岩手県へと行って「あまちゃん」ファンの皆さんのイベントに参加して、たくさんの知人や友人ができた。もともと何のゆかりもない土地です。けれど、そこに何度も通いつめ、地元の方々とお酒を酌み交わしたりしました。東日本大震災の時にいかに大変だったか、涙を流して話しくれる方もいた。僕にとって大切な土地になったんです。アイドルだけじゃない。岩手は自分の「推し」ですね。この「推し地元」という考え方を、岩手県の達増知事もとても喜んでくれた。その後、また東北で比較的大きな地震があると、パッと岩手で知り合った人たちの顔が浮かびます。大丈夫かなと心配になる。そう思うと、もう他人事じゃなくなるんですね。同じアイドルを推していた人同士が繋がれるのと同様、「推し地元」は想像力の連帯をはぐくむものだと思います。(次回に続く)


撮影/魚本勝之
構成/生活クラブ連合会 山田衛

なかもり・あきお
作家・アイドル評論家。三重県生まれ。さまざまなメディアに執筆、出演。「おたく」という語の生みの親。『東京トンガリキッズ』『アイドルにっぽん』『午前32時の能年玲奈』『寂しさの力』『青い秋』など著書多数。小説『アナーキー・イン・ザ・JP』で三島由紀夫賞候補となる。

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