養鶏の工業化と揺らぐ「種の多様性」 国家間の対立続く世界のなかで(後編)
今度は自分が「自然卵養鶏法」を広めたい 祖父の本にうそはなかった
前回に続いて鶏卵の話です。 岐阜県下呂市の「のびのび養鶏場」が販売するのは「自然卵」。自家配合した発酵飼料と無農薬で耕す畑に生えた草などを与えて育てた鶏の卵です。母鶏は県内の後藤孵卵場(岐阜県各務原市)が作出した「もみじ」と呼ばれる品種で、日本国内で持続的な品種改良が可能な唯一の「国産鶏種」です。この鶏を飼育する中村建夫さん、ことりさん夫妻は、鶏本来の習性を極力阻害しない「自然卵養鶏法」に2017年から知り組んでいます。
家族経営で無理なく持続可能な鶏卵生産を豊かな自然環境のなかで続けていきたいと願う中村夫妻の自然卵養鶏。それを支える後藤孵卵場の事業に生活クラブは賛同し、提携農家とともに国産鶏種の普及に努めています。こうした生産者間の連携が鶏卵の自給への道を少しずつ切り拓きながら、中村さんのように新規就農を決めた若い世代を応援する力にもなっていることを何度でも確認したく思います。ともすれば食料にまつわる話題が価格の高低と物珍しさに偏りがちな世相ですが、その向こう側にある本質的な価値に目を向けてもらう材料の一つに今回のレポートをしていただければありがたいです。
家族経営で無理なく持続可能な鶏卵生産を豊かな自然環境のなかで続けていきたいと願う中村夫妻の自然卵養鶏。それを支える後藤孵卵場の事業に生活クラブは賛同し、提携農家とともに国産鶏種の普及に努めています。こうした生産者間の連携が鶏卵の自給への道を少しずつ切り拓きながら、中村さんのように新規就農を決めた若い世代を応援する力にもなっていることを何度でも確認したく思います。ともすれば食料にまつわる話題が価格の高低と物珍しさに偏りがちな世相ですが、その向こう側にある本質的な価値に目を向けてもらう材料の一つに今回のレポートをしていただければありがたいです。
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生まれに育ち、就職先も東京という文字通り都会っ子の建夫さんが田舎暮らしを考えた背景には心身の不調があった。そんな時、飛騨で暮らす妻の祖父が死去し、祖母から「農業をやるなら、引っ越してきてもいいよ」と声がかかった。「そのとき妊娠中だった妻に『このまま都会に住むか、田舎に引っ越すか。どっちがいい?』と聞かれ『じゃあ、思い切って引っ越そう!』となりました」と建夫さんは言う。
当時は祖父が残してくれた畑で農業をやろうと考えていた。しかし、有機農業に取り組むには土づくりだけで3年かかることを覚悟しなければならないこともあり、容易に踏み出すわけにはいかなかった。とにかく当面の暮らしを立てるために現金収入となる仕事が必要だったが、養鶏を生業(なりわい)にするとは思っていなかったという。「現金を得るために田舎でITの会社を開業してもよかったのですが、それでは都会の暮らしと変わらないなと悩みました。どうしようと考えていた時に聞いたのが、祖父が養鶏で何十年も生計を立てていたという話でした」
養鶏で生計を立てていた妻の祖父は中島正さん。自然卵を生産する農家の間では知らない人はいないと評され、日本で自然卵養鶏法を確立した人物として知られる。1920年生まれで戦後に養鶏業に参入した中島さんは、1973年に本格的に採卵業を始めた。この頃、すでに国内養鶏業者の規模拡大は進んでいたが、中島さんは化学合成薬品や抗生物質などを飼料に一切添加しない養鶏法を生涯にわたって実践した。その詳細が記されたのが、1980年に発刊された『自然卵養鶏法』(農文協)という一冊の本だ。それはたちまち自然卵の生産を目指す農家のバイブルになり、現在も読み続けられている。2024年2月までに増補版を含めて計35刷のロングセラーで、全国各地に自然卵養鶏法を広げる原動力となった。
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建夫さんは祖父とは一回しか会ったことがなく、養鶏の方法など一度も教えられたこともないという。参考にしたのは『自然卵養鶏法』に書かれていることのみ。すべてのページを必死に読み込んで、ヒヨコを育て始めた。2017年10月に養鶏を始めた時に仕入れたヒヨコは10羽。そのヒヨコが無事に育ち、卵を生むようになった。「これならできそうだ」。そう思って次は一気に200羽を仕入れた。ヒヨコが卵を生む寸前まで育った2018年の初夏、事件が起きた。すべての母鶏がキツネに殺されてしまったのだ。1年目は、ほとんど卵の収穫ができないままに終わってしまい、ゼロからスタートすることになった。五里霧中のなかで試行錯誤を重ねる日々の支えてくれたのも祖父の著書だった。
「その本に書かれている通りに手順を変えず、すべてを愚直に実践しました。それでも最初の1年は自分なりにいろいろとやり方を試してみました。エサ作りは特にいろいろとやってみたのですが、全部うまくいかなかった。結果的に本に書かれている方法が一番いいし、理にかなっている。青二才の自分が独自のやり方をしてもダメだなと思い知りました」
ちなみに『自然卵養鶏法』は鶏の育て方だけではなく、卵を売る時の心構えについても次のように触れている。
〈自然卵を売り込むのに、啓発も宣伝も説明も、あまり多くを必要としないのである〉
〈こちらはなんら売り込みの努力をしなくても、自然とお客は寄ってくるものである〉
その通りだった。現在では中村さん夫婦が育てた卵を求めて、九州や大阪からも注文がくるようになったが、建夫さんは養鶏場の規模拡大は考えていない。その代わりに、自ら経験して学んだ技術を、これから自然卵養鶏法をやりたいと思う人に惜しみなく伝え、自然卵を増やす仕事をしている。それも、祖父が実践してきたことと同じだ。
中村夫妻が飛騨に移住してから7年が経った。いまでも朝起きて自宅から山が見えることに感動するという。自然と一体となった生活は、たくさんの発見と感動を与えてくれたと建夫さん。「サラリーマンの生活は時間通りに動きますけど、それは人間が決めた24時間であって、自然の24時間とは違うものなんです。いまの生活は、寝たい時に寝て、起きたい時に起きる。日の出とともに目が覚めてきて、日が落ちると眠くなってくる。そんな当たり前の日常が送れるのが何よりうれしい」
右から中村建夫さん、ことりさん、くるみさん
撮影/越智貴雄 取材/西岡千史
撮影/越智貴雄 取材/西岡千史