いま、山下惣一さんの「声」に耳を澄ませば~パート2
チーム食卓の向こう側 佐藤弘

5月下旬、旅先で全国紙を手に取った。一面には「コメ輸出より減反 半世紀」、二面は「日本のコメ 失われた競争力」をメインに「輸出増で補助金 貿易ルール違反のリスク」「高値誘導 低い生産性 技術革新停滞」というサブ見出し。
輸出に関して言えば、サクランボなどの嗜好品は大いに結構だと思うが、主食となるとどうなのか。過去には戦略物資として補助金を使ってトウモロコシや小麦をダンピング輸出した米国によって、アフリカ諸国の生産基盤を壊した例もあった。価格にしても、昨年の〝コメ騒動〟は別として、長らく続いた茶碗1杯のコメ代29円(消費者価格1㌔400円として)という価格を高値というなら、農家は潤い、後継者不足なんて現象は起きるはずもない。そんなこんなで、農業を食料生産だけの産業としか見ていないこの記事に傾聴すべき点はなかったが、今後の展開が気になり、全5回の連載が終わるまで、この新聞を買い続けることになった。
玄界灘に面した佐賀県唐津市の半農半漁のムラで、主に米とミカンを作りながら農のありようについて発言し続けてきた農民作家の山下惣一さん(2022年没)。ワイドショーや経済誌等でよく見かけるこうした論調に対し、山下さんならなんと言うかと思い、私が聞き手を務めた『振り返れば未来~山下惣一聞き書き』(不知火書房刊)をめくると、あつらえたような一文があった。
〈土地集積と技術革新によって低コストで生産ができれば、コメでさえ輸出できるという主張がある。私に言わせたら、安ければ輸出できるという発想自体が、まずもって幼稚。日米貿易摩擦がなぜ起きたのか。国内のコメがこれだけ余って百姓たちが困っているというのに、なぜわが国はミニマムアクセス(最低輸入量)で、無理やり海外のコメを輸入させられているのか。その背景を考えりゃ、仮に安くコメが生産できたとしても、輸出がホントに可能かどうか、すぐに分からぬものか。
そもそも低コストで生産すればなんとかなるのなら、輸出国に農業不況はないはず。むしろ自国の余剰農産物のはけ口として輸出を行い、相手国の食料自給政策を破壊してしまうような農業のありようこそが問題だ。長年に渡って米国の余剰小麦を押しつけられたことにより、すっかり食生活が変わってしまったアジアの極東にある某国のように。
かつて国内の生産者の中にも「安けりゃ売れる。世界に伍して戦える」と、本気で言っている人がいた。「俺たちは米価が1俵(60㌔)8千円でもやっていける」とか、「工業で世界一になった日本が農業で世界一になれないはずはない。米国が飛行機で種を播まくのなら、こっちはロボットでやる」とか。
確かにわが国においても、都市近郊の兼業地帯で、1人の農家が数十㌶もの水田を請け負う形式が成り立つような特殊な地域なら、ある程度までコストを下げることは可能だろう。でも、そんなところはあくまで全体の中のごく一部。それを前面に出して、「これが未来の日本農業の姿だ!」なんてやられると、「お前らアホか!」と言いたくなる。

新版「食卓の向こう側」コミック編より
為替相場が変動するとか、燃料代が上がるとか、輸入で価格がさらに下がるとかして再生産価格を割り込む事態に陥り、収支が一転してマイナスになれば、経営規模が大きければ大きいほど赤字が膨む。真っ先に倒産するのは、そんな経営をしている人たちの方だ。
コメ、麦の大規模耕作が有利なのは、食管制度(食糧管理制度)のような、「国家によって価格が保証されているものを、人より安く生産して売れる」制度があるとき。その価格は、零細な百姓が再生産できるギリギリの線で設定されるが、それは多数の零細な百姓がいるから、その米価や麦価になったのであって、その恩恵を一番受けるのは大規模農家の方。「小」が防波堤となって「大」が守られていることに、彼ら自身が気づいていない〉
〈株式会社の農業参入もいかがなものか。どうも国はそれを進めたくて仕方ないようだが、これはあくまで部分的、限定的と考えるべき。農林業の本体ともいうべき、全国の農山村で家族農業が担っているものを、株式会社がそっくり肩代わりするという話ではないからだ。
株式会社は株主のもの。赤字になれば、もうそこで終わり。儲からなくなったらや~めた、でいいのか。そのあとはどうするんだ?。意外かもしれないが、世界の農業の主流は家族農業。人々が代々そこに住んで農業を続けるからこそ、足元の環境を大切にし、土も肥沃になって文化も守られてきたのだ〉
〈「日本農業」なんていう生産現場はない。それはあくまで統計上のトータルとしての数字なのに、それをベースに政策を組み立てるから、気候風土や地形、地域からも乖離した政策ができあがる。
今日における農業問題の本質は、「本体」をどうやって維持、存続させていくかということ。農業は地域性が強いから、一般論は通用しない。実際に農業をやったこともない、現場を知りもしない人々が、いかにも訳知り顔に農を論じ、それが事実、真実としてまかり通る現状—。私はこれに我慢がならない〉
為替相場が変動するとか、燃料代が上がるとか、輸入で価格がさらに下がるとかして再生産価格を割り込む事態に陥り、収支が一転してマイナスになれば、経営規模が大きければ大きいほど赤字が膨む。真っ先に倒産するのは、そんな経営をしている人たちの方だ。
コメ、麦の大規模耕作が有利なのは、食管制度(食糧管理制度)のような、「国家によって価格が保証されているものを、人より安く生産して売れる」制度があるとき。その価格は、零細な百姓が再生産できるギリギリの線で設定されるが、それは多数の零細な百姓がいるから、その米価や麦価になったのであって、その恩恵を一番受けるのは大規模農家の方。「小」が防波堤となって「大」が守られていることに、彼ら自身が気づいていない〉
〈株式会社の農業参入もいかがなものか。どうも国はそれを進めたくて仕方ないようだが、これはあくまで部分的、限定的と考えるべき。農林業の本体ともいうべき、全国の農山村で家族農業が担っているものを、株式会社がそっくり肩代わりするという話ではないからだ。
株式会社は株主のもの。赤字になれば、もうそこで終わり。儲からなくなったらや~めた、でいいのか。そのあとはどうするんだ?。意外かもしれないが、世界の農業の主流は家族農業。人々が代々そこに住んで農業を続けるからこそ、足元の環境を大切にし、土も肥沃になって文化も守られてきたのだ〉
〈「日本農業」なんていう生産現場はない。それはあくまで統計上のトータルとしての数字なのに、それをベースに政策を組み立てるから、気候風土や地形、地域からも乖離した政策ができあがる。
今日における農業問題の本質は、「本体」をどうやって維持、存続させていくかということ。農業は地域性が強いから、一般論は通用しない。実際に農業をやったこともない、現場を知りもしない人々が、いかにも訳知り顔に農を論じ、それが事実、真実としてまかり通る現状—。私はこれに我慢がならない〉

新版「食卓の向こう側」コミック編より
私は思う。石油など、国内でほとんど賄えないモノは輸入せざるをえないが、命をつなぐ食べものだけは、できるだけ安定的に自給できる態勢を整えておかねばならぬ、と。食料に関して不足の事態が生じた際、自国民にひもじい思いをさせても、よその国に食料を回してやる国なんてあるはずもないからだ。
その態勢とは、安心安全な食べものを育む農地や海の環境であり、そこで働く人々の暮らしの安定である。求められるのは「作物を育てるは1年、人を育つるは百年」という時間軸の長い考え方ではないか。
圧倒的な貿易黒字を背景に、「農業も技術革新してコストを下げろ」「市場を開放し、安い農産物を輸入せよ」「日本の農家は過保護だ」などといった「農業叩き」の声が湧き上がったのは、1980年代のこと。そのとき、経済学者の大内力氏は語ったこの言葉を、本稿の締めとしたい。
「農業を自由化すれば、工業のように国際競争力ができるという安易な考え方は、経済学の初歩的な理解を欠いている。為替相場を使って食糧価格を比較するよりは、日本人の生活にとって本当に食糧が高いのかどうかを議論すべきだ。ジャーナリズムの調子にも問題がある。国民の多くがより賢明にならなければ、国内の農業維持は難しい」
私は思う。石油など、国内でほとんど賄えないモノは輸入せざるをえないが、命をつなぐ食べものだけは、できるだけ安定的に自給できる態勢を整えておかねばならぬ、と。食料に関して不足の事態が生じた際、自国民にひもじい思いをさせても、よその国に食料を回してやる国なんてあるはずもないからだ。
その態勢とは、安心安全な食べものを育む農地や海の環境であり、そこで働く人々の暮らしの安定である。求められるのは「作物を育てるは1年、人を育つるは百年」という時間軸の長い考え方ではないか。
圧倒的な貿易黒字を背景に、「農業も技術革新してコストを下げろ」「市場を開放し、安い農産物を輸入せよ」「日本の農家は過保護だ」などといった「農業叩き」の声が湧き上がったのは、1980年代のこと。そのとき、経済学者の大内力氏は語ったこの言葉を、本稿の締めとしたい。
「農業を自由化すれば、工業のように国際競争力ができるという安易な考え方は、経済学の初歩的な理解を欠いている。為替相場を使って食糧価格を比較するよりは、日本人の生活にとって本当に食糧が高いのかどうかを議論すべきだ。ジャーナリズムの調子にも問題がある。国民の多くがより賢明にならなければ、国内の農業維持は難しい」

さとう・ひろし
1961年生まれ。福岡市出身。中学時代、有吉佐和子の「複合汚染」を読み、ふるさとの野山がおかされていくわけを知る。百姓を志し、東京農大農業拓殖学科に進学するも、深遠なる「農」の世界に触れ、実践者となることを断念。側面から支援する側に回ろうと西日本新聞社に入社。2003年から食を通じて、社会のありようを考える「食卓の向こう側」の企画、取材にあたった。2022年、同社を退社。23年、「振り返れば未来~山下惣一聞き書き」で2度目の農業ジャーナリスト賞を受賞。
1961年生まれ。福岡市出身。中学時代、有吉佐和子の「複合汚染」を読み、ふるさとの野山がおかされていくわけを知る。百姓を志し、東京農大農業拓殖学科に進学するも、深遠なる「農」の世界に触れ、実践者となることを断念。側面から支援する側に回ろうと西日本新聞社に入社。2003年から食を通じて、社会のありようを考える「食卓の向こう側」の企画、取材にあたった。2022年、同社を退社。23年、「振り返れば未来~山下惣一聞き書き」で2度目の農業ジャーナリスト賞を受賞。

山上惣一なる人物が登場し、新聞記者と意見を交わす「食卓の向こう側コミック編
~半歩先宣言」(不知火書房)

自らを「百姓」と呼び、「農魂」について語った ――農民作家・山下惣一さんの願い――
幾たびもかけてもらった言葉をとつおいつ、はたと思い起こしては心のなかでコロコロと転がしてみる。それは温くてやさしく、ときには厳しいものであったが、いずれもいまなお強く響いて反響し、深い光沢を帯びて光を放ち続けている。
「日本農業」と人は言う。しかし、かの人は「はて、そんなものはあろうか」と低く静かにつぶやくと、その土地・土地に適地適作があり、気候に地形に大地と水の「性(しょう)」も異なるのが当たり前で、まさに「フードは風土なり」と人なつっこい笑みを浮かべてそう言った。。
また、あるときは感慨深げに、微かに寂しさを感じさせる口調で「自分は農の世界の価値については語れても、業(商売・ビジネス)を旨とする農業について語る資格がない。なぜなら、一度も成功したことがないからだ」とつぶやくように語った。農は「回し」であり、自然との根競べの生業(なりわい)で、その最たる目的は吾がいのち、家族のいのち、親類縁者の「いのち」をつなぐ力を育むものだが、それを業とするとなると事は一変するという。
回しとは田のみならず畑も、家畜も山林(ヤマ)も暮らしの糧を得るための労働の場とする「複合経営」を指し、その主たる担い手は家族であるとねかの人は言う。そんな「自作・自治」の領域を離れ、生きること・暮らすことよりも専(もっぱ)ら「富」の追求に向かって進まなければならない「業」の世界に身を置けば、より広い農地を保有しなければならず、肥料に農薬、高価な機械も買い求めなければならなくなる。そのとき費やした資金が回収でき、安定した経営が持続できる実入りがあれば有り難いが「豊作の喜びは束の間。売るときは決まって失意に苛まれる。それでも失せずたゆまず、またタネをまき、苗を植えるのは、そこに生命を育む自然と共にある吾を見るからだろう」と、かの人は静かに笑った。
「東京で暮らす人からは見えないだろうと思うが……」として、田はもちろん畑も畜産も「単一経営は文字通り命取りになりかねない。いまや鶏に豚、牛の飼育も生産効率至上の装置産業だ。大量生産・大量消費の売値安では借金地獄は避けられない。おまけに生産規模が何十倍も違う輸入品との低価格競争も付いて回る。この街でも借金返済の重さから自ら命を断つケースが増えてきた。こうすれば儲かる、必ずうまくいくと第三者は言うが、哀しいかな永遠においでおいでの世界というしかない」と声を落として、かの人は唇を噛みしめた。
「日本農業」と人は言う。しかし、かの人は「はて、そんなものはあろうか」と低く静かにつぶやくと、その土地・土地に適地適作があり、気候に地形に大地と水の「性(しょう)」も異なるのが当たり前で、まさに「フードは風土なり」と人なつっこい笑みを浮かべてそう言った。。
また、あるときは感慨深げに、微かに寂しさを感じさせる口調で「自分は農の世界の価値については語れても、業(商売・ビジネス)を旨とする農業について語る資格がない。なぜなら、一度も成功したことがないからだ」とつぶやくように語った。農は「回し」であり、自然との根競べの生業(なりわい)で、その最たる目的は吾がいのち、家族のいのち、親類縁者の「いのち」をつなぐ力を育むものだが、それを業とするとなると事は一変するという。
回しとは田のみならず畑も、家畜も山林(ヤマ)も暮らしの糧を得るための労働の場とする「複合経営」を指し、その主たる担い手は家族であるとねかの人は言う。そんな「自作・自治」の領域を離れ、生きること・暮らすことよりも専(もっぱ)ら「富」の追求に向かって進まなければならない「業」の世界に身を置けば、より広い農地を保有しなければならず、肥料に農薬、高価な機械も買い求めなければならなくなる。そのとき費やした資金が回収でき、安定した経営が持続できる実入りがあれば有り難いが「豊作の喜びは束の間。売るときは決まって失意に苛まれる。それでも失せずたゆまず、またタネをまき、苗を植えるのは、そこに生命を育む自然と共にある吾を見るからだろう」と、かの人は静かに笑った。
「東京で暮らす人からは見えないだろうと思うが……」として、田はもちろん畑も畜産も「単一経営は文字通り命取りになりかねない。いまや鶏に豚、牛の飼育も生産効率至上の装置産業だ。大量生産・大量消費の売値安では借金地獄は避けられない。おまけに生産規模が何十倍も違う輸入品との低価格競争も付いて回る。この街でも借金返済の重さから自ら命を断つケースが増えてきた。こうすれば儲かる、必ずうまくいくと第三者は言うが、哀しいかな永遠においでおいでの世界というしかない」と声を落として、かの人は唇を噛みしめた。

この間のコメをめぐる一連の「騒動」をかの人はどう見ているだろうか。かの岸で「だから、農業問題はすなわち消費者の問題とあれほど言ったのに」と嘆息しているだろうか。それとも「やれ大規模化だ、企業化だ、AI(人工知能)活用で省力化で生産性向上の成長産業化だというけれど、そんなに美味しい話があるのかね。これまた『おいで、おいで』のいつか来た道ではなかろうか」とハラハラ気をもんでいるだろうか。
かの人は「百姓」と胸を張って自称した。百の姓(がばね=技能)を持つからこそ、田畑に山林(ヤマ)も畜産も酪農もやれる人。自然と共にあり、その恵みを得るための労働に打ち込むことを厭わず、自らと吾が家族の「いのちの糧」を得て、この日本で暮らす同胞(はらから)たちに糧を届けることへの誇りを「農魂」と呼ぶのだと、かの人は説いた。その名は山下惣一という。日本で唯一の農民作家にして、小農の価値、家族農業の集積体としての「産地」が培う固有の暮らしから生まれるコミュニティ(村)の大切さを軽妙かつユーモラスで分かりやすい言葉に換えて社会に発信し続けた人が逝って2026年7月10日で4年が過ぎようとしている。
残念ながら、いまなお日本の「食」の産地の疲弊は解消されず、「東京一極集中」と「首都圏」の繁栄はいや増すばかりの勢いを呈し続けている。フランス・パリの市民の多くは、自分たちが生きていくための糧を持続的に提供し続けている周縁部の農村地域への感謝の念を抱いていると聞く。だから、政府の農政転換に抗議する農民が高速道路を封鎖するという「対抗策」に打って出ても、それは「彼らの当然の権利だから」と静かに心を寄せるという。
ここに農業問題はすなわち消費者問題であると明言した山下惣一さんの農魂を見る。その心を継承しなければなるまい。ならばひとりの消費者として自分を顧みつつ、ささやかでも為しうること、できることを探し続けていくしかないと思うばかりだ。
生活クラブ連合会 山田衛

撮影/魚本勝之
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