「等身大の技術」の心地よさ(1)小野田製油を訪ねて【小野田隆昭さん】
この10年、地方紙記者として日本の「食」のありようを検証してきた水城さん。
今回は生活クラブの「ごま油」と「なたね油」の生産現場を訪ねた。
ブラックボックス社会で
たいていのことは、その本質を知れば、安心を得られる。だから社会は「情報公開」を求めるのだが、知れば知るほど、あるいは関係者が安心を強調すればするほど、逆に不安をかき立てられるのが、今回の原子力にまつわる話である。
事故が起きても、すべては機械頼り。ブラックボックス化が進む社会で、ヒトの五感で確認できないものに支配される恐怖。それは伝統的な交配による品種改良技術と、神の領域にあるともいえる遺伝子を人為的に操作する遺伝子組み換え技術に見られる、テクノロジーの在り方に対する本質的な違いのようでもある。
そんな中、極めて原理的なやり方で、私たちがふだん使いする植物油をこしらえる2つのメーカーを訪ねた。共通していたのは、原料のにおいをかぎながら、その味をなめ、すべての工程をこの目で見て確かめられる「等身大の技術」の心地よさであった。
小野田製油を訪ねて
東京都新宿区上落合3丁目16番、広い通りに面した住宅地の一角にある小野田製油所(小野田)。鳥よけの網戸を開け、ゴマをいるためのまきを炊くかまどの熱気と、香ばしいゴマのにおいが漂う工場に入る。汗の染みた作業服で動き回る職人たちと、年季の入った装置の数々はまさに「昭和」の光景。その象徴が、いって、押しつぶして蒸したゴマを、御影石の玉で圧搾して油を取る玉締め機。社長の小野田隆昭さんによると、日本に現存する40台のうち、11台がこの工場にあるという。
職人が蒸しゴマを玉締め機にセットした。圧搾が始まるや否や、たら~りと黄金色の液体が垂れてきた。
「なめてみてください」。小野田さんに促され、その滴りを指につけて口に含むと、ゴマの風味が鼻に抜ける。濃い、それでいてくどくない、極めて上品な味だ。
「油は30分かけて搾りますが、最初の5分間に出る『金目』(きんくち)という油が一番おいしいんです」
なぜ都会の真ん中で
一般的なオートメーションエ場の場合、重油やガスを使い、原料のゴマを約700度の高温で短時間いる。一方、小野田では人が火加減を見ながら、まきをかまどにくべ、200~300度程度の温度でゆっくりいるから、焦げ付きや成分の変成もなく、ゴマ本来の風味を保つことができるという。
油は一昼夜寝かしたあと、木綿の布でこし、さらに特別発注した和紙でつくった自家製フィルターでこしたものを缶に詰めて出来上がり。その芸術品のような液体を見ていると、無性にてんぷらが食べたくなった。
今では国産のゴマは手に入らず、パラグアイなど中南米産を使う。むろん、工程では薬剤を一切使わず、素材を最も生かす搾り方だから、品質の高い油ができる。とはいえ、東京のど真ん中に輸入原料を使って、こんな搾り方をする工場の存在意義はどこにあるのか。
こう思った。
いつの日か、国内にゴマをつくる生産者が現れたとしよう。だが、小野田のような伝統的な搾りの技が途絶えていたら、未来の人々はブラックボックスの中を通ったゴマ油しか口にすることができなくなるはずだ。
こんなに分かりやすい、「無形文化財」級の技が、日本で最も多くの人が住む地域に残り、連綿と受け継がれている。それは消費材という形で、組合員が評価し、食べ支えているからにほかならない。あらためて生協の役割を感じた。
「うちは江戸の昔から油屋だった。この周囲でとれたナタネやゴマを搾って暮らしてきた。変わったのはうちじゃない。周りが変わっただけ。周りが変わったのだから、お前も変われといわれるのは心外だね」
そんな小野田昭さんの言葉を聞いたのは24年前。新宿区上落合にある小野田製油所を初めて訪ねたときだった。バブル経済の時代である。東京の住宅地や商業地が前年比176%の水準で高騰を続けていた。いわゆる“地上げ屋”と呼ばれる業者をはじめ、銀行関係者が小野田製油所にも連日のようにやってきた。「工場を丸ごと他の場所に移せばいい」「マンションにすれば確実にもうかる」と異口同音に誘われても、小野田さんは「この土地を離れて油を搾る気は一切ない」と突っぱねた。
まきをくべ、微妙な火加減を調整しつつ、かまどでゴマをいることも、御影石で油を搾る玉締めにしても、「古さを売りにした商行為ではないか」と陰口をたたく者も少なくなかった。近隣からは「ゴマをいるにおいが気になる。何とかできないか」と苦情を受けたこともある。それでも新宿区上落合でゴマ油を搾り続ける理由を「家業とはそういうもの。それに今の方法以外に小野田の金口(きんくち)をつくることはできない」と小野田さんは言い切った。
当時、すでに絶滅危惧の状況にあった玉締め法による食用油の生産量はもはや政府の産業統計から姿を消した。「まだ完全に消失したわけではない。西日本には玉締め機とこれを使いこなす技術が今も残っている。
「小野田だけでなく、彼らの油にも利用を集めていくことが大切。1人がたくさんではなく、おおぜいが少しすつでいい。そうして使い手もつくり手も増やしていく。その姿勢を生活クラブに忘れてもらいたくないね」
昨年6月、小野田さんは故人となった。しかし、長男で社長の隆昭さんに案内してもらった工場には、今も昭さんの精神が息づいていた。(本誌・山田 衛)
『生活と自治』2011年9月号の記事を転載しました。