被災体験忘れず、地域の光に 復興目指して一歩ずつ【高橋徳治商店】
東日本大震災の津波で、3工場のうち2工場がほぼ全壊した宮城県石巻市の高橋徳治商店では、かろうじて社屋だけが残った本社工場で操業を再開。今年6月からは石巻市に隣接する東松島市の新工場が稼動した。
1ラインが動いたことに感謝
今年7月5日の落成記念式典から約1ヵ月後の8月上旬、高橋徳治商店の東松島新工場では、稼動を始めた唯一の製造ラインを使って「ソフトはんぺん」が製造されていた。原材料は国産のスケソウダラとヨシキリザメのすり身、それにヤマイモ、卵白、調味料。国産原料を使用し、添加物を一切使わない練り製品は、同社の企業理念を物語る。
練り工程、蒸し工程などのラインで立ち働く従業員は、若手男性にやや年配の女性たち。製造ラインと別室のこん包室では、おおぜいの従業員が「おとうふ揚げ」の荷造り作業に追われていた。
大震災から約2年5ヵ月。たとえ一部の製造ラインでも、同社の新工場が動き出し、黙々と仕事に打ち込む従業員の姿がいま眼前にあるのがにわかには信じられない。震災直後の同社の惨状を知る者ならなおさらだろう。
むろん、工場用地の取得から操業開始までの道のりは平たんではなかった。用地取得に時間がかかり、建設工事も資材や労働力不足などの理由から大幅に遅れ、同社社長の高橋英雄さんが業者を叱ることもしばしばだったという。新工場での操業にこぎつけてからも、機械のトラブルなどで取引先への納品が遅れたこともあった。
「新工場は稼働しましたが機械の調整が続いています。おまけに熟練した職人の確保がむずかしく、落成記念式典で『地域の光になるんだ』と誓った従業員のパワーが落ちているようにも感じられました。そんなことが重なり、式典後は気が抜けたようになってしまいました」と高橋さんは言う。
やんわりいさめられたように感じたのは、訪ねてきてくれた学生時代の先輩が重ねて強調した「落成記念式典は良かった」という激励が込められたひと言だった。
その言葉の奥には、乗り越えられないこともあるだろうが、たった1ラインでも動いたことにどれくらい感謝しているのだろうかという問いかけと、新工場が落成したことの重さを素直に喜び、それをかみしめればいいのではないかというメッセージが込められていることに気づいたという。
一人でつぶれそうなときも
高橋徳治商店の創業は1905年。石巻市内では老舗の水産加工会社で高橋さんは3代目の社長にあたる。
学校給食関係者との出会いを契機に食品添加物を使わない製品開発を始め、80年代に生活クラブをはじめとする各地の生協などとの取引を拡大、91年に石巻市に本社工場を完成させた。
その本社工場をはじめとする3ヵ所の工場を大津波が襲ったのは2011年3月11日の夕刻だった。従業員全員の無事は確認できたが、自宅も津波の被害を受け、避難所での生活を強いられた。
被災から数日後、本社工場に立ち入ったときの胸中を高橋さんは「何も考えられずに、もう立ち上がれないと思った」と語る。絶望のふちに追い込まれた。
震災後に東京の会社を辞め、郷里と家業の復旧の力になりたいと帰郷した次男の敏容(としやす)さんは「5月ごろだったでしょうか、本社工場を見つめながらボーッと立ち尽くしている父親の姿を目にしました」と思い起こす。
3月末には、75人いた従業員全員を解雇せざるを得なかった。震災直後、高橋さんは復旧、復興するかどうか相当に悩んでいたようだったという。
被害総額23億円。復旧、復興を進めるには新たな借り入れが必至で、「一人でつぶれそうなときもあった」と高橋さんは当時の心境を語る。
「もしかしたら」の気持ちに
それでも、被災から7ヵ月後の10月には生活クラブの「おとうふ揚げ」の製造が本社工場で再開された。この火入れ式が行われた当日、高橋さんは70人ほどの参加者を前に、力を込めてこう宣言した。
「ここまで来たなんて信じられません、皆さんが『一生懸命がんばって』という小さな火をともしてくれた結果です。ここから始めます」
事業再開に向け、背中を押してくれたのは生活クラブの組合員や職員によるボランティア活動や、物資とカンパによる支援の存在だったという。
「復旧、復興はある日突然、ポンと決めたわけではありません。いくつもの要素が重なり合いましたが、みなさんが支援に駆けつけてくれたことが大きかったです。これほどまで支援していただけるとは想定していませんでした。なので『なんでこんなに来てくれるのか』と思ったほどです。また、震災直後に支援物資を避難所まで届けてくれた山形県遊佐(ゆざ)町のみなさんには、本当に命を救われました
多くの人の『諦めずに続けてほしい』との思いを感じ取りました。だから、続けなければという使命感が芽生えて、色のなくなった心に、『もしかしたらできるかも』という気持ちが湧いてきたのです」
復旧の光すら見えないなかで、本社工場のがれきや泥出し、製造機械の洗浄などに駆けつけた人は延べ1200人。物資やカンパ提供者も400人以上に上った。
亡くなった人たちの思いを
東松島工場落成時の従業員数は39人で、7ラインのうち2ラインが稼動している。(今年8月末現在)。震災前は100種類ほどあった練り製品の生産能力は2割ほどしかないのが実状だ。
津波で壊滅した石巻漁港は地盤沈下した土地のかさ上げが終わり、仮施設での競りが行われている。「石巻でとれた魚も利用」は高橋徳治商店のモットーであり、そうしたいのは山々だが福島第一原発事故の影響を考慮すると、なかなか展望は開けない。
新工場の製造ラインがフル稼働するのは14年冬と見込まれるが、いまも課題は山積している。それでも高橋さんは自ら目撃した「3・11」の惨状はもとより、後に知ることになった津波に命を奪われた人たちの最後の姿を胸に秘め、決意を新たにする。
「生き残った私たちは、生きる望みを背負わされたのかもしれません。支援してくれるみなさんには復旧、復興してほしいという願いを託されたと思っています。事業も単に食べていくためだけではなかったはず。それをあらためて認識し、地域の光にならなければと思っています」
◆「復興」支えた多くの力
高橋徳治商店は復興に向け、宮城県石巻市に隣接する東松廃市に新工場を建設した。鉄筋平屋で床面積は約3300平方メートル。工場内に設置されている製造機械は石巻市の旧工場で使われていたものが再利用されている。これを可能にしたのは生活クラブグループの存在だった。
【よみがえった機械】
塩水をふくんだ泥にまみれた機械は洗浄しなければ使えない。震災直後、工場のある地域は地盤沈下の影響で満潮時には浸水するような状態だった。水道も復旧していないため、機械を洗浄して保全するには緊急にほかへ移す必要があった。そこで、被災から約1ヵ月後の4月19日、生活クラブの発案で生活クラブ岩手の水沢センターヘの機械の運び出しが実現した。
当日の搬送に使う4トントラックは生活クラブの関連会社である太陽食品販売が手配、人も派遣した。その日のうちに22台ある機械をほば運び出したが問題は機械の洗浄だった。
汚れは当初考えていたほど簡単には落ちず多くの人手を必要とした。そこで生活クラブ岩手では組合員にこう呼びかけた。「生活クラブ岩手の組合員のみなさん、特に水沢など県南の方たちにお願いがあります。重油がたっぷりと混ごった津波で汚れた機械です。これは高圧洗浄機の水圧だけではきれいになりません。やはりせっけんとたわしでこすらなければなりません。少人数でもできる作業ですし、急ぎません。1カ月かけても大丈夫です。ぜひ洗浄作業へのこ協力をお願いします」
呼びかけに応じたのは生活クラブクルーブの延べ200人以上もの組合員や職員だった。
【支援を刻むモニュメント】
東松島工場の施設は環境に配慮し、発光ダイオート照明や太陽光発電装置などを設置している。また、井戸水を活用した冷暖房システムも導入。工場内は包装室の床を抗菌仕様にするなど衛生管理を徹底し随所に原料の鮮度を落とさない工夫が凝らされている。社長の高橋英雄さんをはじめ、従業員の思いが詰まったモニュメントもある。正面入りの手前にある高さ約80センチ、横幅約10メートル。表から読み取れるのは会社のメッセージだけだが、裏には高橋徳治商店の復旧、復興にさまざまに尽力したおよそ1500人の名前が刻まれている。
「来客される方は裏に回らなければわかりませんが、工場内の私が座っている位置からよく見えるし従業員も同じ。さまざまな形で支援してくださった人たちをいつも思い起こすため、忘れないためです」(高橋さん)
『生活と自治』2013年10月号の記事を転載しました。