おやじの農業、僕らの農業─「FU」という財産をありがとう(若手後継者対談)
ともに就農14年目、35歳になった鳥越耕輔さんと佐藤大輔さん。鳥越さんは生活クラブにセロリなどを出荷する「鳥越農園ネットワーク」の副代表を務め、佐藤さんは生活クラブが共同購入するコマツナなどを生産する「やさか共同農場」代表に2年前に就任。2人は西日本の生産者による「西日本ファーマーズ・ユニオン(FU)」に集う。
──まずは近況をお聞かせください。
佐藤 僕が2014年4月に代表になった島根県浜田市の「やさか共同農場」には、就農希望の若者がやってきます。そのうち2人が当農場から地域の集落に出て自立しました。ともに島根県外出身の人で当農場での2年間の農業研修を終えて独立しました。
現在はハウスで葉物野菜を栽培しており、一人は結婚しています。研修期間中は僕の父で当農場前代表が中心となり、地元農家との関係づくりに力を注ぎ、ようやく「共同農場お墨付きの若い子たちだったら、うちの集落で面倒見てやろう」という言葉を頂戴できるようになりました。
今回独立した新規就農者は「シンクロミズナコマツナ」という日本固有の在来種を中心とするコマツナを生活クラブに今年から出荷しています。その初回申し込みの際の利用点数が半端じゃなく、正直すごく驚きました。1束250グラム規格のコマツナが月1万2千束。本当に並外れた購買力の集中というしかありません。僕たちの力だけでは、到底達成できない販売量だと思いましたね。
──鳥越さんは、いまの話についてどう思われますか。
鳥越 僕は福岡県赤村の「鳥越農園ネットワーク」の副代表になって3年目です。私たちの農園からも新規就農者1人が初めて独立しました。やはり、一番のネックは販売先の確保です。それができないと新規就農したばかりの農家は経営が維持できんのです。その人たちには生活の糧を得るための頼れる味方として当農場を使ってほしい、そうならんといけんと思って頑張っています。
僕が生活クラブの購買力結集のすごさに初めて驚かされたのは10年前です。当時、地元の生協向けに出していた1パック200グラム規格のセロリの出荷量は1日150から200パックでした。それが生活クラブからは1000パックのオーダー(申し込み)が来たのです。現在では少し下がっていますが、それでも1日に500から600パックの水準を維持していただいています。
「安全・安心」の裏付けとは
──化学合成農薬や化学肥料の使用を抑え、新鮮で、リーズナブルな価格の野菜が食べたいという消費者のニーズについての思いは?
鳥越 僕らの農場では30年以上前から無農薬あるいは減農薬、かつ有機肥料を使った土づくりに取り組んできました。常に納品先からは「お宅のセロリは安心して食べられるの?」「どうして安全といえるの?」と聞かれます。そんなとき、「うそは一切ありません。誠心誠意やっています」と答えますが、それではなかなか共感してもらえませんし、言葉だけでは許容してもらえない状況もあり、僕たちは「有機日本農林規格(JAS)」認証取得に努めています。
これにはお金がかかりますし、大量の書類を毎年用意しなければいけません。そんなことをする暇があったら農家は畑を歩いて作物の状態に気を配るのが最も大事な仕事。ですが、当農場の野菜の品質の確かさをアピールするには、目下のところは有機JASマークを活用するしかないのです。
佐藤 僕は「有機JAS基準ぐらいは簡単にクリアしてやろう」と農場のメンバーには常々言っています。前代表は農薬や化学肥料の使用の有無で商品としての付加価値を追求する「差別化」に本質的な意味があるとは考えません。
「なぜ、農薬を使うのか、農薬を使わないのかは、自己と他者の命の重さをおもんばかり、いかに生きるかの問いにつながる問題。そう捉えて個々人で考え抜いてみなさい」と説いてやみません。
有機JASの書類作成は確かに負担です。しかし、あの生産履歴確認システムを自ら進んで日常の畑仕事に生かしてやろうという気概があれば、認可申請書類作成のために用意したデータは役立つものになるはずです。
それに僕らの農場がある過疎山間地、中山間地よりもさらに厳しい山間地における農業の持続性を考えても、有機JASという差別化が必要なのです。しかし、鳥越さんもそうですが、有機JAS認証を受けている農家は、だれもが矛盾を感じ不満を抱えていますよ。
──矛盾と不満ですか?
佐藤 安いですよね。
鳥越 そうそう、安い。明らかに安いです。たとえば道の駅みたいなところで、作物を売るじゃないですか。そこに有機JAS認証品目を置くわけですが、小売価格は慣行栽培のものと同じ100円です。これじゃあ、とてもやっていけないという思いにとらわれる実に悔しい話です。
農水省は有機JASの普及を促進しているといいますが、CMもしていなければ消費者に認知もされていないじゃないですか。マークの存在すら知らないのが当たり前の現実に本当に打ちのめされたりもします。他生協の組合員学習会などで話しますが、問われているのは人の価値観でしょう。極端な話、高級ブランド品の財布やかばんを3万円も4万円も出して買いあさる人がいる一万、有機JASの青果物が20円、30円高かったら不満や文句が出ます。
「医は食に 食は農に学べ」
鳥越 「食」いうものが本来持っている価値観が社会的に共有されていないと痛感します。おかしいですよ。そのおかしさ自体わかってないじゃないですか。かつて僕もわかってなかった。まったくわかってなかったんですが。
──いつわかったのですか。
鳥越 恥ずかしながら最近です。自分が「食」の生産現場に身を置き、食べものを育てていることに、ここ3、4年でプライドを持てるようになりました。自分が育てた作物に自信が少し持てるようになったといってもいいでしょう。
「3年もすればわかる」「3年すればある程度はできるようになる」と言う人もいますが、できないですよ。3年といったって、たった3回しか作物を育てていないわけで、最低でも10年は必要だと思っています。
──鳥越さん宅は代々農家ですよね。
鳥越 僕のじいちやんが菊を栽培していて、おやじが跡を継ぎました。当時、うちの村は菊の一大産地でしたが、花の栽培って、農薬を無茶苦茶に散布します。これが原因なのか、おやじが頭痛に悩んでいたころ、僕が生まれました。
赤ん坊の僕を畑に連れて行ったら畑の土を目に入れようとしたらしいんです。これを機におやじは「子どもの口には入れられない土を作るような農業が本当に農業といえるのか?」という強い疑問を覚え、自問自答したそうです。そのとき熊本県菊池市の菊池養生園医師の竹熊宣孝さんの「医は食に、食は農に学べ」という考えから、病気を食べもので治す医療に関心を待ち、農薬と化学肥料を多用する農業との決別を決めたそうです。
僕がもっと勉強したいと思ったのは「副代表、畑の野菜を丹念に見たことありますか」と、ある研修生から問いかけられ、まともな答えが返せない自分を恥じたからです。その研修生は畑の野菜を毎日見れば「違いがわかる」と断言します。「僕にはわからん」と返答すると「それでよく野菜を作っていると言えますね」と叱られました。頭に来て、それからは畑に毎朝行くようになったのですが、最初はまったくわからなかった、違いも何もわからなかったのです。
その後は本で情報収集し、実際に試すという実践を繰り返しているうちに、先の研修生がいわんとしていたことが何となくわかり始めたのです。とてもおやじには聞けないですよ。教えを請うのが悔しいから聞きたくもありませんでした。
そんな僕を黙って見ていたおやじが農家のネットワークを作ってくれたのです。この人間関係をフル活用して熊本の農家を訪ね、ほかの農家にも多くを学ばせてもらいながら、自分の技術にしていったのです。
反骨精神と理論武装のススメ
佐藤 僕らの農場の前代表は常に「俺の考案したやり方が一番正しい」と言い切ります。
「なぜなら俺は一番誰よりもいろんな角度から研究し尽くし、たとえ権威ある本に書いてあった内容でも試してみて得心がいく十分な結果が得られなければ認めない」との姿勢を一貫し、これを「理論武装」と呼んでいます。「とにかく理論武装して日々の畑仕事や農産加工に取り組みなさい。そこまで君らが努力をして俺の方法より自分たちの方が正しいと証明してみなさい」と提案します。
僕は前代表のメモを盗み見るし、どんな本を読んでいるかも盗み見ます。そうしながら前代表より多い収量を必ずあげたいと試行錯誤を繰り返しています。残念ながら目下のところは打ち負かすことはできません。本当に手ごわいライバルですわ。
鳥越 うちのおやじの原動力は反骨精神。30年前、化学合成農薬・化学肥料の低減・不使用を宣言して地域社会からはじかれ、へそ曲がりの変わり者扱いされましたからね。
化学合成農薬と化学肥料多用が当たり前の時代で、しかも菊でもうかっていたときです。そんなときに無農薬の野菜栽培をはじめたのですから「いまに見とけよ」の反骨精神がないわけがありません。当時、おやじを笑いものにしていた人たちには、いまも後継者はいません。
──その反骨精神を継承されたようですね。
鳥越 高校卒業後、おやじの許しを得て僕はプロボクシングの世界に入りました。「絶対にボクシングで金をもうけ、その道で生きていく」と周囲に大層な見栄を張って大阪に出ました。2年ぐらい芽が出ない期間は正直きつくて、「やめて帰りたい」「いらんこと言わんかったらよかったのに」とも考えましたが、「お前がなれるわけない」とばかにされたことを思い起こしては「なにくそ、いつか見とけよ」と踏ん張り、プロボクサーのライセンスだけは取得しました。
ボクシングの練習同様、農業も同じことの繰り返しだし、ものすごく地道です。だからでしょうか。できたときのうれしさとか感動、達成感は何ものにもかえがたいです。トマト1個できたときの感動はリングで存分に闘い抜いたと思えたときの喜びと充足感に似ていると思いますね。
都会暮らしで消えゆくのは
──佐藤さんは農場前代表の佐藤隆さんの厳しい指導を受けながら、代表を引き継いだ人ですよね。父親を「佐藤さん」と呼ぶんですね。珍しいですよ。
佐藤 父は40年前に、だれもが敬遠する過疎の山村に入り、地域の農業を守ってきました。そのときに建てたプレハブで僕は生まれ育ちました。冬になると吹き込んだ雪が家のなかに積もっていたりもしました。雨が降ったら屋根をたたく雨音が激しすぎて、家のなかで話ができないありさまです。
でも不思議と「貧乏」とは思いませんでしたし、土が身近にあるのが最高に幸せでした。その後、東京で学生生活を送りましたが、子どものころから都会暮らしをしていたら、そうは思えなかったでしょうね。いささか語弊がありますが、都会に暮らすと自分が生き物である自覚を持てなくなり、いのちの根源である「食」とこれらを生産する「農」の価値に目を向けようとしなくなります。ならば、今後は僕らが都会暮らしの人たちの「台所」まで出向こうと決めました。乗り込む気で行きますよ。
鳥越 生活クラブが「西日本ファーマーズ・ユニオン」という場を設けてくれたおかげて西日本の生産農家同士の関係ができました。僕より少し年上の40代、50代の現役農家の皆さんですが、彼らからアドバイスをもらえることで僕の視野がだんだん広がってきた気がしています。
本当にFUはすごい組織だし、おやじたちが頑張って結成してくれてよかったな。おかげで佐藤大輔君とも出会うことができました。
僕がやさかに行って、共同農場の人たちと話したりもするんですよ。そんな関係って一般的にはあり得ません。
迫りくる過疎化と高齢化の波に揺れる「食」の産地が増えている。後継者不足から農地を手放す人もいれば、作物を育てるのを自ら断念し、耕作放棄せざるを得ない人もいる。いまや日本の荒れた農地の広がりは埼玉県の面積に匹敵するとされる。
このままでは日本の農林水産業が守り育ててきた「食」と「生活文化」の原点を消失してしまう。そんな危機感を抱いていた西日本の無農薬・有機栽培農家が生活クラブとともに「西日本ファーマーズ・ユニオン(FU)」を結成したのは2006年。生活クラブに梅干しや柿などを出荷する奈良県五條市にある「王隠堂(おういんどう)農園」代表の王隠堂誠海さんらが呼びかけ人となった。その歩みを王隠堂さんはこう話す。
「過疎も高齢化も後継者難も日本農業の共通課題。この問題に個々の産地が別々に向きあっとったらアカン。ともに力を合わせ対抗していかなければ共死となって、日本の食料生産をはじめ、農林水産業が培ってきた環境価値も失いかねないとの強い危機感があった。
この思いを共有し、解決策を皆で探ろうとFUという連帯の場を結成した。そこで意見交換と研修交流を重ねてきたかいがあって、たくましい後継者が着実に増えている」
農林水産業の現場では親子といえどもライバルであり、技術や経験を伝え・伝えられる関係が構築しにくい。この課題解決に有効な一石を投じたのがFUだ。「島根のやさか共同農場も福岡の鳥越農園も、自分の息子もFUの活動を通して育ててもろうた。今後も志ある生産者の交流連帯を深め、日本の食料生産を担う若手を数多く育て、生活クラブとともに食料自給力の向上に努めていきたい」
現在、西日本FUは西日本の16の生産者グループで構成され、約480人の農業生産者が参加し、活動を続けている(2016年3月31日現在)。
*写真上:王隠堂誠海さん、写真下:昔ながらの製法でつくられる王隠堂の梅干し
『生活と自治』2016年5月号の記事を転載しました。