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生協の食材宅配【生活クラブ】
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お菓子作り、わが道を行く


平塚製菓は埼玉県草加市にあり、サブレ、チョコレート、ウエハース、パウンドケーキなどを製造する、生活クラブの提携生産者だ。創業から116年。時代の流れとともに、和菓子、チョコレート、焼き菓子と、皆が幸せなひと時を過ごせるようなお菓子を作ってきた。

平塚製菓の創業は今から100年以上も前の1901年(明治34年)。現在代表取締役を務める平塚正幸さんの祖父、栄治郎さんが京都市で和菓子屋を開いたのが始まりだ。31年に東京都下谷区(現台東区)に移転し、その後第2次世界大戦が始まり、45年の東京大空襲で焼け出されたが、翌年には和菓子の製造を再開した。

戦後、進駐軍が入って来るにつれてガムやチョコレートが出回るようになり、正幸さんの父の馨さんは「これからはチョコレートの時代になる」と、チョコレートの製造を始めた。「原料のカカオ豆がなく、チョコレートとは言えない代用チョコと称するようなものを作っていましたが、甘いものが不足していたのでよく売れたそうですよ」と正幸さん。その後輸入が再開されカカオ豆が手に入るようになると、平塚製菓は本格的に和菓子製造からチョコレート製造へと移っていった。

僕らのチョコレート工場

平塚製菓代表取締役の平塚正幸さん

カカオ豆をチョコレートに加工するためには大掛かりな設備が必要だ。高温で炒(い)って香りを出すための「ロースター」、炒った豆をドロドロになるまですりつぶす「グラインダー」、砂糖、粉乳などと混ぜ合わせる「ミキサー」、チョコレートの生地を長時間かけて練り上げる「コンチェ」などだ。莫大な費用もかかり、これらの設備を備えている中小規模のメーカーは少なく、大手メーカーからチョコレートの原料を仕入れ、再加工するのが通常だった。

そこで戦後すぐ、平塚製菓を含め中小企業100社ほどで「日本チョコレートエ業協同組合」を設立。その後1957年に工場を建設した。協同組合に参加した各社はその工場で、スイートチョコレート、ミルクチョコレート、ホワイトチョコレートなど、自社で製品に加工するためのチョコレートの原料を作る。全社が使える定番を作るのが基本だが、それぞれのメーカーのオリジナルレシピで作ることもできる。

「自分たちの工場なので、使う目的に合わせて、生産地がちがうカカオ豆のブレンドの比率やミルクの種類を変えることができます。同時にカカオ豆の輸入先や種類、製品の価格決定など運営にも責任をもって参加します。今は組合員が30社ほどに減ってしまいましたが、みんなでお金を出し合い工場を作ったことを大事にしながら、チョコレートの原料製造を続けています」。父の馨さんから平塚製菓を受け継いだ正幸さんは、現在、日本チョコレートエ業協同組合の理事長でもある。

正幸さんが平塚製菓に入社したのは1975年。「今は一年中お店にチョコレートが並びますが、その頃は輸送や店頭販売の冷蔵設備が整っていなかったため、気温が高い時期はチョコレートが溶けてしまい作ることができず、仕事がありませんでした。そこで春も夏も販売できるウエハースやクッキーなどの焼き菓子を作り始めたのです」。 その後冷蔵での物流が整うに従い、季節を問わずチョコレートを製造できるようになると、ウエハースやビスケット、ゼリーをチョコレートでコーティングするなど、バラエティ豊かなチョコレート菓子を作った。「自分たちのチョコレートエ場を持っていたからこそ、大手ではなくてもできました」と正幸さんは振り返る。

「作ること」に賭けて

昭和20年代に使われていたポスターを手に

平塚製菓は2000年、自社ブランドの販売をやめ、大手他社の商品製作を請け負う生産方式に専念することを決めた。

それまでは店を構え自社製品を販売していたが、当時東京では、銀座、六本木、表参道などに、消費者から注目される商業施設がどんどん作られていた。そこで生き残っていくためには販売員を教育したり、出店の立地や宣伝方法を考えるための専門的な知識が必要だった。正幸さんは「出店をすすめて事業を拡大するよりも、自分が好きなモノ作りや開発を大事にしたいと思い、変更を決めました」と、当時の思いを語る。

父の馨さんから「それは下請けになることだろう」と言われたが、正幸さんは、単なる「請負」ではなく、品質力、開発力、対応力の3つの力で業界の役に立とうと考えていた。「安全安心を追求し、取引先の要望に沿った対応ができ、さらに商品を提案する力をつけることを目標にしました」 

緑茶チョコレート誕生

平塚製菓と生活クラブの提携は、1990年秋、フィンガーチョコレートの取り組みから始まった。その後、お菓子のバラエティー化に伴い、ウエハース、パウンドケ―キなど、さまざまな消費材の開発を手掛けてきた。


なかでも「緑茶チョコレート」は、緑茶の味と香りが生き、なめらかな口どけでとても人気がある。生産者見学会で平塚製菓を訪れた組合員の提案がきっかけとなって作られたものだ。原料はホワイトチョコレートと新生わたらい茶の一番茶粉末茶。ホワイトチョコレートは日本チョコレートエ業協同組合の東京都板橋区志村にある工場で作られる。

カカオ豆を焙炒し、すりつぶしたものがカカオマス。そこに約半分含まれている油脂分である乳白色のカカオバターだけを絞り出し、砂糖、粉乳、乳化剤、香料などを加えて練るとホワイトチョコレートができる。カカオ特有の色や苦みがなく、文字通り白いチョコレートで果物やお茶などの風味を加えやすい。


平塚製菓は、ホワイトチョコレートの製作を依頼する時、添加物の使用を避けるために乳化剤のレシチンと香料を加えず、さらにそれらが、他の製品と同じ製造ラインを使う時に混じることのないようにと頼んだ。「乳化剤は、なめらかな口当たりのチョコレートを作るためだけではなく、パイプラインの中で進める製造工程では原材料の流動性を保つためにも必要な添加物です。大手のチョコレートエ場では、乳化剤の不使用は難しかったと思います」と正幸さん。


平塚製菓ではホワイトチョコレートと粉末茶を、それぞれ取っ手付きのボールで計量し、 一度に100キロ入るケトルで混ぜ合わせる。その後、網で濾して型に入れ、冷やし固める。「乳化剤を使わなければそれだけ仕事はしにくくなり、ていねいに温度管理をして固まらないようにしたり、成形の工夫も必要です。でもその甲斐あって、緑茶チョコレートは意外に好評で長く利用されていますよ」。加える粉末茶はわずか3・5%だが、ほろ苦いお茶とミルクが溶け合ったおいしいチョコレートだ。

お菓子はいとも簡単に至福の時を作り出す。そんなお菓子を作り続けたいと、会社を大きくするより継続することを選んだ正幸さん。これからも思いを同じくする仲間たちと共同しながら愛されるお菓子作りを続ける。

ホワイトチョコレート(左)、新生わたらい茶の「一番茶粉末茶」

ケトルの中で一度に100キロの原料を混ぜる(左)、型に充填(じゅうてん)

冷やし固めた後、型からはずす(左)、緑茶チョコレート

併設されている直売所。壁にはカカオ豆が描かれ、絶えず人が訪れる(左)、埼玉県草加市の工場。近くには綾瀬川が流れている。


文/本紙・伊澤小枝子 撮影/丸橋ユキ

国産カカオでチョコレート

カカオの木が育つ地域は高温多湿の熱帯雨林地方に限られる。西アフリカのガーナや象牙海岸、東南アジアのインドネシア、中南米のベネズエラなど、赤道をはさんで北緯20度から南緯20度までのカカオベルト地帯といわれる地域だ。

2003年、平塚製菓の代表取締役平塚正幸さんはチョコレート原料のカカオ豆の輸入先、ガーナヘ行きカカオ農園を視察した。そこでは、幹に直接カカオポッドといわれる小型のラグビーボールのような実がつくカカオの木が栽培されていた。これが、父親が一生懸命作っていたチョコレートの原料のカカオがなる木なのかと見ているうちに、自分も日本で育ててみたいと思うようになった。


日本はカカオベルト地帯からは外れているので、カカオの栽培は無理だろうとしばらくは考えることもなかったが、カカオ栽培への思いは強く、同じような気候のところを探した。八重山諸島の石垣島、西表島、与那国島や小笠原諸島の父島、母島などが候補にあがった。正幸さんは生まれも育ちも東京都。子どもの頃、世界で知られていた都市といえば、パリ、ニュー∃―ク、ロンドン、それにトウキョウだったことも思い出し、世界に日本産カカオを発信するなら東京で作りたいとヽ東京都小笠原村で栽培することに決めた。


小笠原村の父島と母島の農業協同組合で、興味のある農家に集まってもらい説明会を開いたところ、母島で栽培しようということになった。10年、千粒のカカオの種をまき、そのうち167粒が発芽したが、3ヶ月ほどですべて枯れてしまう。あきらめかけた時、母島で有機農業を営む折田一夫さんに出会いカカオ栽培を再開した。折田さんは小笠原の土壌や気候を熟知し、母島で初めてマンゴーの栽培に成功した人だ。日本初のカカオ栽培にも大いに興珠を持ったという。


カカオの木は農園では10メートルほどに育ち、1本の木に「年間で約5千個の花が咲く。しかしカカオポッドまでに成長するのは平均50個から70個。正幸さんは、大量でなくても板チョコに製品化できる程度のカカオを収穫したかったことと、枯れてしまうリスクを考えて、500本を育てる目標を立てた。母島はカカオが育つための温度も雨量も十分だが、台風などの風により被害を受ける。風速70メートルの風にも耐えられる頑丈なハウスを作りながらカカオの木を植え、その面積は5干平方メートルほどになった。 

 
カカオポッドからカカオの実を取り出してカカオ豆にするには、発酵と乾燥の工程が必要だ。熱帯雨林のカカオ豆の産地ではカカオの実をバナナの葉にくるんだり、木箱に入れて麻袋で覆うなどして数日間かけて発酵させる。その後穏やかに水分を抜くために天日乾燥する。工業的に正確な温度管理により生産する方法もある。正幸さんは加工方法を試行錯誤しながら、母島産のカカオ豆を原料とするチョコレートを19年に商品化する目標を立てている。

竹芝ふ頭から父島まで船で24時間。そこからさらに南へ50キロの母島まで2時間。主に農業と漁業を営む、島民約470人の島で育つカカオの木。「チョコレート屋のおやじの道楽ですよ」と言いながら作るチョコレートは、どんな味がするのだろう。

平塚製菓の平塚正幸さん(左)と、カカオを栽培する小笠原村母島の折田一夫さん(写真/平塚製菓提供)
 

イラスト/堀込和佳   文/本紙・伊澤小枝子

『生活と自治』2017年11月号の記事を転載しました。

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