震災7年 未来へと、それぞれの時が流れる
2011年3月11日。東日本大震災が発生し、三陸海岸を大津波が襲いおびただしい被害を与えた。それから7年、宮城県にある生活クラブの提携生産者、丸壽阿部商店と高橋徳治商店はそれぞれの地域で漁家や住民の支えとなり、共に前へすすもうとしている。
【丸壽阿部商店】
競争から協同へ 未来へ続く漁業を選んだ漁家を応援漁家が「共同」に挑戦
丸壽阿部商店は宮城県南三陸町にあり、志津川湾、気仙沼湾、唐桑半島などのカキ養殖業者からカキを買い付け浄化後パックし、消費者へ届ける「生かき」の提携生産者だ。東日本大震災では三陸沿岸部にあった大部分の養殖施設や船舶、カキ処理場が被災したが、幸いにも高台にあった同商店のカキ加工場は津波被害を逃れ、2011年12月より広島県産のカキを原料として加工を始めた。13年より官城県産のカキが復活し、現在生産量は、震災前のほぼ50%となっている。
同商店が仕入れるカキの養殖業者のひとつに宮城県漁業協同組合志津川支所の戸倉出張所がある。志津川湾をはさんで同商店の向かい側にあり、所属する7つの浜の漁家は、カキ、ワカメ、ホタテ、ホヤなどの養殖を営んでいる。津波により、養殖施設、漁業事務所が全壊し、多くの船を失った。戸倉地区のカキ部会には78人がいたが、亡くなったり漁業をやめる人などがあいつぎ38人に減った。
震災があった年の10月、養殖を再開するにあたり、海の状態を確かめた。話し合いの末、残った数少ない漁船を共用するなどして、水産庁が用意した「がんばる養殖復興支援事業」に取り組むことにした。作業の協同化、協業化により養殖復興を目指す漁協などを支援する制度だ。12年から3年間、カキ、ヮカメ、ホタテの3種の養殖業者96名が参加した。
左上写真:カキが育つ志津川湾。真冬でも海水温は8度以上を保つ。右、左下写真:カキ部会の漁家、後藤―美さん(右)。息子さん(左上)とお母さん(左下)と、家族でのりこえてきた今がある。
戸倉の養殖業者は家族経営をする漁家であり、それぞれが自分が作るものは誰にも負けないという競争意識が強いライバル同士だ。残った船は津波から命がけで守ったもの。しかし助け合っていかなければ施設の復旧はない。3年間協力して作業をするにあたっては粘り強い話し合いが続けられた。
養殖のありかたについても見直した。震災前、カキ部会は生産量を上げるために漁家同士が競い合い過剰生産となっていた。過密養殖ではカキが海から十分な栄養を得られない。出荷できる大きさに生育するまでには2~3年の年月がかかるうえ、生育にばらつきがあり品質も宮城県内で最低水準だった。
震災前と同じことをしていたのでは次の生産までに時間がかかる。まず栄養を行きわたらせ短期間で生産するために、養殖密度を3分の1に減らした。養殖施設の間隔を広げ、11年8月に試験的に種ガキを植え付けた。12月に採取したところ、以前は2~3年かけても15グラムぐらいにしか育たなかったヵキが20グラムまでに育っていた。身もコロッとしまり、おいしいカキだった。
この方法で養殖を始めると、管理する養殖施設の台数が少ない分、管理コストが減り労働時間も減った。毎年採取できるため経営効率は格段に向上した。この活動が、16年3月、日本で初めての二枚貝養殖の水産養殖管理協議会(ASC)国際認証取得につながる。生態系や水質など環境に負担をかけず、労働環境に配慮して操業している養殖業に対する国際的な認証制度だ。
左上写真:宮城県漁協志津川支干戸倉出張所の星昌孝さん。「養殖施設は震災前の3分の1に減りました。カキは海の栄養を十分に取れるようにきって大きく育ちます」右写真:宮城県漁協志津川支所戸倉出張所の阿部富士夫さん。「ASC認証の取得は、戸倉の漁家にとって大きな励みとなりました」
ゼロからの出発
「がんばる養殖復興支援事業」が終了した15年、戸倉では施設や船がほぼ震災前の水準に復帰した。共同経営から家族経営に戻るに当たり、規模を競うような競争を防ぐために、震災前の養殖施設の持ち台数をゼロに戻し「ポイント制」を導入、改めて養殖海面を割り振った。1経営体の持ち点を決め、後継者がいる場合は加算するなどして、ポイントにより養殖する種類と施設台数を選べるようにした。これは1年ごとに話し合いを持ち、それぞれの事情に合わせて見直しをする。
ポイント制導入は困難を極めたと同出張所の所長を務める阿部富士夫さん。「本来海は、所有する場所ではありません。でも漁家にとっては震災前から何年も使っているこの範囲は自分のもの、という意識が強く、海を借りているというイメージではありません。何度も集まりお互いの考えをぶつけ合った末、漁場環境を守り次の世代へ引き継ぐという目的を持ち、ゼロからの出発を選びました」
二人三脚
戸倉の漁家たちの思いに丸壽阿部商店の代表取締役専務である阿部寿一さんが応えた。「戸倉の漁家は、自然に生かされて自然の恵みをいただいて仕事をしていることに気がつきました。そして持続可能な漁業を目指しASC認証の取得につながりました。自分も同じような思いでいたため、加工・流通過程の管理(COC)認証を取得して販売することを即断し、二人三脚で事業をすすめようと決めました」。COC認証は、ASC認証を取得した水産物に、流通・加工の過程で認証されていないものが混入するのを防ぐために、トレーサビリティーを明確にし管理する業者に与えられる。
一時、戸倉地区から石巻市や登米市に避難していた漁家も戻ってきて自宅を再建し、生活の基盤もそろい、ようやく震災以前の状態に戻りつつある。
「カキが育つ海の環境は震災後からすでに整っていました。戻っていなかったのは人でした。復興のスパンは10年ぐらいと考え、ひとつひとつ先へ進めていきたいと思います」。これからも二人三脚が続く。
【高橋徳治商店】
技術者が育ち、若者が働く 野菜加工場を建設受け継がれる技術
2018年1月のある朝。練り製品の生産者、高橋徳治商店東松島工場では、「おとうふ揚げ」の製造ラインが止まり緊張が走った。
製造現場で試食した製品を、別スタッフが再チェックするための最終試食をした時のことだ。おとうふ揚げの原料は、北海道産のスケソウダラのすり身と、岩手県一関市にある「だいず工房」のもめん豆腐。大豆とタラの、甘味とコクが微妙に弱く、納得のいく味ではなく担当者が現場に集まった。その中には代表取締役の高橋英雄さんの姿もあった。製品にわずかでも納得がいかない時は、廃棄や練り工程からのやり直しがあり、何時間でも製造がストップすることさえある。
この日は話し合いの末、揚げる時間を何度も調整して製造を続けることにした。震災後、このような厳しい試食を毎年250日、1600日以上重ねてきた。
高橋徳治商店の練り製品製造の特徴は、北海道産の無りんタラすり身に石巻市場に揚がる近海で捕れた小魚をブレンドし、合成添加物を一切使わず素材を生かすこと。
カナガシラ・グチ・オキギスやサメ・青背魚など7種類もの魚を使い、蒸し、焼き、揚げのそれぞれの品目により小魚の種類を選ぶ。季節による脂ののりや味のちがいを見極め、練る時間や練り上がりの温度を決め、それが加熱加工の工程に引き継がれる。加熱する時間と温度は室温と湿度に影響され、1回の製造単位ごとに変わる。
無添加で作るためにはそれぞれの原料の状態や工程の条件をすべて考慮することが必要だ。「スタッフたちは0.01%の塩の添加にも悩み考え込みます。言わば素材への挑戦です」と高橋さん。「それだけに、 一つの練り物の作り方を自分で試行錯誤する『迷える』ようになるまでには十年はかかるといわれています」
震災後、ベテランスタッフが辞め、新しく採用した若い社員が5年を経て、ようやく一つの製品の製造を受け持つことができるようになった。
魚に詳しく、現場で経験を積み豊富な知識を持っていた高橋さんが先頭に立って、無添加で練り製品を作る技術と「食べものをつくる心」を伝えてきたからだ。
原料のひとつ、カナガシラ。使用する魚の放射能測定を続けている。震災後4年間、放射性セシウムの値が、 1回も1キロ当たり1ベクレルを超えなかつた魚種を使う。
左写真:総務部の高橋利彰さん。「震災前に比べて船が減り水揚げ高も戻っていません。でも年間で200種類の魚が揚がります。市場の端から端まで並ぶ様は壮観ですよ」右写真:早朝、漁船が並ぶ石巻魚港
新工場は5年目へ
そんな中、全国から延べ1,500名のボランテイアが集まり、がれきやヘドロの除去を手作業で行なった。物資やカンパの支援もあった。何より伴走という心の支援がありがたく、悩みながらも「ここで必要とされる会社やスタッフになるんだ、光になる!」と決意し、13年7月に東松島市の高台に新工場を建設、製造を再開した。
灯りをともす
写真左:300トンほど収納できる冷凍保管庫。やがて、若者が作る製品でいっぱいになる。写真右:東松島工場の敷地内に建築中の野菜加工場。南三陸町産の木をふんだんに使う。
今年3月12日、東松島工場の敷地内に野菜加工場が落成する。練り製品の原料となるタマネギ、ニンジン、ヤマイモやダイコンの加工、冷凍カボチャ、冷凍茶豆の提供を予定している。近在農家とも少しずつ提携し、農作物の栽培をしている近くの障害者施設からも収穫の手伝いを依頼されている。
野菜加工場で働くのは、近隣の2市2町に合わせて千人以上いるといわれているニートや引きこもりの若者だ。震災で親が亡くなったり、精神的なダメージを受けて学校や職場へ行けなくなった若者や、小中学校の不登校の子どもがどんどん増え心も荒んでいる。そんな若者たちが収穫や加工の仕事をしながら人間関係を取り戻し、必要とされていると自己肯定し自立するまで支援することも目的のひとつだ。
高橋さんが、地元でニートや引きこもり、貧困の若者を支援する団体、NPO「石巻地域若者サポートステーション」と出会ったのは4年前のこと。そこには、今の社会では必要とされない怠け者と自己否定し居場所やよりどころのなさを抱えている若者や、成績だけで評価されドロップアウトする中高生の姿があった。高橋さんは震災で多くを失った時、再び事業を起こし、働き生きる意味があるのかと思い悩んでいた自分の姿を重ね合わせた。「同じ痛みを持つこの若者たちと並走したい、 一緒に歩きたいと思いました そこに、スタッフや自分にとって未来へつながる大切な何かがある、そんな気がしていました」と言う。
野菜加工場では、同じような悩みを抱える多くの人を受け入れながら、最終的には原料仕入れ、加工、品質管理、営業販売など全工程を自分達で運営できる会社工場にするのが夢だ。もちろん製造には一切手を抜かない。「この地域で自ら光になれ!」と高橋さん。
さらに、「被災地では建物も道路の復旧もまだまだですが一番大事な心の復興は何も手がつけられていません。心を閉ざしている人たちと共にこの地で真に必要とされる会社になっていきたいです」
同じ思いを持つスタッフとともに、「楽しく」悩みながら8年目の一歩を踏み出したいと言う。
撮影/田嶋雅已 文/本紙 伊澤小枝子
『生活と自治』2018年3月号の記事を転載しました。