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生協の食材宅配【生活クラブ】
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百歳の、笑顔が輝くワンダーランド


「西日本ファーマーズユニオン(四国)」の「無茶々園」は、伊予柑いよかん、しらぬい、ジューシーフルーツなどの柑橘かんきつ類と真珠の提携生産者。福祉事業にも取り組み、生涯元気に暮らせるまちづくりを目指している。

「むちゃ」がはじまり

「無茶々園」代表取締役、大津清次さん

愛媛県の西部、宇和海を望む西予市明浜町は、美しいリアス式海岸が続く。その急峻きゅうしゅんな斜面の段々畑と穏やかな海に抱かれるように、人口千人前後の小さな集落が点々と並ぶ。

そのひとつ狩浜地区で、40年以上前の1974年、3人の柑橘類の生産者が寺の農地15アールを借りて、伊予柑の有機栽培の実験農場を始めた。「西日本ファーマーズユニオン(四国)の「無茶々園」の始まりだ。2006年には「自給力を高める農業を創造しよう」と、中部地方以西の意志ある生産者団体が立ち上げた組織「西日本ファーマーズユニオン」の生産者団体となった。

鎌倉時代から存在する段々畑で住民は、以前は芋や麦を栽培し、桑を植えて蚕を飼う自給自足の生活を営んでいた。戦後、温州みかんを植えるようになり、1961年、農業基本法が制定されると愛媛県では商品作物としての温州みかんの栽培がひろがり、日本一の生産県となる。しかし全国でも植えられていたので過剰栽培のため10年後には相場が大暴落し、伊予柑やポンカンの栽培に切り替わっていった。

また、その頃は農薬の多投による環境問題が起こっていた。海や山の生き物が減り、柑橘類の生産者たちも体に異常を感じるようになる。当時話題になっていた有吉佐和子の著書「複合汚染」や近くに住んでいた福岡正信氏の提唱する「自然農法」を知ったことが、実験農場を始めるきっかけでもあった。当時、無農薬、無化学肥料栽培は本当にむちゃなことだといわれた。無茶苦茶でもがんばってみよう、また、スペイン語で女の子という意味の「ムチャチャ」という言葉の響きが気に入り、実験農場を「無茶々園」と名付けたも現在、狩浜地区の7割が無茶々園の会員の農場となり、明浜町以外にも40ヘクタールの農場がある。


「無茶々園を始めた頃はみんな農業後継者でしたが、『自分が生きて暮らしていくための食べ物を作る。そのために自分は生きていきたい。だから有機農業をやる』と、自分たちでなんとかしようという気風がありました」と、地域法人無茶々園の代表取締役である大津清次さん。 「もうかる農業を目指すのではなく、消費者と直接提携し相互理解を深めながら提携関係を結び、百姓、農家として自立して暮らしていける地域づくりを40年間続けてきました」

5月に取り組みがある甘夏みかん

共に働き、共に生きる

にぎやかな「めぐみの里」。利用者の二人は1930年生まれ。「ここでお友達になりました」
 

無茶々園は、生産者を含め地域の住民の高齢化が進む中で、福祉事業にも取り組んでいる。 2000年の介護保険制度導入を見すえ、介護も自分たちでできる仕組みをつくりたいと、1995年からホームヘルパー講座を開催してきた。大津さんはその時受講した会員に、ヘルパーステーションをつくろうと提案したが「講座を受けたのはそれぞれの親の介護が目的で、資格を生かして事業にしようという発想はありませんでした」。しかし、独り暮らしのお年寄りへの配食ならできると「てんぽ屋」をつくり、09年から毎週木曜日、40軒ほどに有料で安否確認を兼ねて配食サービスを続けている。


その後、ホームヘルパー講座1期生で他の地域の福祉事業に携わっていた清家真知子さんから、「お金もうけの福祉ではなく、最期までその人がその人らしい人生を過ごせ、寝たきりになったら見知らぬ人ではなく隣の人に見てもらうような介護ができる福祉を実現したい」と相談を受けた。

そこで13年、百歳でも笑いながら輝いている人生を送れるように、株式会社「百笑一輝」を設立し、14年に住宅型介護老人ホームとデイサービス事業所の「めぐみの里」、15年には「海里」を開所した。「めぐみの里」の入所施設の8部屋は満室、定員35人のデイサービスは毎日30人ほどの利用がありとてもにぎやかだ。職員は明浜町の人が約6割。職員に保育園に入る前の子がいたら事業所内で預かる支援も今年から始めた。

百笑一輝はこれらの施設を拠点に地域の高齢者の生きがいもつくり出す。パーティー用のクラッカー作りや入浴剤の原料にするポンカンの皮むきなど多くの仕事の場を提供し、それは介護予防にもつながっている。 

「百笑―輝」の清家真知子さんと前田寛明さん。えんじ色は「めぐみの里」、青は「海里」のユニフォーム

暮らしたい「まち」

左:「ファーマーズユニオン北条」の酒井朋恵さん。右:柑橘類の生産者。「無茶々園」創始者のひとり、片山元治さん(前左)。川越文憲さん(前右)と息子さんの映史さん(後右)。2年前よリフィリピンから研修に来ているイマニュエル ワクリンさん(後左)
 

無茶々園の創始者のひとりであり、ベトナムなど東南アジアの研修生の育成にもかかわる片山元治さんは今年70歳になる。「今の福祉は全部家の中に閉じ込めるが、外へ出すのが本来の福祉だ」と、福祉のありかたをこれからの人生に重ね合わせる。

「車いす特区をつくってそこの道は車いす優先にするとか、車いすが飛び込まんように海端に柵を作って魚釣りができるようにしたらいい。はいかいもどんどんせい―― と思うとる。明浜町やったらどこ行くもしれとる。『そこ通るじいちゃん、どこ行くんね。お茶でも飲んでいかんかい』と声かけるのがおもしろいんや。地域のコミュニティーが大事なんよ」

東京都出身で、農業を志し、無茶々園にやってきた酒井朋恵さんは、「このまちが好きです。いい年の取り方をしている人が多くて年を取るのがこわくないなと思います」と笑う。

無茶々園は1999年に「ファーマーズユニオン天歩塾」を設立し、新規就農者の受け入れを始めた。松山市北条と愛媛県南部の愛南町に約25ヘクタールの直営農場を持ち、日本全国やフイリピン、ベトナムなどから来た12人の新規就農者や研修生が柑橘類や野菜を栽培している。酒井さんもその一人だ。農家の生まれではないが、無茶々園を知り天歩塾で農業研修を受け就農を決めた。就農する場所を全国で探し、「ここは、現実的に農業で生活していけると思い描けました。おいしいものと、面白い人と、興味のある文化があります。一番居心地がいい場所でした」。 甘夏みかんを作って4年になる。

旧小学校発まちづくり

「無茶々園」の事務所がある旧狩江小学校。左下:配食サービス「てんぽ屋」は元保健室。右下:5年生と6年生の教室を利用した事務所
 

無茶々園の事務局は、2016年、旧狩江小学校内に移転した。 15年に、狩江小学校を含む明浜地区の四つの小学校が統合したため、地域住民が一年間をかけて空き校舎の利用方法を話し合った。その結果、無茶々園が運営を引き受けてまちづくりの拠点とする「かりえ笑学校」を新たに開校した。

「地域の中で直売所や加工事業などの仕事をつくります。そして段々畑を整備して観光事業を展開し、空き家もあっせんし他からここへ来て暮らしていけるようなまちにしたい。実現するためには提携関係を続けてきた都市生活者の共感を得ることと連携が必要です」と大津さん。現在、60年前に植えたミカンの本の改植をすすめてぉり、20年までには半分以上を新しい木に植え替える予定だと言う。先人が、石灰岩をひとつひとつ積み上げて築いた段々畑が美しいこのまちの、20年後、30年後へ、夢がひろがる。
 

音楽室だった「木づかい工房 空人」。地元の建築家、酒井久夫さんと妻の郁子さんの作品が並ぶ。酒井さんは、世界にひとつだけの遊び心満載の本工品を製作販売する


撮影/田嶋雅已  文/本紙 伊澤小枝子

命あるものがつくる輝き

「佐藤真珠」の佐藤和文さん(前)と社長の宏二さん

「真珠は人々の心をいやす宝石です」。50年以上、愛媛県西予市明浜町狩浜で真珠を養殖し、加工、販売まで手掛ける佐藤真珠の社長、佐藤宏二さんは、そんな真珠を作ってきた。

真珠の養殖は春に始まる。30万枚のアコヤガイを仕入れ、4月頃から真珠の核を入れる作業を始める。後に取り出した真珠の核を入れる作業を始める。後に取り出した真珠を見ると、作業した人がわかるほど、繊細な仕事だ。夏は水温の低いところに沈め、冬は暖かい南の海域へ運び、ひとつひとつ掃除をしてきれいにするなど常に貝が健康な状態を保つように手をかける。

真珠養殖が順調に行われていた1990年代、全国でアコヤガイの大量死が発生したこと 』がある。真珠生産者が自分たちで 海水を採取し、試験薬を使い調べると、ホルマリンが検出されたが、公的機関は感染症や過密養殖のためではないかと、調査や対策に取り組むことはなかった。さらに調べると、近くのフグ養殖場で、寄生虫対策の消毒用にホルマリン液を使い、それを回収しないで海へ放出していることがわかった。

当時「佐藤真珠」ではアコヤガイを20万個ほど養殖していたが、4万個しか残らない状態が続き、明浜町の真珠養殖業者は半減した。近くの海水浴場でも湿疹が出る人が増え泳ぐことができなくなった。
真珠の養殖業者が協力して根気よく漁場調査をし、町や水産試験場、水産庁への働きかけを続けた結果、2004年に、明浜町が全国初の環境保全に関する条例を発布し、原則ホルマリンの使用を禁上した。続いて愛媛県でも同じ条例が制定され、国の薬物使用の規定も再確認されると、ホルマリンの流出が止まり、アコヤガイの死減は全くなくなった。さまざまな交渉に当たった宏二さんは、「争いもいろいろありましたが、フグ養殖も真珠養殖も、同じ漁協の漁師仲間の生活していくための仕事です。薬物使用について、行政が教育指導をする責任があったと思っています」とふり返る。

明浜町は段々畑のミカン山が海まで迫るリアス式海岸が続き、養殖場には石灰質を含む栄養豊富な水が流れこむ。員のえさとなるプランクトンも豊富で、上質な真珠を作る。宏二さんの長男、和文さんは佐藤真珠の3代目。「小学生の頃、ミカン山に農薬を自動的にまくスプリンクラーが設置されて、フナムシやエビ、タコなどが目に見えていなくなった時期がありました。でも、狩江地区で無茶々園の有機農業を営む生産者が半数を超え、スプリンクラーによる農薬散布がなくなると生き物がすぐに戻りましたよ」と、山の仕事が海に与える影響を目の当たりにしたことがある。真珠養殖に大きな影響を及ぼす海の環境を守るために、地元の漁協と協力しながら合成洗剤の使用を減らそうと、廃油せっけんを作り全戸配布するなどの活動にも取り組んでいる。

宏二さんは、「貝が育つ環境を整えて初めて思うような大きさや形、輝きを持つ真珠が得られます。いろいろ考えるのがおもしろいです」と言う。同時に、自分が育て加工した真珠を身に着ける人の感想が返ってくるこの仕事に、大きな喜びを感じている。

撮影/田嶋雅己  文/本紙  伊澤小枝子

『生活と自治』2018年5月号の記事を転載しました。

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