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生協の食材宅配【生活クラブ】
国産、無添加、減農薬、
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食べる人とともに、今までも、これからも


山形県遊佐町の米の生産者が生活クラブ連合会と提携してから、ほぼ半世紀になる。減農薬をすすめ、循環型の米作りへの挑戦を続けてきた生産者は、これからも食の未来をつくっていく。

気になる生産調整の行方

1970年より47年間続いた国による米の生産数量目標の配分が廃止された。いわゆる減反政策の見直しだ。今年から、農家は自らの判断で米の作付けができるようになった。

ただ、遊佐町がある山形県の今年の米の作付けは昨年並みだ。生活クラブの米の提携生産者、JA庄内みどりの遊佐町共同開発米部会長、尾形長輝さんは、「自分たちは去年並みの38.3%の生産調整をしました。田んぼの総面積のうち、その分だけ米を作付けしていません」

しかし来年以降の動向については不安が残るという。「減反しなくていいからと言って、農家が好きなだけ米を作っていたら、生産過剰になり価格が落ち込んでしまいます。部会としては、自分たちで生産調整をしながら米の価格を守り維持していきたいと思っています。そのスタンスはこれからも変わることはありません」

米を作付けしない田んぼには、米の代わりに加工用米、大豆、なたね、そばなどが栽培され、それぞれが生活クラブの提携生産者の青木味噌みそ、タイヘイ、米澤製油などの加工品の原料になる。なかでも半分近い面積を占めるのが飼料用米。すべてが豚肉の提携生産者の平田牧場へ供給される。
 

遊佐町共同開発米部会長の尾形長輝さん。「生活クラブとの提携があって、飼料用米という大きな挑戦ができました。100%平田牧場が使っています」

減反政策は、米の生産過剰による価格の低下を防ぐための国による生産調整だ。60年代初め、日本の米の自給率は80%にも届かず、不足分は外国から輸入していた。食糧事情がひっ迫した終戦直前には食糧管理法が制定され配給制となり、以後、94年に同法が廃止されるまで、米は自由に流通できない状態が続いた。

戦後、水田開発とともに米の増産がすすめられた。60年代後半になると化学肥料が多投されるようになり品種改良もすすみ、生産過剰となる。このため70年より、政府は米政策を大きく転換し減反政策を実施した。当時、田んぼを10アール減らすごとに2万円の奨励金が支払われ、全国で1万ヘクタールの減反が目標とされた。

遊佐町共同開発米部会の佐藤勇人さん。10ヘクタールの田んぼを管理し、園芸作物にも力を入れ、ハウスを作りパプリカとアスパラガスを栽培する。土壌栽培のパプリカは大きく育つ

これからも、一緒に作る

国による減反政策が始まった翌年の71年、減反政策に反対し、米の販売先を探していた遊佐の生産者と、米の不透明な流通に疑問を抱く生活クラブが出会い、提携が始まった。自由な米の流通が禁止されていた当時、生産者と消費者が直接取り引きすることはできず、違法とならないようさまざまな工夫のもとに提携は続いた。

組合員との交流も重ねられ、88年より、生活クラブは旧遊佐町農協(94年に広域合併をして現在はJA庄内みどり)と、品種や栽培方法、価格、流通のほかに食べ方も話し合い、共同でつくる「共同開発米事業」に取り組んだ。

当時国内ではコシヒカリとササニシキが圧倒的な人気銘柄だった。東北地方はササニシキが主力品種で遊佐も例外ではなく、100%に近い作付けが行われていた。しかし、単一品種を作り続けた時の自然災害や気候変動による弊害、機械の使用効率を考え、生育や収穫時期の異なる複数品種を栽培してブレンドし供給することにした。

組合員は何度も試食を繰り返し品種を選び、後に愛称も公募した。最初は「ゆざ88」と「鳥海コガネ」のブレンド米。生産者数34戸で面積は24ヘクタールだったが、92年、「遊佐町共同開発米部会」が発足し、減農薬、循環型の肥料を使った栽培が広がった。現在では部会員が400戸、面積は1,200ヘクタールの規模となっている。これは遊佐町の水稲作付面積の6割もの広さになる。

年間の農薬使用成分数は山形県の慣行栽培の2分の1の8成分以下。春先には堆肥を散布し、田んぼを隔てる畦畔けいはんに除草剤は使わず草刈りをする。種子の消毒は60度のお湯に10分間ける温湯消毒で、薬剤は使わない。農薬処理をした場合、使用後の薬液は土に戻すしかなく、環境に与える負荷が大きくなるからだ。

現在、共同開発米は、中生の「ひとめぼれ」と、早生の「どまんなか」をブレンドしている。山形県はどまんなかと同時期に、「はえぬき」を開発した。組合員にはあまり好まれなかった品種だが、多収性で作りやすいため山形県内では栽培が広がった。一方、どまんなかは県の奨励品種から外れ、2017年より種子が作られなくなり、遊佐では今年が最後の種まきとなる。共同開発米部会は他の品種とのブレンドも考えたが、県による規制があり、19年産米よりひとめぼれの単味となる。

同部会副会長の今野修さんは、「今は情報量が多い時代で、その伝え方も難しい。そんな時に、たとえば『ひとめぼれ100%の単味で特別栽培米』と伝えれば消費者にとってわかりやすいと思います」と言う。生活クラブ側も、単味の語りやすさなどからこれに合意、第6次米政策にも明記した。「ですが、ブレンドして好みの味を作った方がいいのではという思いもあります。今の共同開発米ができた時と同じように組合員と話し合いながらこれからの共同開発米も作っていきたいです」

砂地の耕作放棄地を再生させるためにさつまいも「べにはるか」を栽培し、焼酎、「耕作くん」を造った(左写真)/遊佐町共同開発米部会副会長の今野修さん(右写真)。「無農薬実験米の実験期間中に、くず大豆や米ぬか、もみ殻など遊佐産の材料を80%使い、生活クラブの提携生産者の鶏ふんやなたね油かすを加えた有機肥料『遊佐づくし』ができました。無農薬実験をしながら生まれた貴重な肥料です」

無農薬栽培への挑戦

田植えがすんだ6月初め頃の田んぼ。水と風と人の手が稲を育てる

無農薬、無化学肥料栽培へのチャレンジは、ヒエ、コナギなど雑草との戦いの年月でもあった。03年より組合員への供給が始まったが、以来長年「実験米」という位置づけだ。

部会員は田んぼに紙を敷いてその上から苗を植えたり、コイを放したり、米ぬかペレットやくず大豆をまいて雑草の発生を防ぐなど失敗を重ねながらもさまざまな栽培方法を試してきた。 「実験期間が長いように感じますが米作りは1年に1回だけ。無農薬の実験はまだ十数回です。安定供給するためには決して多い回数ではありません」と今野さん。現在若い生産者も無農薬で米を作ることに意欲を持ち、24人が28ヘクタールで挑戦している。

未来へつながる農業を

JA庄内みどり遊佐支店の共済課長、佐藤修一さん(左写真)。共同開発米の愛称が公募された時「遊YOU米」を応募した。当時、高校2年生。「遊佐町と米と組合員のみなさんをつなぐような言葉を考えました」/農事組合法人「アグリ南西部」・理事の佐藤朗さん(右写真)。砂地の耕作放棄地にハウスを建てアスパラガスを作っている。遊佐町に移住してNPO法人を立ち上げた人たちが手伝いに来る

生産者の高齢化と後継者不足は遊佐町でも深刻な問題だ。 「集落の座談会で後継者がいる人は、と問いかけても誰も手をあげません」とJA庄内みどり遊佐支店の営農課長、那須耕司さん。このような状況をふまえ、自分が田んぼを作れなくなった時の受け皿を作ろうと、15年より共同開発米部会の会員が中心となり農業生産法人を作り、持続可能な生産体制作りを始めた。

現在六つの法人が組織され、455人が合わせて1,183ヘクタールの田んぼを集約し、作業をすすめている。
同部会元会長の川俣義昭さんが代表理事を務める農事組合法人「アグリ南西部」は、16年1月に設立された。17年に共同作業施設を建設し温湯種子消毒の受託作業を始め、コンバインとトラクターを購入し作業受託に備えている。「圃場ほじょうが全部で300ヘクタールあり、誰が何を作っているかを調べるところからのスタートです」。堆肥散布から収穫まで、米作りを単独で行うのはもう無理だと言う。「生活クラブと約束した生産量を、こちらの都合でできませんでしたとは言えません。作業員を募り報酬を払ったり、法人で雇用するなどのシステムを作っていきたいと思っています」 遊佐の米作りは、前を向き挑戦し続ける生産者の強い意志に支えられている。
 


アグリ南西部代表理事の川俣義昭さん。300ヘクタールの土地を集約し、120人を組織する。「後継者不足、高齢化といろいろな問題を抱えていますが、契約した量の米を作れなくなったら今までの提携がなくなってしまいます。そうならないための挑戦です。とても個性的な人が120人も集っていますがうまくいっていますよ」

撮影/田嶋雅已 文/本紙・伊澤小枝子

水と風の町、遊佐

遊佐町女鹿地区にある「神泉の水」

山形県遊佐町と、秋田県との県境にそびえる鳥海山は、標高2,236メートル。年間降水量が1万ミリを超え、真夏でも雪渓が残り、山腹や山裾、海岸ではあちこちから伏流水が湧き出す。それは1年を通して人々の暮らしや田畑に恩恵をもたらしている。

日本海側のふもとの女鹿地区の「神泉(かみこ)の水」は、湧水を「山の神」から引いたことから、この名がついたと言われている。流れを六つに区切り、一番上は飲み水に、2段目は果物を冷やし野菜を洗い、3段目は洗濯になど住民が決まりを作り大切に使ってきた。

春、田んぼに張られるのは鳥海山の雪解け水や湧水を集めた月光川の水。引き入れ口(頭首工)から、田んぼへ続く用水路に取り入れられ、月光川は遊佐町を横断し日本海へ注ぐ。

今から40年以上前、生活クラブと旧遊佐町農協(現JA庄内みどり)との交流が始まると、婦人部が中心となり石けん使用をすすめた。月光川の上流にアルミ再処理工場が進出した時には、生活クラブ組合員も一緒になって署名を集めるなどして移転を実現した。また、鳥海山山麓には農業用水や下流域集落の水道の水源ともなっている胴腹滝がある。その上流の採石計画が県に申請された時は、町が大掛かりな調査を行った。遊佐町は湧水や月光川の水質を守りながら米を作ってきた歴史がある。

田んぼで減農薬栽培をすすめるようになると、タニシやドジョウ、カエルなど生き物がどんどん増えた。6月初め、数えきれないトンボがいっせいに羽化し、夏の夕やみにホタルが舞う。 2009年、無農薬実験田に1羽のトキが訪れた。新潟県佐渡島で放鳥された10羽のうちの1羽だ。トキは田んぼや水辺にすむドジョウやカエルを好んで食べる。そんなえさを求めてやってきたのかもしれない。

このような田んぼで実り刈り取られた稲は、もみの状態で乾燥し保管される。精米して組合員の手に届く時の米の水分はほぼ14%。5キロ当たり700グラムの遊佐の水を含むことになる。

10年に稼働した「遊佐中央カントリーエレベーター」では、650ヘクタール分の米と300ヘクタール分の大豆を乾燥している。通常は灯油をたいてバーナーで熱風を送り乾燥するが、ここでは常温で一定湿度の乾いた空気を送り水分を飛ばす除湿乾燥を行う。たいた時に自然乾燥に近い食味と品質が得られ、組合員に喜ばれている。除湿乾燥は大量の電気を使うため、屋根には896枚のソーラーパネルを設置し発電を行っている。年間約15万6,000キロワットの発電量だ。

遊佐町が米作りに適した地である要因として、豊富な湧水のほかに、東風(ダシ)がある。田植えがすんで稲が成長し始めるころ、奥羽山脈から吹いてくる風だ。乾いたダシは稲の間を通り抜け、やっかいな病気をもたらす菌がつくのを防いでくれる。 8月は稲も十分に伸びて田んぼが一面の緑に覆われる季節だ。風が吹くとなびいて波うち、「風が見えますよ」とはJA庄内みどり遊佐支店の那須耕司さんの言葉。今年もおいしい米の収穫を心待ちにしたい。

JA庄内みどり遊佐支店の那須耕司さん。「遊佐中央カントリーエレベーターではもみの状態で保管するので鮮度が保たれます」

撮影/田嶋雅已 文/本紙・伊澤小枝子

『生活と自治』2018年8月号の記事を転載しました。

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