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いぶし銀の「サポーター」たち


生活クラブ生協の産地提携は、組合員と生産者、専従職員の「協業」と「分業」の歴史でもあると繰り返し本欄では伝えてきた。その歩みを側面から支えてきたのが2020年3月末現在、126の提携生産者からなる生活クラブ親生会であり、産地から生活クラブへの消費材の配送を担い続ける太陽ネットワーク物流(旧太陽食品販売)だ。

元太陽食品販売専務 榎本孝さん

榎本孝さん
それはトリプルセブンから始まった

「生活と自治」の紙面に掲載された「牛乳配達アルバイト募集」の告知。これを目にして「時間もあるし、やってみるか」と軽く考えたのが間違いだったかもしれないと榎本孝さん(71)。当時は大学4年、卒業後は教師として働くことになっていた。

すぐに生活クラブ生協の本部に連絡すると自宅に近い配送センターに行ってくれといわれた。待っていたのは練馬支部長の河野栄次さん(現・生活クラブ連合会顧問)。「今晩から職員寮として借りているアパートに入ってもらうから」と、ふとん一組を渡された。

こうなると牛乳配達だけを手伝うわけにもいかなくなり、早朝から深夜まで業務をこなしているうちに、新入りの職員がやってきた。彼と二人でトラックに乗り、配達コースを教えているうちに、卒業論文の最終考査日が来てしまった。

「あの日、途中の駅でトラックを止めてもらい、指導教授の面接を受けていれば、僕の人生は大きく変わっていただろうに、それができなかったんだな」と当時を思い起こす。結局、大学を中退して1973年3月に生活クラブに入職。河野支部長のもとで激務に追われる日々を送った。
「河野さんが本部の会議に出かけた日は戦々恐々。他の支部が処理しきれなかった実務を進んで引き受けて帰ってくるからです。この人は鬼だと心で泣きました。でも、河野さんは何事も率先してやり、仕事も速い。だから文句も言えなくてね」

太陽食品販売に移籍したのは78年。同社は山形県酒田市の平田牧場から生活クラブに豚肉やウインナー類を輸送するために76年に設立され、移籍した年には冷凍魚介類の輸送にも取り組むようになった。「当時の事業所は7坪、社員は7人、配達コースは7コースのトリプルセブン状態。荒川、多摩川、江戸川を越えるのが難儀な広域配達でした」と苦笑する。

現場を離れたのは81年。太陽食品販売の専務に就任し、2009年に退任し、相談役(顧問職)を経て14年に同社を退職した。

過去を悔いるでもなく、美化もせず取材に応じてくれた榎本さん。その静かな語り口には、生活クラブとともに生きてきた者としての誇りが満ちていた。

設立43年の「生活クラブ親生会」

「売り手」と「買い手」の関係では、とかく買い手が強いとされる商取引(ビジネス)の世界。この流れにあえて異議を唱え、生活クラブ生協は提携生産者と取り交わす基本契約書に、両者は「対等互恵」の関係にあると明記した。同様の意思表示をした契約書は流通事業者のみならず、生協陣営にも見当たらないことは本紙4月号の当欄でお伝えした。

その「対等互恵」の精神を現実のものにしていこうと生活クラブのオリジナル開発品(Sマーク消費材)の生産者が動き始めたのは1977年8月30日。東京、神奈川、埼玉、千葉、長野の各生活クラブの理事長、専務理事、部長宛に一通の通知が送付された。

通知の文面には豚肉の生産者の平田牧場社長(現会長)の新田嘉一さんと信州田舎みその生産者のマルモ青木味噌醤油(みそしょうゆ)醸造場社長(当時)の青木生吉さんが代表となり、「生活クラブ研究会」を設立、そこに参加する生産者は車の両輪のように連動し、生活クラブとともに運動を展開していく決意が示されていた。こうして発足した生活クラブ研究会は、82年に「生活クラブ親生会」(親生会)に改組された。

研究会設立から43年、生活クラブとともに商品社会の矛盾や問題の解決を目指して歩んできた生産者には、他界された方もいる。2010年には小野田製油所の小野田昭さん、12年には第2代親生会長を務めた奥和の奥村吉明さん、16年にはみついし昆布の榎本恵子さん、17年には米澤製油の安田大三さん、19年には青木生吉さんが亡くなられた。これまでのご尽力に改めて感謝申し上げるとともに、謹んでご冥福をお祈りしたい。

「仕事だから仕方がないと考えている人には、とても続けていけないのが生活クラブとの提携」と榎本さんが話してくれたことがある。それは小野田さん、奥村さん、安田さん、青木さんにも相通じる思いだったに違いない。生産者の世代交代が進むなか、そんな先人たちの心意気が時を超えて受け継がれることを願う。

元日東珈琲社員 生活クラブ担当
川端勇雅ゆうがさん

川端勇雅さん
けんか覚悟で会社を説得

日東珈琲が生活クラブ生協と提携したのは1983年。ディズニーランドが開園し、テレビドラマ「おしん」が放送された年です。その5年後の88年に生活クラブ親生会に加入しました。

生活クラブとの提携で学んだのは、とにかく原料の生産現場に足を運ぶことの重要性。それをすでに生活クラブは国内産地で徹底的に実践していて、同じことを「海外産のコーヒー豆でもできないか」と言われました。

ご存じのようにコーヒー豆や紅茶の原料調達は、ほぼ全面的に商社に依存せざるを得ないのが現実です。そんな鉄則ともいえる業界の慣行に対抗せよというのですから、会社の抵抗は頑強です。だから、けんかするくらいの覚悟で周囲を説得しました。

海外産地と直接提携するには、かなりの資金が必要になります。同時に産地との契約から輸送手段の確保、もろもろの諸手続きをすべて自社の責任で一から担おうというのですから、とても容易なことではありません。

それでもやってみよう、やるしかないと覚悟を決めたのは、生活クラブの組合員なら、産地直送のコーヒーの価値を分かって使ってくれると信じられたからです。そこが他の取引先とはものすごく違っていましたね。

こうして誕生したのがブラジルのジョンネット農園が自然栽培する「森のコーヒー」とパプアニューギニア産の「エリンバリ」の共同購入です。
私は日東珈琲の長谷川勝彦社長と双方の産地に出向き、農家の考え方と農法を徹底的に確認しました。社長は英語、ポルトガル語、スペイン語が堪能ですから現地との意思疎通もスムーズにいきました。さらに仕入れた豆の性質を見極め、最も適した焙煎を施したのが生活クラブの消費材です。

信じた通り、生活クラブの組合員は、中身がちゃんとしたものだと分かったら、きちんと利用し続けてくれる人たちでした。

だから、わたしは組合員との交流会で「買ってくれ」と言ったことはありません。「了解してくれたら使ってみて」でいいんですよ。
それが生活クラブとの提携で心から実感したことです。
(談)

※川端勇雅さんは2019年に日東珈琲を定年退職されました。記事は退職前に東京銀座の「カフェーパウリスタ」で伺った内容をまとめたものです。
初回注文5万点超えの記憶
 
いまは神奈川県内の農業法人で働く安岡祥文さん

本紙2月号の当欄では「山彦鰹(かつお)節」と生活クラブとの提携の歴史を紹介。北東京生活クラブの組合員が主体となって新規開発した「パックだし」の利用申込が計画数量の5万パックの倍に達したことをお伝えした。

当時の生活クラブの組合員数は23万人。その4割を超える人が利用したことになる。これだけの支持を得た新規開発品は、組合員が40万人になった現在もないという。当時の様子をパックだしの開発を担当した安岡祥文さん(63)はこう話す。

「生活クラブ神奈川に入職したのは1984年。96年に連合会計画部(現・事業本部)への出向を命じられました。担当は常温品の開発でしたが、開発のかの字も知らない自分に何ができるのかと心底悩みました」
右も左もわからないまま、命じられたのがパックだしの開発だ。昆布や削り節、乾しいたけなどのだし類の利用は頭打ちで、かつお本節に至っては年に2回の取り組みで間に合うほどになっていた。これら天然素材をそのまま生かしたパックだしを求める組合員の声は強く、早急な対応が求められた。

「消費材の開発経験が豊富な先輩に話を聞き、懸命に本を読んで勉強しました。そのうえで山彦鰹節に製造を依頼したのですが、社長の山下勝日己さんは容易にわかったと言ってくれません。交渉は私の前任者の時代から足かけ3年かかりました」

山下さんが承諾しなかったのは、市販のだしパックの原料が端材や残さなどから作られる「まがいもの」であり、「インチキな商売」に手を染めたくないとの考えが強かったからだ。そんな山下さんの心を動かしたのは「生活クラブは本物しか扱わない」という安岡さんの粘り強い説得だった。

「とにかくプレッシャーの連続でした。23万人の組合員に託されて、生産者との交渉に臨んでいる。それが専従者の役割ではないかと自分に言い聞かせ、パックだしの開発を無事に終えることができました。心底ほっとしたのが忘れられません」と安岡さんは笑みを浮かべた。

撮影/魚本勝之
文/生活クラブ連合会・山田衛

『生活と自治』2020年5月号「新連載 産地提携の半世紀」を転載しました。
【2020年5月20日掲載】

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