浜に吹く風―37歳漁師の胸中―最終回
【寄稿】福岡県宗像漁協 権田幸祐さん
「時化=漁が出来ない=収入がない=合理的なごみ拾いが出来る=収入にもなる=漁師としての環境も良くなる」仕組みを創造したい!
「時化=漁が出来ない=収入がない=合理的なごみ拾いが出来る=収入にもなる=漁師としての環境も良くなる」仕組みを創造したい!
みなさん、こんにちは。この生活クラブオリジナルレポートに何度か寄稿させていただき、わたしたち沿岸漁業者の「いま」を現場から発信させてもらってきた漁師の権田幸祐です。わたしは「少しでも何かの役にたてる事はないか」思いを大切にしつつ、頑張って働いて行けたら幸せだと思い漁業を続けています。当然、理想だけでは生きていけませんが、連れ合いをはじめ、周囲の多くの方々がわたしを支えてくれる限り、たとえ収入がゼロになってもわたしは漁師を続けていく覚悟です。
なぜ、そこまで漁師であり続けることにこだわるのかと考え込むこともままあります。やはり単なる「わがまま」なのか、あるいは先祖代々続いてきた漁師の家系や地元の文化や伝統を継承し、次の世代に伝えていきたいという「理想」にひとり勝手にとらわれているだけのことなのか……。それとも自分に期待してくれる人の思いに応えようと己を懸命に鼓舞することで「承認欲求」を満たそうとしているのか、ないしは大好きな漁師仲間や鐘崎という漁業共同体に自分は依存しているだけではないかと自己嫌悪に似た気持ちにも陥ることもあります。そして、自分には漁師以外の生き方はできないというのが正直なところなのだというベタな結論に至るのです。
わたしが漁師として生きるには「犠牲」が常に付いて回ります。自分が漁師であることにこだわるがゆえに、家族に経済的な負担を強いていないかと不安を覚えない日はありません。にもかかわらず、わたしが漁師であり続けられるのは、連れ合いと子どもたちが「幸せだ」と言ってくれ、近しい人びとが「大事な仕事」だと背中を押してくれるからです。だから「綱渡り」の綱から落ちずにいられる、まだ漁師を続けられているのだとありがたく思っています。この感謝は鐘崎という漁村、そこで培われた人との関係、漁業を介した新たな人の出会いに対しても変わりません。それぞれがさまざまな役割や労働を担い、その「つらなり」が自分という存在を成り立たせている、ああ、ありがたいと感じています。
むろん現実は厳しい。それでも、うまくて安い魚を食べたいなら
それは漁業という生業(なりわい)を成り立たせてくれている自然や環境への畏怖と尊敬にも通じています。この心を常に持ち続ける漁師でありたいと願い、わたしは修練を重ねています。とはいえ道は険しく、日々直面する家計のやりくりや不漁に魚価安、人と人との「しがらみ」などに振り回され、その境地に行き着くにはほど遠いのが実情ですが、下を向くのだけはやめよう、とにかく前向きにがんばっていこうと自分で自分を𠮟咤(しった)激励しています。そうしたなか、わたしが漁師仲間と始めた活動の一つに「魚さばき教室」があります。もう10年以上続けていますが、背景には「魚をさばける人が少ない」「どう料理すれば良いのかわからない」といった人が非常に多いという現実があります。実際に魚を家庭で消費する割合は年々少なくなっていますし、消費しても食べるだけ、焼くだけといった商品を購入することが大半になってきました。
これは漁師としての実感ですが、魚は自分で調理出来るようになったほうが格段においしく食べられます。わたしたち鐘崎の漁師がいの一番に叩(たた)き込まれる仕事は魚さばきです。だから、漁師ならばだれでも自分で魚をさばけます。出漁すれば船に泊まり込んで漁をするため、新米漁師に与えられる仕事は「賄(まかな)い」です。だから普通に魚がさばけるようになるわけですが、それだけではありません。ある程度加工された商品を購入するよりも、魚一尾を丸ごとそのまま買った方が確実に安いですし、加工の過程で廃棄されてしまう部位も余すことなく消費でき、何よりも新鮮な魚を購入できる確率も高まります。魚をさばく技術を高めれば料理の幅も広がりますし、おいしい魚を安く買えるメリットがあります。
だとすれば、自分たち漁師が社会の役に立てるのではないかと魚さばき教室を始めました。おいしいものを食べるのは「幸せ」に直結します。何よりも自分の作った料理で喜んでもらえるのが、わたしたち漁師にとっては至福の時間です。そうはいっても、家庭で魚を丸ごと一尾購入し、消費するのはハードルが高いのは事実。まさに漁師泣かせの歯がみするような現実ですが、最近は「趣味」や「たしなみ」として魚のさばき方を覚えたいという男性が増えてきました。その後押しができるようにわたしたちも頑張りたいです。月に一度でも時間の余裕のある時を使って、魚料理を振る舞い、舌鼓を打つのは素晴らしい趣味ですし、そういう気持ちの人が近くにいるだけで、周囲の人たちの人生も少し豊かになるのではないでしょうか。「魚の消費拡大」などと大風呂敷を広げるつもりは毛頭ありませんが、この活動を地道に広げていくつもりです。
漁師の特性を生かした「社会貢献」を考えたとき――
もう一つ、わたしたちが進めているのが「漁師のごみ拾い活動」です。始めたきっかけはたくさんありますが、海ごみが年々増えてきているのを肌で感じていたのが一番の要因です。わたしたちは日常的に海に出ていますから、海ごみに遭遇する機会が多く、悩まされてもきました。近年では大雨による災害も多発し、その際に流出したものが最終的に海に到達するのです。おそらくは山奥に不法投棄されたであろう冷蔵庫が漂流していたり、大木が漂流していたりと様々ですが、それらに衝突してしまい船底に穴が空いてしまうといった漁船の事故も増えています。スクリューにゴミが絡み、スクリューのみならずエンジンまで破壊してしまうケースが頻発していますし、マイクロプラスチックがエンジンの冷却システムに入り込み、オーバーヒートを起こしてしまうなど、海ゴミによる被害は枚挙にいとまが無いほど増加しています。そうした「海ごみ遭遇事故」を起こしてしまった場合、かなりの資金を投入して望んだ漁が出来なくなるばかりか、修理費用だけで数百万円の出費を余儀なくされます。自力航行ができなくなる場合もあり、その際には漁師仲間に操業を中断してもらい、牽引されての帰港となります。わたしが漁師になった頃から海ごみ事故の危険とは隣り合わせでしたが、その実態や現状はほとんど社会には知らされず、泣き寝入り状態で終わるのが実情でした。わたしたちは出漁すれば遭遇した海ごみを魚と一緒に持ち帰るようにしています。この日常化しているわたしたちの現実を広く社会に伝えようと情報発信と活動を本格化させました。
風が強く、波が荒れて時化(しけ)になれば漁には出られませんが、このときこそ海岸にごみが多く押し寄せます。だから海岸清掃にはもってこいなのです。おまけに漁は休みですから、漁師仲間に声がかけやすいという条件がそろいます。まさに「海ごみ清掃日和」というわけです。これなら事前に日程が決まっている「ビーチクリーン」よりも効率よくごみを集められますし、それらの搬出についても漁師なら各自がトラックなどの運搬手段を持っています。さらに風向きや潮の流れを考慮し、漁師なら一般の人が容易に立ち入れないポイントのゴミを回収するという「離れ業」までやってのけられます。ここに漁師だからこそできる「海の環境改善プロジェクト」の社会的な価値と意味があると自負しているところです。
むろん、課題がないわけではありません。海ごみ問題の解決を望み、清掃に参加している人のほとんどが「ボランティア参加」なのです。海ごみを魚とともに持ち帰る漁師の日常も「異常」ですが、集めたごみの処分費用も自己負担というケースがほぼ常態化しています。政府が定めた現行ルールでは手間もカネも拾った者の負担が当たり前の「拾った者負け」の状態で、「人がやらないこと、目をつぶっていることを進んで無償でやっている。なぜなら、自分たち漁師は海という大自然の恩恵を受けて生きているからだ」という精神論に依拠しなければ推進できないのが現実なのです。このままでは経済的に余裕がある人しか続かない活動になってしまう恐れが出てきました。
地域には「環境問題の深刻さと切実さはわかっているし、その解決に人知れず尽力するのが漁師。それをひけらかすようなまねはけしからん。慎むべきではないか」と意見してくれる人もいますし、わたしは「ええ格好しぃ」になりたいわけではなく、精神論に固執し、仲間に奉仕活動を強要する気もありませんが、漁師だからこそできる取り組みが眼前にあるわけです。ならば、わたしたちの特性を生かし、社会問題の解決に少しでも貢献したいのです。そして、その実践を多少なりとも収入に繋げ、より多くの漁師が参加しやすい環境を構築していきたいと強く思っています。現時点では夢物語に過ぎませんが、ごみ拾いに参加すれば日当くらい支払える団体にしたいのです。時化=漁が出来ない=収入がない=合理的なゴミ拾いが出来る=収入にもなり、漁師としての環境も良くなるという好循環を創造したい、必ず創り上げたいのです。その第一歩が2年前の「一般社団法人シーソンズ」の立ち上げであり、わたしが代表を務めさせてもらっています。(https://sea-sons.jp)をご覧ください。
まずは共感してくれる仲間とともに、小さなコミュニティを起点としなければ何も始まらないとわたしは考えています。社会に認知されるような実績や功績は何一つなく、何ら影響力もない若造ですが「漁師」という仕事を通し、少しでも社会の役に立ちたいという志を支えに微力ながら頑張っていきたいです。これからも多くの方々と情報を共有し、漁師として頑張ることができ、共存していける環境が日本の津々浦々から姿を消してしまうことがないよう、漁師仲間と試行錯誤を重ねていきます。「過剰なまでの情報社会」といわれる時代です。だからこそ物事を正しく認識し、解釈しなければならないと思います。それには自分に都合の良い情報だけを取り入れるのではなく、より俯瞰(ふかん)的かつ総合的な視点に立たなければいけないと自分に言い聞かせています。まずはわたしたちのホームページを開いてみてください。そのうえで意見交換ができたらうれしいです。
撮影/魚本勝之