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立ち上がる二本松の有機農業者(後編) 挫折乗り越え、ソーラーシェアリングに賭ける

淑徳大学客員教授 金子勝さん

福島県二本松市で「二本松有機農業研究会」を立ち上げた大内信一さんの指導を受け、何度も困難を乗り越えて立ち上がってきた新規就農者が近藤恵さん(43)だ。有機農業を目指して二本松にやって来たが、原発事故が彼の夢を根源から奪い去った。その後も波瀾万丈に満ちた「挫折」との闘いが続く。

 
二本松営農ソーラー株式会社社長の近藤恵さん (垂直ソーラーパネルの前で)

新規就農して専業農家に。原発事故で挫折するもソーラーシェアリングで

近藤恵さんは1979年生まれ。東京都あきる野市のサラリーマン家庭で育った。両親がクリスチャンだったこともあり、中学を卒業すると山形県小国町の基督教独立学園に進んだ。内村鑑三の教えを建学の精神とする同学園は少人数全寮制の高校で、家畜の世話や農作業をするクラブ活動があった。その体験を通して農業に興味を持ち、筑波大学の第2学群生物資源学類に進学し、橘泰憲講師の下で有機農業の大切さを学んだ。さらに千葉県成田市三里塚の有機農業家で知られる小泉英政さんに就いて1年半ほど学び、2006年からは大内信一さんの指導の下、二本松市で農業を始めた。

福島市に居を構え、週3日は保育園でアルバイトをしながら、60アールの水田を耕す兼業農家としての暮らしがはじまった。2年後、大内さんが無償で農業機械を貸してくれたこともあって、ようやく3町歩(3ヘクタール)の農地を耕す専業農家になった。5年の歳月をかけ、妻と二人の子どもと暮らしていけるだけの収入が農業で得られるようになり、大内さんの近所の住宅を300万円で購入した。ところが、その矢先に福島原発事故が発生する。「離陸した直後に翼をもぎとられた感じだった」と近藤さんは言う。

小児甲状腺がんと診断される子どもが増えるなか、家族を宮城県美里町の義母の実家に避難させ、ひとり福島に残った。2012年にはコメを作付けしてみたが、放射能検査を受けるとチェルノブイリ原発事故後の基準は下回ったものの20ベクレルが検出された。これまでコメを買ってくれていた人に手紙を書いて購入を依頼したが、結局、二本松で専業農家として暮らしていくことを断念し、宮城に避難せざるを得なかった。大きな挫折というしかない。

そして2013年、近藤さんは「ふくしま未来農業協同組合」の臨時職員として二本松市に戻る。最初は土壌放射能検査員。次は汚染米処分作業員、その次は政府の賠償方針を農家に伝える側の損害賠償担当者となった。時を同じくして福島百年未来塾で国際支援を行う非営利活動法人のAPLA(Alternative People’s Linkage in Asia)とのつながりが生まれ、ドイツの再生可能エネルギー(再エネ)の現状を視察する機会を得た。再エネに対する農協の動きが遅いことに痺れを切らし、2015年に農協を辞めて、再エネを市民でつくる飯舘電力に就職した。

2019年11月、近藤さんが参加する「⼆本松ご当地エネルギーをみんなで考える株式会社」(略称・市民電力ゴチカン)は、地元⽣協(みやぎ⽣協・コープふくしま)、環境エネルギー政策研究所(ISEP)と営農型発電会社「二本松営農ソーラー株式会社」を設立し、近藤さんは社長になった。二本松営農ソーラーは地権者14人から耕作放棄地を購入し、約6町歩(6ヘクタール)の農地を所有。その農地の上に間隔を空けて太陽光パネルを置くソーラーシェアリングシステムを設置した。

 

太陽光発電は3900キロワットの発電能力(618世帯分:二本松市の消費電力の3パーセント相当)を有す。農地ではシャインマスカットに大豆や麦、エゴマやイエローマスタードを有機栽培し、飼育している2頭の牛に牧草を食べさせている。ブドウは出荷できるまで5年かかるが、今後の収益向上に寄与するはずだ。現時点での太陽光発電の売電収入は1億6000万円で、この一部を営農支援に振り分ける必要があり、農業だけで採算をとるのは難しい。それにしても近藤さんの並外れた精神力には脱帽するしかない。あの原発事故で味わった大きな挫折を乗り越え、再エネを活用した有機農業の担い手としてカムバックしてきたのだ。

しぶとい。実にしぶとい。諦めず勇気を奮い立たせて何度でも困難に立ち向かう近藤さん。その守りに入ることを知らない進取に富んだ精神が有機にんじんジュースの開発の原動力となった。二本松営農ソーラー設立後には、希少なイエローマスタードの栽培にも取り組んだ。再エネ分野でも、日本初の営農垂直ソーラーを導入した。垂直ソーラーはドイツの技術を日本向けにアレンジしたものだ。従来のソーラーシェアリングは装置の幅の関係で、農作業の際に大型機械を入れるのが難しくなる。対して垂直ソーラーは農地を囲む塀のように立っているため、大型機械が入りやすい。いまは牧草を育てているが、垂直ソーラーは、発電時間が朝夕にピークになるので、通常、昼間に集中する発電量をならすことができる。

農場長は21歳。音楽関係の仕事からソーラー事業に新規参入者も

エゴマの収穫をする塚田晴さん

近藤さんは二本松の有機農業の先駆者たちが自分を育ててくれたように、今度は若き担い手を自身で育てようとしている。現在、二本松営農ソーラーの農業分野「株式会社Sunshine(サンシャイン)」は千葉市生まれの塚田晴さん(21)が農場長を務める。塚田さんは1歳になる2003年、高校教師の父親の仕事の関係から家族で二本松市に移り住んだ。その後、二本松有機農業研究会の大内信一が作る野菜に出会い、援農活動にも参加した。塚田一家も福島原発事故で大きな困難に見舞われ、父は二本松市に残ったが小学生だった塚田さんは母と兵庫県神戸市に避難した。やがて父も仕事が決まり、一家で兵庫県たつの市に引っ越したという。

「幼い頃の農業体験や福島の役に立ちたいという気持ちが強かった」と塚田さん。農業で生きることを志し、三重県伊賀市の愛農学園高校に進学した。全国唯一の少人数全寮制私立農業高校で、果樹部の顧問の指導でブドウ栽培に精を出した。そこに近藤恵さんがスカウトにやってきた。わざわざ福島から三重県伊賀市まで就職の誘いに来てくれた熱意に心が動いたのも事実だが、何より垂直ソーラーの導入を進めた近藤さんのチャレンジ精神に惹(ひ)きつけられた。2020年4月、愛農学園高校を卒業と同時に二本松のサンシャインに就職する。


両親が甲状腺がんも含めて子どもの健康を心配したのは容易に想像できたが、幼少時代を過ごした二本松は避難区域ではなかったにもかかわらず、なぜ、兵庫への避難を決めたのかという疑問が塚田さんの心に長くとどまっていた。どこかで故郷の福島を「捨てた」という意識が残っていたのかもしれないと塚田さん。どうにか福島の役に立ちたいと思ったという。同時に子どもの頃、有機農業者が冷たい視線を浴びていたのを思い起こし、あまりに有機農業の規定を厳格にすることで普通の農家と対立するのは好ましくないと考えるようにもなった。いまは①ソーラーシェアリングによる再エネ自給②消費者が参加する観光農業でブドウを栽培する③牛の放牧をするという現行のビジネスモデルの安定と充実を図り、「いつかは独立し参加型観光農業でブドウ栽培をしたい」と地域のプレーヤーになるのを夢見る塚田さん。その原点には幼い頃の援農経験があるに違いない。

新たにサンシャインで働くようになった人もいる。菅野雄貴さん(39)さんだ。きゅうりの栽培に勤しむ隣家の農家の息子で、東京で音楽関係の仕事に就いたが故郷にUターンした。「長男だから戻ってきたのではなく、自分の好きな町だから戻ったのだ」と言うが、自宅に隣接した二本松営農ソーラーに興味を持ち、サンシャインに職を求めた。以前は本当に原発の代わりになるのか、山を削ってまで設置する必要があるのかと太陽光発電にマイナスイメージを持っていたが「いまは飛び込んで学んでみたい」と言う。戸外で働くようになり、冷涼な大気のなかに身を置きながら、空を10秒間見続けることが心地よいと感じる。そして塚田さん同様、やがては独立したいと思うという。

菅野雄貴さん

これから10年後20年後の近未来を想像してみたい。塚田さんや菅野さんが独立した後、農作業に参加してくれる都市生活者や子どもたちがやってくるようになるのではないか。その人たちが農作業をする姿を見て、近隣農家の跡継ぎが彼らの真似(まね)をするようになるのではないか。きっとそこから、また新たな未来の有機農業者が生まれてくるのではないか。そんな日が来るのを私は夢見ている。

撮影/魚本勝之

 
かねこ・まさる
1952年東京都生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。現在、淑徳大学客員教授、慶應義塾大学名誉教授。『平成経済衰 退の本質』(岩波新書)『メガリスク時代の「日本再生」戦略「分散革命ニューディール」という希望』(共著、筑摩選書)など著書・共著多数。近著に『岸田自民で日本が瓦解する日 アメリカ、中国、欧州のはざまで閉塞する日本の活路』(徳間書店)がある。

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