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沖縄から届く 歌姫たちの希望の歌声 アイドル評論家 中森明夫

寄稿 中森ゼミプレ企画

ただいま当欄ではアイドル評論家(当方はアイドル文化研究者と勝手に呼んでおります)の中森明夫さんに教授を務めてもらい、社会で生起するさまざまな現象や生活クラブ生協の理念と実践をテーマに対話を重ねる中森ゼミの連載中です。今回は2024年7月に掲載した「届け!沖縄の心 私たちは「新たな戦前」を望んでいない」を受け、中森さんに沖縄への思いをつづってもらいました。
 

日本のアイドル第1号は南沙織だ、と言われる。1971年6月に『17才』という曲でデビューした。沖縄在住の少女である。同じその月に日米両政府によって沖縄返還協定が調印されたのだ。つまり、わが国のアイドル文化は沖縄返還から始まった、と言ってよい。

南沙織をデビューさせたのは、酒井政利である。CBS・ソニーレコードのプロデューサーだ。当時の同社はアメリカのCBSレコードの子会社的な立ち位置にあった。アメリカ統治下の沖縄からやって来た少女が、米国のレコード会社の傘下からデビューし、日本のアイドル第1号となった――その意味は大きい。

わが国の芸能界は“アメリカの影”を帯びている。太平洋戦争で日本は敗北。米軍が上陸して、各地にキャンプ(駐屯地)を敷く。米兵を楽しませるためのキャンプめぐりのバンドマン出身者らが、戦後日本の芸能界を創り上げたのだ。

渡辺プロダクションの渡邊晋、ホリプロダクションの堀威夫、サンミュージックの相澤秀禎らである。アメリカに敗戦しなければ、彼らはキャンプめぐりをすることもなく、芸能プロを立ち上げなかったかもしれない。すなわち、日本の芸能界の形は、まったく違ったものになっていたことだろう。

堀威夫と同じシャズバンドでキャンプめぐりをしていた井原高忠は、日本テレビの第1期社員となった。アメリカのテレビ局を視察して、バラエティー番組のノウハウを日本に持ち帰り、『光子の窓』や『シャボン玉ホリデー』を制作した。

その井原の下で放送開始されたのが、オーディション番組『スター誕生!』である。森昌子、桜田淳子、山口百恵の花の中3トリオ、伊藤咲子、岩崎宏美、ピンク・レディーらを輩出して、1970年代のアイドルブームを盛り上げた。

南沙織がデビューして『スター誕生!』が放送開始された1971年は、ドルショックの年である。アメリカの通貨(ドル)の価値が相対化されたその年に、日本のアイドル文化は誕生したのだ。
 
当時、私は11歳だった。兄の部屋へ忍び込んで、たまたまつけたトランジスタラジオから流れてきたのが、南沙織の『17才』の歌声である。目の前の風景が一変したように見えた。“ポップの風”を感じたのだ。

アイドルに魅せられ、三重県の漁村から15歳で上京して、20歳でライターになった。1980年代にアイドル雑誌で原稿を書きまくった。いつしか「アイドル評論家」の肩書きで呼ばれるようになり、気がつけば、もう40年以上が過ぎている。アイドルの魅力を伝えることが、生涯の仕事となったのだ。

私が初めて沖縄の地を訪れたのは、1995年の初夏だった。「沖縄にすごい芸能スクールがありますよ」と誘われて、レコード会社のスタッフらと一緒に視察したのだ。安室奈美恵を輩出した沖縄アクターズスクールである。那覇市の小さなホールで開かれたスクール生たちの発表会を見た。ヨチヨチ歩きの幼女から20歳の女性まで次から次へとステージに立つ沖縄女子たちの躍動感! その歌とダンスと輝く笑顔に魅せられた。

秋には写真家・篠山紀信氏をともなって再び沖縄へ。週刊誌の巻頭グラビア頁でアクターズスクールの生徒たちを撮影するために。沖縄の真っ青な海を臨む高台に音楽が鳴り響き、少女たちが踊りまくる。篠山氏が撮った写真は大きな反響を呼んだ。今、そのページを見ると……。SPEEDになる前の小学生の4人がいる。14歳の知念里奈もいる。そうして、なんと11歳の山田優や9歳の満島ひかりもいるのだ!
  
彼女らの写真を撮った1995年秋といえば、駐留米兵による少女暴行事件が発覚して、まさに沖縄が揺れていた。大田昌秀知事の米軍用地強制使用・代理署名拒否、地位協定見直し論議から約8万5000人の県民総決起大会へ……。その怒りは沸点に達していたのである。

戦後50年になろうというのに沖縄の過酷な状況は変わらない。どうしてこの小さな島にいまだ米軍基地が「わがもの顔」で居座り、県民の治安さえもがおびやかされなければならないのか?  あれから足掛け30年が過ぎたけれど、いまだその状況は続いている。

2024年6月の第14回沖縄県議会選挙では、玉城デニー知事を支える与党は大敗した。辺野古新基地建設に反対する「オール沖縄」勢力が県議選で過半数を下回る初めての事態となったのである。

さらに6月28日、名護市では辺野古新基地反対派の女性が道路に飛び出し、トラックにはねられ重傷を負う。制止しようとした警備員の男性が巻き込まれて死亡する痛ましい事故が起こった。

また、米兵による少女に対する性的暴行事件が3月に起訴されていたにもかかわらず、5月にさらに性的暴行事件が発生し、6月25日になるまで沖縄県に全く連絡がなかったことも明らかにされた。「卑劣な犯罪が再び発覚したことは断じて許せない」と玉城デニー知事は会見で憤りを表明している。
 
しかし、同じ6月にこんな記事を見つけたのだ。

<Awitchさん 初の沖縄グローバルアンバサダーに就任>

沖縄出身の女性ラッパー・Awitchが、沖縄の魅力を国内外に発信する初のグローバルアンバサダーに就任して、那覇市で就任式が開かれた。その後、玉城知事と会い、自身がプロデュースする“ハブ酒”を知事にプレゼントしたという。

Awitchは注目の存在だ。那覇市出身、19歳で渡米し、アフリカ系アメリカ人の男性と結婚して娘を産む。夫と死別し、帰国。本格的な音楽活動を始める。

2024年4月、アメリカ・カリフォルニア州で開かれた世界最大級の音楽フェスティバル‘Coachella (コーチェラ)’のステージにAwitchが立った。

キモノ風のきらびやかな衣装をなびかせて現れたAwitchは「今日はみんなを旅に連れて行くよ!」と叫ぶ。披露されたのは『RASEN in OKINAWA』。その場に沖縄の風が吹き過ぎるような圧巻のステージだった。身が震えた。

Awitchには『琉球愛歌Remix』という曲がある。同じく沖縄出身のバンド・MONGOL800の曲『琉球愛歌』をヒップホップ調にアレンジしてリミックスしたものだ。
 
<忘れるな琉球の心
武力を使わず自然を愛する
自分を捨てて、
誰かのため何かができる>
 
その歌声に胸を打たれる。件のメッセージは喜納昌吉&チャンプルーズの『すべての武器を楽器に』、さらにはルポライター・竹中労が沖縄返還の年に刊行した『琉球共和国』の副題<汝、花を武器とせよ!>と連なるものだ。

「沖縄が教えてくれた自然と共に生きるたくましさや、平和への想い、さまざまな運命と対峙するしたたかさ……。世界の連帯に向けて、その架け橋の一端を担えるように今後より一層、沖縄が持つ文化、思想、歴史など島の宝を世界の人に共有できるよう努めていきます」
 
Awitchによる沖縄グローバルアンバサダー就任のコメントだ。
 
1971年、日本のアイドル文化の扉を開いた南沙織。1990年代半ば、日本中の少女たちを踊らせた安室奈美恵、SPEED。

そして2020年代半ばのこの今、困難な状況に立ち至る沖縄から現れて、より強く鮮明なメッセージを魅力的に発するAwitch。

揺れる沖縄からいつも時代の歌姫たちが現れて、私たちに希望の歌声を届けてくれるのだ。


撮影/魚本勝之
構成/生活クラブ連合会 山田衛
 

なかもり・あきお
作家・アイドル評論家。三重県生まれ。さまざまなメディアに執筆、出演。「おたく」という語の生みの親。『東京トンガリキッズ』『アイドルにっぽん』『午前32時の能年玲奈』『寂しさの力』『青い秋』など著書多数。小説『アナーキー・イン・ザ・JP』で三島由紀夫賞候補となる。

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