厳しい農産加工の情勢にあって いきいきと、製造現場で立ち働く人がいる

食品衛生法の見直しで農産加工品の販売に厳しい基準が適用されるようになった。自分の畑で採れた作物を農家自身が保存食として自家消費するのはかまわないが、それを商品として流通販売するというなら、所管省庁が定めた「基準」を厳守しなければならないという規制強化が進められている。
食品の製造販売には衛生管理の徹底が不可欠なのはいうまでもないが、そのための設備投資にかなりの費用が求められるとなれば、製造販売の継続を断念せざるを得ない事業者が多くなるのは当然だ。その代表とされるのがいぶりがっこや梅干しと報じられている。
今回の法規制の背景には「浅漬け」による食中毒の断続的発生への対処という側面もあるようだが、農家からは「たとえ借金をして製造販売を続けても、コメの消費量が減り続けるかぎり、漬物などの農産加工品の販売量は頭打ちのままで回復の兆しも見えない」「加工したくても原料がない。気候変動の影響で思うように作物が育ってもくれない。いまがやめどき」という声が聞こえてくる。
こうしたなか、94歳になった今でも自ら田畑を耕し、収穫した作物を砂糖に塩、しょうゆに酢などの基礎調味料だけで加工したオリジナル農産加工品の製造現場でいきいきと立ち働く人がいる。その人の口癖は「わたしはなぁんも特別なことはしとらん。当たり前なこと、子どもの頃から当たり前にしてきたことをいまも続けてるだけ」。
この当たり前から生まれた品々が福岡県民の関心を集めている。むろん、人の健康を害するような事故を起こしたことはなく、その一つ一つが「発酵」という自然の力に守られているからであり、その力を引き出すための人の知恵と労働のたまものだからではないか。

福岡県飯塚市在住で地域の人々に「ながのばあちゃん」の名で親しまれる長野路代さん(94)。かつて長崎街道の宿場町だった「内野宿」で生まれ育ち、いまも農産加工の現場でいきいきと元気に働く。60歳から仲間と共に起業した「野々実会」の代表を務め、30年以上も農産加工品を製造。周囲をうならせるヒット商品を各地に送り出し、今に通じる畑作の技術や食術を多世代の人々に伝え続けている。
「毎年数百キロ採れる梅の実が、今年は3粒しかならんかった」
「毎年、数百キロ採れる梅の実が今年はたった3粒。梅を買って漬けるのは人生で今年が初めてです」。不作の理由は季節外れに気温が高くなり梅の開花が早く、そのあと気温が下がったことで花が凍結。落ちてしまって結実に至らなかったからだという。
「サツマイモは1000本、唐辛子を500本、たいした量の苗を植えましたよ。サツマイモは、マルチをはっているからか高気温で茎の元が煮えてしまい、たくさん枯れて」。6月中旬の畑には、内野地区特有とされる葉の片面だけが紫に色づく紫蘇(しそ)が成長している。「これで梅を漬けると紫色が濃くつきます」(長野さん)。そのほかにナスやサトイモが植えられていた。自宅裏の畑地の農産物はすべて有機・無農薬栽培だ。
「サツマイモは1000本、唐辛子を500本、たいした量の苗を植えましたよ。サツマイモは、マルチをはっているからか高気温で茎の元が煮えてしまい、たくさん枯れて」。6月中旬の畑には、内野地区特有とされる葉の片面だけが紫に色づく紫蘇(しそ)が成長している。「これで梅を漬けると紫色が濃くつきます」(長野さん)。そのほかにナスやサトイモが植えられていた。自宅裏の畑地の農産物はすべて有機・無農薬栽培だ。

畑の外周には高い柵がもうけられ、作物を目当てにやってくる獣たちに備える。戦後、針葉樹ばかりを植樹をしたことで山菜や木の実がなる広葉樹林の減少が原因と考えられているという。
イノシシは柵の下を掘って入ってくる。その穴を埋めても、次から次と別のところから入ってきてサツマイモに被害が出た。彼らの俊敏な動きには目が回る。いかんともしがたく、地元の猟師に鉄砲で撃ってもらったが「だれもできんからとわたしが解体したとよ。みんなおいしいって食べとったが、わたしはどうにも、食べられんかった」と長野さん。

夫と二人のときはいまよりも広い土地での農作業だったいう。米の裏作に夫婦二人で作った高菜の生産量は3トン。高菜は漬け物に加工し保存ができるから、豊作による暴落の負い目を受けないことから選んだ作物だったという。亡き父親から、どれだけ収穫でき、いくら収入が得られるかを把握することで次につなげられると学んだという。
まずは目の前のことを一生懸命にやり、その工程では常に創意工夫をしてきた。どうしたら上手に早く、おいしくきれいにできるか、常にその意味を考える。そしていま、農家にしかできないことを言葉で話す必要があると思うようになったという。
江戸後期のおもてなし料理を再現 飯塚ブランド「白おこわ(しし汁付き)」

江戸時代、長崎と小倉を結んだ長崎街道のうち、福岡藩内には「筑前六宿」と呼ばれる六つの宿場町があった。ここ内野宿と山家宿との間には最大の難所とされた冷水峠がある。その頂上付近には旅人が立ち寄る茶屋があり、「白おこわ」が供されたという。約200年前、シーボルトが茶屋の風景を紀行文に残している。
文献をヒントに再現された「白おこわ」は飯塚ブランドとなった。農家の女性たちが長く続けられる仕事をつくろうと立ち上げた「野々実会」が、10年の試行錯誤を経て生み出した逸品だ。しし汁を付け、弁当用に工夫を重ねて注文販売し、催事にも出品した。
長野さんは、2023(令和5)年度・農山漁村女性活躍表彰で審査員特別賞を授与している。長年にわたって手作りの加工品を作り続け、食料の保存や伝統料理の普及に貢献したこと、いまなお現役で活動していることが評価された。
「内野宿の歴史を一から研究して白おこわをやり始めました。炊いたもち米にのっかっとる鶏肉の炊き方は私流です」と、長野さんは加工所の厨房(ちゅうぼう)で「白おこわ」を作ってみせてくれた。
食感をよくするために鶏肉のモモとムネを半々の割合で、ゴボウ、干し椎茸とじっくりと煮汁がほとんどなくなるまで煮しめる。取材前夜に仕込んでくれていたため、味がより均等に肉にしみている。つまんで口にしてみると、ゴボウと椎茸の香りが移っており、肉くささがない。薄味でほろほろした食感だ。


だから「冷めてもおいしいの」と長野さん。ネギ入りの卵焼きと、地域で特有の産物、「地ばいキュウリ」の粕漬けが添えられる。地ばいキュウリは内野宿に古くから伝わる在来種という。
「食べる文化があってこそ、種を自分たちの手で守ることにつながりますね」と長野さん。塩、ザラメ、酒粕、清酒または焼酎を使い丁寧に仕込む。自慢の品だ。
「内野といえば白おこわ」となるよう、長野さんはこの弁当が人々に知れ渡り、地域の食文化になることを目指している。
唐辛子のうま味成分を生かした 発酵調味料、「赤麹(あかこうじ)」

「やっぱり、化学調味料と添加物は、使わん方がよかね。代わりになるものをつくろうと思ってこの『赤麹』を考案しました。唐辛子のうま味成分を利用したオリジナルの発酵調味料です」
赤麹も「野々実会」が開発したヒット商品のひとつ。長野さんが毎年栽培する唐辛子が使われる。4~5月に苗を定植する。青唐辛子は8月に収穫して「手づくりゆずごしょう」や「こしょう酢」の原材料になる。「赤麹」は10月頃、畑で真っ赤に完熟した唐辛子が原料となる。完熟させることでうま味成分が頂点に達するという。収穫後はペースト状に一次加工して冷凍し、その都度、解凍したものを甘酒と塩と混ぜ瓶詰め製品となる。


農業の兼業化が厳しい時代といわれ、農村コミュニティそのものが衰退の方向にあるいま、長野さんが取り組む生産活動と、収穫した農産物の加工・販売こそ、今後の地域循環型農業のモデルとなるのではないだろうか。
内野地区へ居を移し、弟子として加工場へ通う若い女性が「私も自宅でつくりますが、長野さんの味に近づけるのは簡単じゃない」と話す。長野さんは「もち米と麹(こうじ)でつくると甘みの濃度が全然ちがいます。汁ばかりをとって煮詰めると甘酒飴になり、とっても栄養価が高いんですよ。私が子どものときは、年中、家に甘酒が造ってありました。冬の寒いときはあっためてのんで休む、夏はつめたくして体を冷やす。昔はお金を持って買いに行くという風習がありませんからね。外の仕事に行ききらんようなったばあちゃんたちが、ほかにも米粉の団子や黒砂糖を使っておやつを手作りしていました」と、昔を懐かしむ。
内野地区へ居を移し、弟子として加工場へ通う若い女性が「私も自宅でつくりますが、長野さんの味に近づけるのは簡単じゃない」と話す。長野さんは「もち米と麹(こうじ)でつくると甘みの濃度が全然ちがいます。汁ばかりをとって煮詰めると甘酒飴になり、とっても栄養価が高いんですよ。私が子どものときは、年中、家に甘酒が造ってありました。冬の寒いときはあっためてのんで休む、夏はつめたくして体を冷やす。昔はお金を持って買いに行くという風習がありませんからね。外の仕事に行ききらんようなったばあちゃんたちが、ほかにも米粉の団子や黒砂糖を使っておやつを手作りしていました」と、昔を懐かしむ。
内野の憩いの広場 大イチョウの下で人々が笑顔に

「子どものころは、ここに毎日遊びにきましたよ。いま、イチョウをかたどった最中(もなか)を考案中です。葉をデザインした手ぬぐいの試作も考えています」(長野さん)
内野の大イチョウは福岡県指定天然記念物で樹齢500年といわれ、もとは雌株・雄株一対の夫婦イチョウだったが、雌株が大きすぎて周囲の田んぼの日陰になるという理由で昭和初期に伐採されたという。いま残っているのは雄株のみ。根元には薬師堂・福部神社、十二仏、猿田彦大神がある。猿田彦は物事のはじまりに道しるべとなって、何事も良い方向へ導く「みちひらき」の神様として知られる。


ここ内野地区も日本各地と同様に少子化が進んでいる。小学校は全校生徒が35人と聞いた。
地域の活性化を常に考えている長野さんは、子どもたちに手作りの味を覚えてもらおうと、四季折々に食企画を催している。その資金には飯塚市議を務めた夫の議員年金をあてている。12年間の議員生活は地域の人々からの支えがあったからこそのものだから、地域に循環させるのが一番の使い道だという。
「春にはよもぎを一緒に摘んで、郷土料理のヨモギもちを作って食べました。また、私が子どものころに植えた小学校の梅は、幸いに今年も実をつけてくれたので梅漬けを一緒に楽しみましたよ」
2024年6月発行の「飯塚芸術文化新聞」に内野小学校の「梅活動」の記事があった。地域のつながり、人のつながり、そのあたたかさや大切さを感じるという学校長のコメントと「学校の自慢は梅活動です」という児童の声が紹介されている。昭和20年代に入学した長野さんらが卒業記念に植樹した梅の木が、豊かな梅林となって学校や保護者、地域が一体となり脈々と続いている。
「舌の記憶は一生もので心のふるさとですね。どんな人生を歩いても必ずや心のよりどころになると思います」(長野さん)

15歳のとき、長野さんは母親が一夜にして急逝し、一家の台所をあずかることになり、時折助けにきてくれる祖母の教えからさまざまな食術を会得したという。「自分の人生を自分で切り開くには『自信』がないとできません」と長野さん。
知力・体力とともに、周囲をやる気にさせる長野さんの表現力を目の当たりにした。人生における最高の選択は自分で決めた道ではないだろうか。攻めるも守るも、自らが選ぶからこそ難所を乗り越えられる。「自信」とは、そういう意味も含むのではなかろうかと推察した次第だ。
<長野さんの、1年の主な仕事>(西日本新聞記事より)

*ドレッシング、ゆずこしょう、コショウみそ作り、赤麹の加工は通年
撮影/大串祥子 文/ブルーム企画・米澤克恵
撮影/大串祥子 文/ブルーム企画・米澤克恵