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《わかめ篇①》わかめを作り、食べてもらうことが支援への恩返し。家族でわかめ漁を支え合う

岩手県宮古市 重茂漁業協同組合
佐々木宏樹さん(37歳) 佐々木知宏さん(67歳)
▼動画(約5分10秒、音声・字幕つき)
本州最東端に位置する岩手県宮古市重茂半島は、県内一位のわかめ収穫量を誇り、品質の高さでも定評のある産地です。しかし、わかめの国内自給率は安価な中国や韓国の輸入品に押され、今や15%前後にとどまっています。加えて海水温の上昇による不漁や高齢化による廃業、後継者不足など、生産事情は厳しさを増す一方です。

重茂半島に点在する漁港を統括している重茂漁業協同組合の理事でもあり、わかめ漁師である佐々木知宏さんは、家業であるわかめ漁の代表を今年、長男の宏樹さんに継承しました。親から子へ受け継がれるわかめ漁について、お二人に伺います。
(左から)佐々木宏樹さん(37歳)と父・知宏さん(67歳)。

生活クラブのわかめを生産している重茂地区

すぐに山間部へとつながる重茂の海岸。

岩手県南東、無数の入江と半島の連なる三陸海岸の中でも最大の重茂半島。海岸から緑に覆われた山間部へと急斜面が続く、厳しくも美しい風景の中に重茂があります。漁業に従事する世帯が約9割にも及ぶ漁村である重茂の漁業を古くから支え、漁場や加工場、出荷する製品の品質管理まで担ってきたのが、重茂漁協です。生活クラブと重茂漁協の提携関係は長く、40年以上にわたって高品質なわかめ製品を安定して出荷してきました。

高台からは肉厚わかめが水揚げされる音部(おとべ)漁港と加工施設が一望できる。

きれいな水と海を守るために

漁業に従事し生活を支えている地域では、きれいな海が何よりの財産です。重茂では日本各地で水質汚染や海洋汚染が社会問題となっていた1976年から、漁協の女性部を中心に「合成洗剤追放運動」を始めました。

「合成洗剤を売らない・買わない・使わない」をスローガンとしたこの運動は地域にしっかりと根付き、以来45年間、洗濯や食器洗い、ハンドソープなどは重茂漁協で共同購入するせっけんが使われ、住民が一丸となって徹底した水質保全に取り組んできました。

漁港の入り口に掲げられた看板。地域をあげて海を守る決意の表れです。
わかめ加工場での手洗いにもせっけん成分のハンドソープが使われています。

重茂で生まれ育ち、わかめ漁を継ぐ

「ヘドロのないきれいな海だから、子どもの頃から泳いだり釣りをしたり貝などを採ったり、海と過ごすことが当たり前として育ってきました」と、佐々木家の家業を継いだ長男、37歳の宏樹さんは言います。

「わかめ漁はきつい仕事です。僕は小学校5年生の頃に病気をして、食事や運動の制限もしなくてはならなかったので、自分も含めて家中みんなが、もう家業は継げないだろうなと思っていた時期がありました。そのため、違う職につくことも考えて工業高校に進みましたが、その頃には体調も良くなっていたこともあり、やはり家業であるわかめの仕事をしようと思いました。地域で一緒に育った同級生たちが家業を継ぐと決めたことも背中を押してくれましたね」

高校卒業後、家業のわかめ漁を継ぐことを決めたという宏樹さん。

重茂の養殖わかめ漁の歴史は長く、親子代々で受け継がれてきた漁場で天然資源を採り尽くすことのないようわかめを植え、育て、収穫し、資源を枯渇させないサステイナブルな漁です。

「わかめ養殖は漁業の中でも農業に近く、6月ごろ種を取るために残しておいたわかめをコレクターと呼ばれるシュロの紐と一緒に種付け用のタンクに入れることで、雌株から出た胞子がコレクターに付着します。その状態で海に戻しておくと、種と呼ぶ苗が生えてきます。11月ごろにそれを養殖用の縄に巻きつけてまた海で育て、ていねいに間引きをしながら2月後半まで大きく育て、収穫します。子どもの頃はいやいや手伝っていたけど、結局その頃からこのわかめが育つサイクルと一緒に育ってきたので、身体に染み付いているようなところはありますね」

わかめの成長を妨げないよう、途中で付着した他の海藻を取り除いたり、間引きをして、季節を経て大きく育ててゆく。その仕事は、確かに海の畑のようです。間引きをしたわかめの新芽も無駄にすることなく「春いちばん」という旬の味覚として楽しまれています。

コレクターと呼ばれるシュロの紐。これにわかめの胞子をつけて発芽させる。

3.11の大津波を乗り越えて

しかし、子どもの頃から大切に守り、慣れ親しんだ海が突然、激しい牙をむきました。2011年3月11日の東日本大震災の際に、この地域には時速115km、高さ40.5メートルという国内観測史上もっとも高い津波が押し寄せたのです。海岸から急勾配で続く重茂地区の山のふもとは、8年が経過したいまでも、海岸から一定の高さまで土が大きく削れ、ごつごつとした山肌の岩や木の根がむき出しになったままになっています。

「津波が引いて見に行くと、わかめの養殖設備も、船も、漁港も、加工施設も、何もかもがなくなっていました。自分も当時はまだまだ若かったので、絶望しかなくて、もうこれはダメかもしれないと思いました。でも、先輩たちが、大丈夫だ、頑張ろうと自分たち若手を引っ張ってくれました。先輩たちのことは今でもとても尊敬しています」
外洋に突き出すかたちの海岸を擁し、過去にも津波の被害に遭っている重茂姉吉(おもえあねよし)地区には「大津浪記念碑」という石碑が建っています。

『想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな』(ここより下に住むべからず)

明治29年、昭和8年の津波の被害を受け、こう刻まれた石碑の教えにより、重茂の集落は海から少し離れた高台に集まっています。2011年3月11日には、その2度の記録を塗り替える大津波が押し寄せた重茂でしたが、おかげで人的被害と住宅被害は最小限に食い止められたそうです。それでも低いところにあった集落は被害にあったところもありました。当然、海岸の船や漁場、養殖施設は全滅し、わかめ漁は深刻なダメージを受けます。
明治と昭和の大津波の到達点を示す碑(写真:魚本勝之)
3.11の「青い津波」を捉えた音部漁港の写真が残されていた。(写真:重茂漁協)

生活クラブの組合員から寄せられたカンパ

宏樹さんの父親で、重茂漁協の理事でもある知宏さんは、震災からの復興の様子をこう語ります。

「消防団員でもある私は、地震のあとにすぐ港に降りて、沖に出ていた船が戻って来るのを確認してから、自分も高台に逃げました。押し寄せた津波は青くて、変な言い方だけども、とてもきれいなものでした。ここで漁をしている限り、規模の大小はあっても津波は必ず来る。だから毎回乗り越えて、なんとかやっていくしかないんですよね。若い連中は相当ショックだったと思いますけど、頑張りましたよ。生活クラブさんは、すぐに組合員から寄せられたカンパや支援物資を送ってくれたので、本当にありがたかったし、助かりました。食のつながり、食が結ぶ絆を感じましたね」

重茂漁協では、行政の支援を待たず、自らすぐに行動を始めました。北海道や日本海側の漁港を回って中古のサッパ船と呼ばれる小型の船を集め、わかめ漁復興への足がかりとしました。例年3月から4月はちょうどわかめ収穫の時期ですが、養殖わかめは全て施設ごと流されてしまったので、動ける人が天然わかめを採り、その売り上げを漁協の組合員全体で分配し当面の収入に充てたといいます。そして6月になると、わかめの種作りの季節です。被災してまだ3か月しか経っていませんでしたが、漁場ではすぐに翌年に収穫する養殖わかめの準備に動きだします。

生活クラブでは一刻も早い復興を願って、おおぜいの組合員からカンパを募り寄贈しました。そのカンパ金は定置網船の造船費用に充てられ、震災の翌年には「第二与奈丸」が完成。生活クラブの組合員も現地を訪れ船の完成を祝いました。また、他にも2隻の定置網船の造船にカンパ金が活用され、毎年少しずつわかめ養殖施設の復旧も進み、震災後8年が経った今年(2019年)、ようやく震災前の約75%まで養殖わかめ施設が復興しました。

生活クラブ組合員からのカンパ金で建造した定置網船「第二与奈丸」。

「震災をきっかけにやめてしまった漁師もいます。若い世代がいるところは、彼らが頑張ったけれど、跡継ぎがいないところは諦めちゃったよね。重茂のわかめ養殖が震災前の規模に戻ることはもうないかもしれないね」と知宏さん。

震災の爪痕は、重茂の人々の生活に未だ大きな影響を残しています。

津波を受け入れ乗り越えて生きるのもまた、この地の漁師の覚悟なのだ。

肉厚わかめ

三陸のきれいな海で育った、おいしくて安心のわかめ
提携先の重茂(おもえ)漁協は、岩手県沿岸中央部の宮古市に位置し、本州最東端の地・重茂半島にあります。沖合は親潮と黒潮の寒暖流が交差する海域で、潮の流れが激しいため、わかめが肉厚に育ちます。もっちりとした歯ごたえが評判です。名前のとおり「肉厚」なのは、育つ環境のおかげです。

「肉厚わかめ」の紹介ページはこちら

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